ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
14(後編)
「たいした威力はなさそうだけど。ちょっと、やってみますかね」
仁はそれを手に取ると、スイッチを入れた。
「首とか、いってみっか?」と史朗に言う。史朗の目に怖れが閃くのが見えた。
「たいしたこと、ないだろ。女持ちなんだし。それとも記憶が飛ぶかな。今、ここにいることやなんかも」
仁は史朗の肩を押さえつけ、スタンガンを持った手を振り上げた。
やめろ、と史朗のか細い声が聞こえた。
「ねえ、やめて」と瑠璃も言った。周囲のテーブルから、今度ばかりは視線が向けられている。
仁は殴りつけるようにスタンガンを振り下ろし、史朗の喉元に突きつけた。
「ほら。触るとどうなる」
史朗は顔を歪め、その先端から逃れようと首を捻った。
はは、は、と仁は笑いながらそれを外し、周囲のテーブルに向かって顔を上げる。ふざけているのだ、という雰囲気が漂って、客らの緊張は解けた。
「どうして尾けてきたの?」瑠璃は史朗の顔を覗き込んだ。
「どこから? フェアグラウンド・ホテル?」
史朗は微かに頷いた。
「どうして? わたしの家の前にいたって、いつのこと?」
「ずいぶん前っすよ」と、仁が代わりに答える。「俺が最初に瑠璃さんちに行ったときだから、三週間ぐらい前」
とすれば、本当にかなり以前だ。最初に仁が来たときといえば、瓜崎の妻が訪ねて来たときではないか。瓜崎が亡くなる前、少なくとも遺体が上がる前。東戸塚のマンションで、瑠璃が史朗と会う前でもある。
「あのとき、あなたとは初対面だと思ってたけど」
史朗は目を上げ、瑠璃の顔を見た。
「どうして? わたしの自宅の場所を誰から?」
ボン子さん、と史朗は呟いた。そうだろう。それ以外にない。
「ただ、どんな人かと思って」
「わたしが?」
「瓜崎の女が」ぼそぼそと、だが吐き捨てるように史朗は言う。
「そりゃ違うだろ」と、仁が決めつけた。
「だって芝浦で瑠璃さんをやったのは、お前じゃないか。このマイオトロンでさ。そのときにもう、この人を見ただろ」
マイオトロン。ほっそりした、この女持ちのスタンガンが?
「誰がいじった?」と、仁は訊いた。
「中身を入れ替えて、電圧を上げるか何かしたんだろ。瓜崎か?」
いくら瓜崎でも、そんな改造が可能なのか。他のスタンガンとの差異は、電圧だけの問題ではなかったはずだが。
史朗は答えなかった。
だったら、いいさ、と仁は首を振った。「瑠璃さん。これから、これ警察に持って行きましょうよ」
「マイオトロンなんかじゃない」と、唐突に史朗が声を上げた。
「じゃ、何だ?」覆い被せるように仁が言った。
「バイオトロン、ってのはどうだろう」
背後から声がして、瑠璃と仁は振り返った。
寺内が立っていた。「保護者、到着しました。お騒がせいたしました。もう勘弁してやってくれよ」
「どう思うっすか?」仁は訊いた。
電車内で話すようなことではない。瑠璃はそう諫めようとしたが、口をきく気になれなかった。
史朗はポケットの中で携帯をいじり、寺内に緊急発信したらしかった。休日で家にいた寺内は、GPS機能のついたそれの位置を特定し、大急ぎでやってきた。
「じゃ、この子が瑠璃さんを尾けてること、あんたは知ってたわけだ」と仁は言った。「説明してもらいましょう」
そう、だねえ、と寺内は呑気な調子で返事をした。
「なかなか説明しづらいものがあるがねえ」
姫子は自殺だった。
スケートリンクのコーナーで、小さなテーブルにもう一つスツールを運び、腰を落ち着けると、寺内は言った。それもまた、そんなところで聞くようなことでもなかった。
「自殺って?」
瑠璃は思わず声を上げた。ホールに花が咲いたようだった、真っ赤なスーツ。自ら集めた大勢の同窓生たち。舞台裏から、高梨のカメラが廻っていた。その真ん中で、毒を飲んだとでも。
「たぶん、ね。心マヒを起こす可能性のある薬物を、化学科の研究室から持ってってる」
「警察には?」
寺内は肩をすくめた。「言ってない。姫子の遺言がある。自殺ってわかると、保険が下りない」
「生命保険のことね」
寺内は頷いた。「東戸塚のマンションを買うときに入らされたやつだから、まだ三年経ってない。不利な条項がやたらと付帯してる気がするが、母子家庭だったからかな」
