月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第四幕(後編)
「警察が入ってるんですか?」
「そうみたい。こないだの件だけじゃないらしいの」
病院の噂を再び聞いたのは、次の水曜の教室が終わった後、小学二年の子を迎えに来た母親からだった。
その日の午前中、彼女は聖清会病院の隣りの老健施設に顔を出してきたと言う。
「医療ミスを認めないって、遺族が警察に訴えたんですって。うちの父も、なんだか怯えちゃって」
が、そこで母親はふいに口をつぐんだ。
「あの、先生の妹さん。あそこのお医者さまでしたわね」
ええ、まあ、とわたしは笑ってみせた。「まだ半分、修業中の身で」
どうやら、かなり大変な事態らしい。
もっとも、わたしにとって重要なのは、真田も夾子も本当にてんてこ舞いしているのだ、と納得することだけだった。
今度、彼が現れたら。
わたしの想いは美希の進歩を、それも芝居が好きなのではという彼のサジェスチョンからなのだと、早く知らせたいだけだった。
翌週の月曜までに、小間使いのセリフはさらに増えた。
関係代名詞を使う長いもの、ハリス役の陽平と美希との掛け合い場面まで作った。それは半ばは純粋な期待から、半ばは陽平の親の懐柔を企んだものだった。
その掛け合いの場面で、だが陽平の芝居は変化をみせた。
オーバーな手振りが影を潜め、これ見よがしな濁声が止んだ。といって、思ったほど甲高い子供の声でもなかった。
やはり、もう少しずつ声変わりが始まっていた。
そして陽平の台詞は絶叫ではなく、語りかけになった。意図が意思として、深みを伴って伝わってくる。
英語力でも技術でもない、美希の感情の起伏そのものが、おそらくは陽平の台詞まわしを本来の意味で劇的にしたのだった。
その日のレッスンが終わり、二人は階段に並んで腰掛けていた。
「五年生だって? どこの学校だよ」
「すぐそこ」
素に戻った幼い顔つきで、美希は家の外を指差している。
「でも、保健室にばっかりいるの。すぐ休んじゃうし」
「何で休むんだ」
あのね、と答えに詰まったが、「二年前は、熊本の国立付属にいたの」と教えた。
虐めか、と呟く陽平に、美希は曖昧に頷いた。
「あのさ」
やがて躊躇しながら、陽平は訊いた。
「俺の、あれ。ちっちゃいかな」
わたしは思わず吹き出しかけた。リビングの椅子を片づける振りをしながら、横目で見やった陽平の顔は真剣そのものだった。
「あれって?」
おかっぱ頭の美希は惚けたように問い返す。が、陽平の足にしがみつき、あれだけ蹴飛ばされていれば、何も目に入っていなくて当然だ。
「馬鹿っ、あれだよ、あれ」
いつもの濁声で、陽平は怒鳴った。
美希は一瞬、遠い視線をさまよわせると、ううん、と首を横に振った。
「そうか。ならいい」
気が済んだというように陽平は頷いた。
凶暴さを衒った、しかめた眉がなければ、昔よくいたくりくり坊主をいくらか上品にしたような顔立ちだった。
わたしは自ら教育者だなどと自負したことはない。
他の子供たちといるとき、子供はすでに社会人だ、と何かの本で読んだ。なぜなら、そこはひとつの社会だから。
ならば社会的人格は、その集団の中でしか形成されるまい。教育へ向けた大人の使命感など無意味だし、さらには子供一般を普遍的に愛するなんて、いかにも眉唾に違いない。
実際、教室は成り行きで始めたに過ぎず、自分にメリットがあるから続けているだけだ。またドライであればあるほど、うるさ型の親をむしろ上手くあしらえるのだ、とも考えている。
しかしそれでも未熟な生き物に芽生えかけた何かに、目を見張る瞬間はある。驚きとともに、芽生えたものなら枝葉が伸び、蕾をつける程度まで見届けたくなるのは人情だろう。
もしそれが叶わず、ただ意味もなく、むしり取られたとすれば。
そんな顛末は、やはり悲劇と呼ぶべきだ。
