アンドレイ・タルコフスキー監督作品
1975年公開
『鏡』を最初にスクリーンで見たのは大学2年生の頃だから、計算するに公開されて数年後のことだった。当時前衛的な映画の自主上映を行っていた法政大学の映画サークル『シアターゼロ』によるソビエト映画特集上映会で、市谷の法政大学キャンパス大教室に設けられたスクリーンだったように記憶する。
1986年54歳のときに亡命先のパリで客死したタルコフスキー監督は、わずか7本の長編映画を残しただけだったが、その4作目となる『鏡』は自伝的映像詩と呼ばれ、公開後数年ですでに伝説的な難解映画として映画フリークの耳目を集めるに至っていた。『シアターゼロ』のソビエト映画特集では、ゲオルギー・シャンゲラーヤ監督の『ピロスマニ』との2本立てだったが、大教室の席はあらかた埋まっていたように記憶する。
それからおよそ30年を経て再びスクリーンで『鏡』を見る機会を得たのは、昨年11月の早稲田松竹だった。タルコフスキー監督の代表作『惑星ソラリス』との2本立てだったが、監督の死後四半世紀を過ぎたとはいえ会場はほぼ満席の盛況だった。
実はこの30年の間に一度だけDVDで『鏡』を見直したことがあったが、30インチのテレビモニターに映る『鏡』が、初めてスクリーンで観たときと同じ感興を呼び起こすまでには至らなかった。
*
何の変哲もない部屋におかれたテレビの、スイッチを入れるどこにでもいそうな少年で幕を開ける。ブラウン管の砂嵐からテレビ画面に切り替わる。
暗い表情の青年のアップに、きつい口調の女の声がかぶさる。
「あなたの名前を正確に」「では出身地を教えて」
青年は極度のどもりで、言葉がなかなか出てこない。苦しみながらやっと名前を搾り出す。
白衣の女医らしき女が青年の横に立ち、自分の眉間に指を当てながら青年に向かって言う。
「ではこれから治療を行います。ここを見なさい。」
青年の目の前にかざした人差し指をゆっくりと自分に近づける女医。
指に引かれるように青年の体が前のめりになると、やがて堪え切れずにつんのめる。
次に女医が青年の後頭部に手を当て、「この手に引っ張られるはず」と言ってゆっくり手を引いていくと、後ろ向きに青年の体が傾ぎ、やがて堪え切れずに後退る。
今度は青年が両手を広げて腕を胸の前に差し出す。女医が青年のこめかみから手を指でなぞり、脳の緊張が指先に伝わることを諭す。
ゆっくりと3つ数える女医。「いち・・に・・さん」
青年の両手は動かそうとしても微動だにしなくなる。それを見計らって女医が、脳の緊張が解けさえすれば言葉を話すことができると青年に伝える。
「自分の声を怖がらずに」
「すらすら話せるようになるのよ」
「今後一生。いいわね。」
「いち、にい、さん。」
カメラを見つめる青年のアップ。女医に促されて青年が恐る恐る口を開く。
「僕は話せます。」
この後画面はクレジットタイトルに変り、この冒頭3分間に及ぶシーンが本編の前置きと知れるのだが、前置きとはいえ唐突なほど現実的な映像のうえに、それがテレビ番組であるという胡散臭さもあってか、観客の大方がこの映像の意図を測りかねるまま、半ば強引に本編に向き合わされることとなる。
ではタルコフスキーは自伝的な映画の照れ隠しに、のっけから観客を煙に巻くつもりなのか。もちろん答えは否である。
この冒頭の治療シーンには二つの意味が込められていると思われる。
一つは、「どもり」というトラウマ(=幼児体験の記憶)に起因する病いを通して、自伝という「記憶」がもたらす苦しみと癒しを象徴している。つまり彼の自分史=過去とは苦しみの記憶によって形作られており、そうした記憶を映画として表現することで自らの癒しを為す。そうしたメッセージを冒頭で観客に示したという意味である。
もう一つは、言葉を発するということに対する彼自身のコンプレックスである。タルコフスキーが「どもり」だったかどうかは寡聞にして知らないが、言葉を発することに彼自身が特別の感情を秘めていたのではないかという疑いがこのシーンとなって表れているように思える。しかし、この冒頭部分だけを観た限りでは、それはあくまでも疑いでしかない。ここでは実父であるアルセニー・タルコフスキーがウクライナの著名な詩人であり、その詩が『鏡』の中で監督本人によって朗読されていることを指摘するにとどめたい。