「でも何も、」と言いかけ、瑠璃は言葉を呑み込んだ。
何も死ななくても。こんな少年を置いて。
「死ななければ、あのマンションを残せない。数ヶ月以内に競売にかけられたろうから」
自殺というのは隠してほしいというのが遺言だった、と寺内は言った。とはいえ書き残されたわけではない。誰かを呼び、あらたまって述べられたのでもなかった。
「じゃ、どうして。誰がそれを?」
皆が、と寺内は呟く。「感じ取ったんだ。姫子が死んだって聞いた瞬間に、ね」
遺言を感じ取った。そんな理屈があるだろうか。
「正確に言えば、化学科のオーバードクターの子が、彼女に頼まれて薬物を渡したと言っている、と高梨から聞いた瞬間、だったな。俺と柿浦とボン子の三人、同時に確信したわけだ。自殺だって」
なんて薬物っすか、と仁は訊いた。「そういうのって、厳重に管理されてますよね」
青山の教室に乗り込んできた四人の中にいて、また突然現れた寺内に、仁はあからさまに疑いの眼差しを向けた。
「トリフェタノールの異性体とかいうやつで、最近開発された生体接着剤だ。外科手術のときに使うし、劇物指定されるほどの毒性はない。ただ一定量を一ヶ月半以上の間、摂取すると心臓が弱る。そこへさらにその分量の十倍以上を入れると、心マヒが起きる可能性が極めて高くなるそうだ」
「そんなものを、なんて言って入手したの?」
「年明けに研究室にやってきて、姫子の勤めるシンクタンクで、製薬関係の市場展開を調査するとか言ったそうだ。まるっきり嘘というのでもないらしい。新製品に関する知識も、あらかじめ持ってたみたいだ。オーバードクターの彼は、姫子のいた研究室の後輩の、従兄弟に当たるそうだ。姫子の会社名だけで信用するに足りる」
院生なら、誰もが望む就職先だ。そのオーバードクターが警察に対し、姫子に薬物を渡したと自ら進んで話すはずもない。経歴に傷がつき、大学に残ることもおぼつかなくなる。
しかしながら一ヶ月半の間、それを摂取し続け、あの同窓会で一気に十倍量を飲んだ。本当のことだろうか。そんな計画的な覚悟があり得るのか。
「迷ってはいただろうな」と寺内は言う。「迷い続けるには、もってこいの薬物かもしれない。最後に大量摂取をしなければ、何ごともなく回復する。少量ずつ飲んでいる間は、これで死ねば何とかなる、と心が安らぐ」
「何とかって?」と訊き返しながら、瑠璃は史朗を見た。リンクコーナーのスツールの上で、史朗は黙って俯いている。
「お金のことだけなの?」
だとしたら、何と痛ましいことか。死ぬ必要などない、一つの健康な肉体が、金のためだけに費やされる。
そう、どうだろう、と寺内は言葉を濁した。
あのマンションを、どうしても競売にかけるわけにいかない。それは瓜崎の手前、死んでも避けたい。息子の史朗が、瓜崎の子供たちに引けを取るような真似だけは。
姫子のその思いは、以前にボン子から聞いた。
だが、まさしく比目子的な、その過剰な思いが経済状況を圧迫し、彼女と息子を追い詰めているのだとも、ボンは周囲に漏らしていた。食事や映画に史朗を連れ出しては、母親を諫めるよう忠告していた。
だから、比目子って呼ばれるのよ。あんたまで、お母さんの執念に付き合うことないのよ。むしろ付き合ってはだめ。
だから比目子って呼ばれる。
史朗の口から姫子の耳に入ったその一言が、彼女を激怒させた。
姫子は怒りにまかせて、あらぬことを口走り、それに尾鰭が付いた。ボン子の未成年者への猥褻行為疑惑というのは、この顛末だったようだ。
「わからないわ」
聞くうち、瑠璃は無性に腹が立ってきた。
「姫子が自殺したのを、皆で隠してあげてたわけ? 高梨も知ってて、なんでわたしを悪しざまに言うわけ? 同窓会で挙動不審だったとか、姫子と仲が悪かったとか。またそれを皆で、なんで言わせてるわけ?」
「薬物が検出されるからだろ」と、仁が口を挟んだ。「そんな十倍量なんか摂取して、解剖で検出されない方がおかしい。そのとき、毒でも盛られたように見せかけるためじゃないっすか」
「その犯人が、わたしってわけ?」
いや、と寺内は首を横に振った。
「砒素とか、そういった認知された毒物じゃない。新しい製品だし、もともと生体に使われるものだ。十倍量で一気に心臓に負担がかかるのもアルコールと一緒に摂取したときに限られるし、そのときにはすでに心臓は弱っているから、それ自体が原因薬物として検出される可能性は低い」