ギリシャ劇のようなカタルシスすらもたらさない悲劇の一報は、その週の木曜の夕刻にもたらされた。
「先生、お聞きになりました?」
電話してきたのは、月曜クラスの敏彦の母親だった。
「アーネストくんが。昨日、公園で」
陽平の通夜は、その晩だった。
とりあえず、美希には何も教えなかった。
明日の教室にも参加させるから、いい子にしていて、とだけ言い聞かせて家を出た。
バスで二つ目の停留所を下り、住宅街の夜道を行くと、陽平宅にもほど近い寺がある。この辺りではよく知られた大きな寺院だ。
門をくぐり、木立を抜けて、しんと静まった板敷きへ上がった。
一番手前の椅子に姉川夫妻が並んでいた。喪服の母親は、ただでさえ丸い顔をぱんぱんに腫らし、ハンカチで目を擦っていた。
結婚九年目にして授かった一粒種と聞いていた。
陽平は公園のジャングルジムから落ち、頭を打って死んだという。
仏前の写真はずいぶん以前のものらしかった。四日前の教室で見たときより幼い。が、「あれだよ、あれ」と美希に怒鳴った後の、きょろんとした表情を浮かべている。
そう見て取ったとたん、目の前に靄がかかった。
威張り屋で照れ屋の、中小企業の社長じみた子供。本当にそんなふうに成長してゆくところを、もう誰も見ることはないのだ。身体が小さいとその分、消えて亡くなるのもあっけないのか。
しかし、たとえ通夜でも、人前で涙を見せるのは大嫌いだ。
と、焼香を終えたときだった。母親が何か叫んだ。
まっすぐこちらへ向かってくる。後ずさりもできずにいると、掴みかかられた。
目を剥き、歪みきった形相で意味不明なことを喚く。
「加奈子、よしなさい。あとで警察に」
夫が取り押さえ、わたしはようやく解放された。
加奈子と呼ばれた母親は、親族らしい数人の男たちに引きずられ、席に戻された。再び腰掛けるや、椅子からずり落ち、床に突っ伏してむせび泣いている。
その間、陽平の父親、その男たちの誰もわたしに一目もくれなかった。
焼香の順番を待つ喪服の人々は衝撃を受け、好奇の目で窺っている。
訳がわからないまま、逃げるようにその場を離れた。
暗い路を急ぎ足でバス停に引き返そうとしたとき、「先生」と、後ろから呼ぶ声がした。
敏彦の母親だった。寺の板敷きで見かけたが、すぐに出て追いついてきたらしい。
「あの、姪御さんは」と、周りをはばかるように囁く。
「陽平くんについて、何か言ってませんでした?」
何かとは、何のことか。
「やっぱり、ご存じじゃなかったんですね。事故のことも聞いておられなかったし、もしかしてと思って」
短い髪を掻き上げながら、息子そっくりの思慮深そうな目を逸らす。
「陽平くんが落ちたとき、姪御さんが一緒にいたらしいんですよ」
家の玄関の前にはすでに、若い婦警と刑事が待っていた。
「夜分に申し訳ありません。美希さんは?」と名刺を差し出す。
美希は、とわたしは急いで言葉を探していた。他人様から難癖をつけられた子の親は、こんな気持ちなのか。
「昨日から、ごく大人しくしてます。風邪を引いたらしくて、頭が痛いと学校は休んだんですが。別段、変わったことは何も」
ごく大人しく。
そう、大人しすぎた。
わたしの早口をなだめるように刑事は頷き、早く入りたそうにドアを見やった。
リビングのソファで、美希はテレビを見ていた。
そのテレビを消したりせず、驚かせないように、ただ音量を絞った。
美希はわたしと、見慣れぬ二人の大人を見上げた。
「美希ちゃん」
若い婦警が声をかけ、ソファの前にしゃがみ込んだ。
「あのね、教えてもらえるかな」
若いといっても三〇過ぎだ。ぽてぽてした笑顔で、正面から顔を覗く。
「アーネストくんとジャングルジムで遊んでいたのは、何時頃まで?」
アーネストと呼んだのは、正解だったかもしれない。が、美希の表情は急速に強張っていった。あの紺の制服でなく、せめてワンピースでも着ていてくれれば。