『鏡』の本編は、草原を見晴るかす庭先に渡した、二本の木の柵に座る女の後姿で始まる。この煙草を吸う束ね髪の若い女は、この自伝映画の主役であるタルコフスキー監督の母役のようだ。そこへ彼方から見知らぬ男の人影が草原の一本道を近付いて来る。既に父は姿を消した後だという意味のナレーションが場面にかぶさる。そして母と男との思わせぶりな遭遇は、男が母と並んで腰掛けた際、木の柵が見事に真っ二つに折れ、二人揃って逆様にひっくり返るのをきっかけに終わりへと向かう。
去っていく男に背を向けて家のほうへ歩き出す母。ここから前述した実父アルセニーの詩が監督本人によって朗読される。この3分を優に越える朗読シーンは『鏡』の中でも特に印象的である。長い詩だが全編を引する。「—」の後の説明は映像カット。
逢瀬の一瞬また一瞬を
祭りのごとく祝った
世界は二人のもの—————————————-(家へと歩きながら突然振り返る母)
君は鳥の羽より軽やかに大胆に
階段を駆け下り僕を誘い入れた———————–(坊主頭の少年の顔 背景で焚き火が燃えている)
ぬれそぼるライラックの中を抜け
鏡の向こう 君の世界へと—————————–(庭先で眠る少女を抱き起こす乳母)
夜のとばりが下り
慈愛が僕を満たした
祭壇の扉が開かれ 裸体は闇に輝き—————–(暗い家の中)
静かにその身を傾ける———————————-(食卓にこぼれたミルクをなめる黒い猫)
僕はつぶやく「君に幸あれ」と————————–(少年が猫の頭に砂糖をかける)
だが分かっていた その祈りの不遜さを————-(立ったまま腕を組んで見下ろす母)
眠る君のまぶたを 宇宙の色で染めるライラック
青く染まったまぶたは
安らぎに満ち———————————————–(腕を組んだままで窓辺の椅子に座る母)
手は温かだった
水晶の中で川は脈打ち———————————–(窓辺に開いたままのノート 外を見遣る母)
山々はかすみ海はきらめく
君はその水晶の天球を手に——————————(そぼ降る雨の庭)
王座に眠る
ああ君は僕のものだった———————————(庭先のベンチに置かれたガラスのコップ)
君は別のものにした
人の語る日常の言葉を————————————(窓辺から雨粒が落ちている)
言葉は力に満ち響き渡った
「君」という言葉が新たな意味を明かす
「君」すなわち「王」なのだ
この世は一変した
たらいまで違って見える
いずこへか運ばれる————————————–(暗い部屋で思い詰めたような母の顔)
草は足元にひれ伏し
鳥は共に旅をし——————————————-(涙をこらえる母のクローズアップ)
魚は川をさかのぼり
空は目の前に開けた————————————–(頬を伝う涙をぬぐう母)
その時 運命が僕らのすぐ後に
かみそりを手に狂人のように—————————-(振り返った母の首筋に3つの黒子)
母への思いを託した父の詩を朗読することで、父になり代わった監督自身の、エディプス的な母への執着が表現されている。このシーンが印象的なのは、父(=詩=言葉)に対するコンプレックスと母への性的執着という監督を苦しめ続ける過去の記憶が、ゆるぎない抒情をたたえた詩語と、その力に反するかのような静かな映像とによって、一枚の美しい癒しのタペストリーへと織り上げられていくからだ。
映画はまだ始まったばかりだが、このオープニングのわずか15分足らずで、監督は惜しげもなくこの自伝的映画の基本構造をさらけ出してしまう。しかしこれだけで『鏡』を語り尽くしたとはいえない。「自伝的」の「的」とは、映画がアンドレイ・タルコフスキーという個人の伝記にとどまらないことを、つまり一個人の歴史からもっと大きなものの歴史へと越え出ようとするものであることを示唆している。映画そのものの欲望によって。
スクリーンでは映画が続いている。次回は引き続き『鏡』の続きを観ながら、映画の欲望が個人の記憶をどこへと向かわせるのか考えたい。
緑川信夫
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■