「やっぱり、わからないな」
仁の声は大きかったが、電車内では他人のしゃべっていることなど、誰も興味を示さない。気にするまでもないのだろう。
確かに、わからなかった。
寺内は史朗を連れて帰った。まさに万引きをした子を引き取りに来た保護者だった。史朗はボン子のほか、寺内からも世話され、庇護を受けている。美談だ。
「昔、瓜崎と関わりのあった君のことを、姫子が気にかけていたのは確かだ。再会したのも偶然じゃないかもしれない」と、寺内は言った。「高梨が君に言ったのは、その意を受けたつもりで、奴なりの理屈をこねただけのことだ。無論、奴自身の個人的な感情も交えてだろうが、君は巻き込まれる義務がある、と」
瑠璃は史朗を見た。他人が抱く感情をコントロールすることはできない。が、だからといって実体的な暴力まで奮われるとは。記憶を失う、という実害まで受けて。
「勘弁してやってくれ。父親の新しい女だと勘違いしたんだ」
史朗は瓜崎と何度も会っていたのだ、と言う。
瑠璃には意外だった。東戸塚のマンションで話したときの雰囲気では、瓜崎に一度でも会ったことがあるとは思えなかった。
「それは、お父さんとして?」
姫子はそう呼べと言った。が、瓜崎さん、としか呼ばなかったと言う。瓜崎の方から、そう呼べと言わないかぎり無理だろう。高校生の男の子が、そんな男とは会いたくないと言い出さないのが不思議なぐらいだ。
「母が、どうしても会えって言うから」と、史朗は呟いた。
「瓜崎くんの方は、どうして会うって?」
「父親と認めた、ってわけでもなかったみたいだが」
寺内が助け船を出した。すでに史朗の顔つきは、これ以上、瓜崎の話題は一瞬たりとも堪えられないというものだった。
「大衆向けの科学誌に、瓜崎の研究所が紹介されてね。史朗くんがそれに関心を持ったからって」
「そうなの?」と、瑠璃は史朗の目を覗き込んだ。史朗は視線を上げなかった。
「と、まあ、姫子から奴に連絡がいったんだな。十数年ぶりに」
理数系に優れた男の子で、あなたの研究に非常に心惹かれている、と。しかも、瓜崎のマンションから目と鼻の先に越してきている。
「だけど、あんたに似てるとか、息子なんだから、とかは言わなかったそうだよ。ボン子によるとね」
言わなくたって、それは実際、緩やかな脅しそのものだ。
ともあれ瓜崎は、東戸塚の自宅近くで史朗と会い、史朗はその後、四回に渡って研究所を訪ねた。
「じゃ、ずいぶん親しくなったでしょう」
お父さんと、という言葉を、瑠璃は呑み込んだ。
「研究に関しては」と、史朗は呟いた。
いろいろと教えてもらったらしい。自分の研究について訊かれれば、瓜崎は機嫌よく、いくらでも説明しただろう。姫子もまた、それを十分承知していたに違いなかった。
「あの研究所は教育機関も兼ねてるからね。博士課程以上ではあるけれど。優秀な高校生が通ったって、おかしくはない。で、研究のことと、施設や設備のこと、それと史朗くんの勉強や進路のことや何かは話した。だけど、それ以外は」と、寺内は息を吐いた。
つまりは教育機関の教授として接した、ということだ。プライベートな話をさせる隙を見せなかった。高校生の男の子には、そんな拒絶に対して為す術もなかった。
そんなことが。瑠璃は、なかば信じられなかった。いかにあの瓜崎であっても、血を分けた息子に、その態度で押し通せるとは。
「それで母が、」と言ったきり、史朗は言葉に詰まった。
寺内は史朗をちらりと眺めると、先を引き取った。
「まあ、姫子は、ちょっとばかり焦ってたみたいでね」
このままではマンションを手放すことになる。どうやら格好だけは肩を並べたつもりの瓜崎の家庭から、また突き放される。そんな状況に陥った頃だったらしい。
「瓜崎くんから援助を引き出そうとしたのね」
この子を使って、とまでは言わなかった。が、寺内は史朗に目を向けて頷いた。
「援助でなくても、せめて父親らしい言葉の一つでも、ってね。さもなければ、ただ独り相撲に負けて去ることになる」
(第28回 第14章 後編 最終回 了)
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