「学校の帰りでしょ?」婦警は構わず続けていた。
「アーネストくんね、ジャングルジムから落っこっちゃったんだ。そのとき美希ちゃん、見てたのかな」
ごく微かに美希の頭が動いたようだった。
が、肯定とも否定とも判明しがたい。
わたしはその場を離れ、ダイニングへ階段を上った。何人もの大人に囲まれると、美希にかぎらず、子供は誰の気持ちに添ったらいいか、わからなくなる。
「でね、倒れているのを見つけた人が、救急車を呼んだの」
背中越しに、婦警の声が聞こえていた。
「そのとき美希ちゃん、もう公園にいなかったよね」
公園にいなかった。
どういうことだろう。
二階の手摺りから下を覗いた。
ソファの美希と、それに対面する婦警。三〇代後半とおぼしき山城という細面の刑事はスーツ姿で、脇の椅子に前屈みに腰掛けている。
喪服姿のまま、わたしは湯飲みと急須、美希のジュースをなるべくゆっくり、時間をかけて用意していた。
「救急車を呼んだ大人の人はね、公園から走って出てゆく小学生ぐらいの女の子を見たんだって。オレンジ色のビニールジャケットを羽織っていたって言うんだけど、美希ちゃんだったのかな」
突然、金切り声が響いた。
わたしは慌てて降りていった。美希は泣き叫び、手当たり次第にクッションを投げつけている。
刑事が押さえにかかると、逃れるようにソファから床にずり落ちた。口から白い泡を吹き、震えている。婦警は美希の上半身を抱き起こした。
わたしはその口にタオルを噛ませた。
「大丈夫です、まったく心配いりません」と、できるだけ落ち着いた声で言う。彼らよりむしろ、美希に聞かせるためだった。
「病院に連れていきましょう。パトカーを呼びます」
刑事が腰を上げた。
「聖清会病院に、妹が勤めてます」
が、刑事は躊躇した。もしかしてこの機会に、問い詰めやすい場所へ運ぼうとでもいうのか。
「もともと美希と同居していた女医なんです」
刑事は頷いた。驚いたことに、「今夜は当直でおられるはずですね」と言う。
「美希ちゃんは公園を出て、病院近くの電話ボックスから、その妹さんに電話したようです」
「夾子に話したんですか? 事故を目撃した、と」
「妹さんはそこまで出向き、美希ちゃんと会ったそうですが」
刑事は首を傾げていた。「言っていることが支離滅裂で、何があったかはわからなかった、と」
わたしは喪服を着替えるため、寝室に入ろうとした。
「いえ。どうぞ、ここでお待ちください」と、刑事は言い張った。
「聖清会病院にお連れします。妹さんには、ここに連絡を入れるよう、伝えておきますよ」
そんなやりとりをするうち、暗い窓の外から入り込んだ赤ランプの光が回転し、廊下の壁を横切った。
早くもパトカーが着いたのだった。
夾子からの電話があったのは、深夜一時をまわった頃だった。
「だいぶ落ち着いた。例のヒステリーの発作よ」
タオルを噛ませる処置は夾子から教えられたものだったが、実際にやったのは初めてだった。
「最近、半年ばかり起きてなかったからね。刑事さん、てんかんと勘違いしたんじゃないかな」
自分の手に負えない事態となると発症する場合が多い、と聞かされていた。
「美希が昨日、病院に電話してきたって」
なぜ教えてくれなかったの、と責めたつもりだった。
「うん。ただ興奮して、訳のわからんこと言っとったけん。子供同士で喧嘩でんしたっだろ、ぐらいしか思わんだった」
熊本弁でそう言われると、妙に力が抜けてしまう。
「すぐ泣きやんで帰ったし。病院の近くまで来て、自分で電話してこられるようになったって、感心したぐらいよ」
ありがと、楡木子姉さん、と妹は言った。
「美希は何日か入院させて、そのままこっちに引き取る。あたしの怪我もよくなったし、これ以上、姉さんに迷惑かけられない」
(第08回 第四幕 後編 了)
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