ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
14(前編)
タクシーにも乗らず、二人は黙って歩いていた。
目黒駅に近づくと、「何、食べたい?」と、瑠璃は訊いた。「ご馳走する。ステーキでも何でも」
何だか、この子に食べさせてばかりいる。他に、どう言っていいか、わからないのだ。
「ギョーザ。王将でいい」仁は吐き捨てるように言った。
あのホテルで今頃、実々はバスローブでも羽織り、ルームサービスのフランス料理を食べているだろうか。
自分なら、そんな食事はしたくもない。だが結局、どうしようもあるまい。いずれ何か食べなくてはならないし、服はクリーニング中で出られないのだ。
瑠璃の格好といえば、実々を追い詰めるためもあり、手持ちで最も高価なCDのジャガード織りスーツ姿だった。油の匂いのするギョーザ店で、それはかなり浮くだろう。が、仁の当てつけだとは思わなかった。後味の悪い、むしゃくしゃした気分は瑠璃も同じだ。
実々を前にしている間は、後に引くわけにいかなかった。彼女が何を言い出すか、見当もつかないままの駆け引きだ。
「どういう意味?」
ほんとにいるなんて、という瑠璃の言葉にはしかし、実々はやはり引っかかった。とはいうものの、どういう意味なのか、瑠璃自身も知らない。
瑠璃は肩をすくめ、ゆっくりと首を横に振ってみせた。単なる時間稼ぎだった。
「わたしがここに来るって、誰に訊いたの?」
誰って、と瑠璃は口ごもる。瑠璃のあやふやさは思わぬ効果をもたらし、実々は焦燥の色を露わにした。
「蓮谷さんよ」
ふいに思いついて、瑠璃は言った。「瓜崎くんと蓮谷さんが一緒にいたところに、あなた、出会ったでしょう。若い男の子を連れてたって言ってたけど、ああ、そうか」と仁を見やる。
「あなた、何かすごい格好してたって、蓮谷さんが言ってたけど。しょっちゅう撮影してるのね」
その言葉の嫌味な響きに、実々は弾かれるように反応した。
「蓮谷って、瓜崎くんといた人のこと? なんで、わたしの名前を」
実々の表情を、瑠璃は注意深く見て取った。
嘘ではない。実々は蓮谷を知らないのだ。
「瓜崎くんが教えたんじゃないの? あなたも瓜崎くんも、このホテルをよく使うのね。でも、まさか、ほんとにいるなんて」
実々は、ぐっと黙り込む。
やはり、これがキーワードらしい。
「まったく、ねえ。ほんとにいるなんて」瑠璃は繰り返した。
「蓮谷さんって、知らないの? 栞ちゃんの親しい人みたいだけど。栞ちゃんって、ええと、ボン子の後輩よ」
一人ずつ名を挙げるたび、実々の顔つきは険しくなり、視線が泳ぐ。それに気づいた瑠璃は、事情に通じたふうに態度を変えた。
「彼女、鮎瀬くんのガールフレンドだったの。鮎瀬くんって、亡くなる前、上高地で瓜崎くんに会ってるでしょ。それでこの間、鮎瀬くんを偲んで、栞ちゃんと松本まで行って」
だから、と実々は低く呟いた。
「今度は、わたしだってわけ?」
え、と瑠璃は訊き返した。
「こんなところにまで、踏み込んできて。わたしの番なの?」
わたしの番。
どういう意味なのか。瑠璃はただ、実々を見るしかなかった。
「わたしをはめたってこと? 今日はそんなつもりなんか、なかったわよ。同じホテルで撮影したいって言うから」
と、実々は一瞬、目を見開き、仁と瑠璃を見比べた。
何か気づいてしまったろうか。が、まだ早すぎる。
「はめた、だなんて」瑠璃は頭を振り、実々の視線を引いた。
「あなたがよくここに来ている、って聞いただけよ。面白い格好して、見ものだって」
当てずっぽうのでまかせだった。仁から注意を逸らすため、言葉を繋いだだけだ。が、実々の目は怒気を孕み、大きく見開いた。
「見もの、ですって?」
そうよ、と瑠璃は応じた。
「実際、あなたは派手な格好で、若い男の子と、」
「そんなんじゃなかったでしょ」実々は叫んだ。
「瓜崎くんの情報が欲しかったんじゃないの? 協力しただけなのに、なんで、こっちがそんなこと言われるのよ」
瓜崎の情報。それに協力。誰に、だ。
が、瑠璃はその疑念を顔に出さなかった。何もかも知っている。そう装わねばならない。知らない者は埒外に出されたまま、気づかぬうちに崖縁まで追い詰められるのだ。
「踏み込んできたのは、あんたたちの方じゃないの」
ねえ、と瑠璃は仁にも相槌を求めた。
「わたしに覚えのないメールのことなんかで、青山の教室にまで。いったい何なの? しかも瓜崎くん、柿浦のとこにいたっていうじゃない?」
実々は驚いて瑠璃を見た。この表情もたぶん、嘘ではない。
「まさか、知らなかったっていうんじゃないでしょうね」
瑠璃は呆れ果て、吐き捨てるように言った。「瓜崎くんの居所がわかってたのに、四人連れで教室に乗り込んで、何の茶番よ」
「知らないわよ。柿浦のとこにいたなんて、全然、知らなかった」
おそらく、そうだろうとは感じていた。
実々はただ、そこに仁の姿があるという理由だけで、三人についてきたに近かっただろう。
「で、メールは? 本当にあなたのとこにも、届いてはいたの?」
シーツの端を胸元で押さえ、実々は頷いた。
「柿浦は、やっぱし焼けぼっくいに火が点いたんだ、なんて言ってたし。高梨くんは怒り狂ってたし。すっかりそうだと思ってた」
何が焼けぼっくいだ、と瑠璃は腹立たしかった。いつの間にかそんな話をでっち上げて。自分と瓜崎はそもそも、焼けたことなど一度もない。
瑠璃はだが、無表情で言った。「情報を集めてただけよ。わたしも瓜崎くんに関する情報を、ね」
再びノックの音がした。今度は仁がドアを開けた。
「お飲物のご注文をいただきに参りました」
と、実々がベッドから立ち上がった。
シーツを剥ぎ取ると、昂然と頭を上げ、瑠璃と仁の目の前を一糸纏わぬ姿でバスルームに向かった。
「シャンパン」瑠璃が代わって注文した。「小瓶で、お願いします」
トイレなのか、化粧を直しているのか、実々はバスルームに鍵をかけて出てこようとしなかった。中には、バスローブの用意もあるはずだ。
瑠璃と仁は、部屋を出た。
餃子が売りの定食屋の前を、仁は通り過ぎた。
「入らないの?」
仁は、瑠璃のスーツをちらりと見た。冗談っすよ、という目つきだった。
「スケートしにいきません?」
「スケート、って」
「滑れない、っすか?」
スケートリンクなんて中学生以来、行ってない。その頃のデートで何度か通ったのは、スケートが得意な男の子が瑠璃に教えたがったからに過ぎなかった。
「もしかして、わたしの手とか握りたいわけ?」
論外のジョークに、仁は肩をすくめて「リンクで、着替えを借りた方がいいっすね。結構、お洒落なのが揃ってますよ」と言う。
品川までは電車ですぐだからと、タクシーを拾わずに駅の構内に入った。
品川といっても五反田寄りの山の手に、古くからのキュレール・スケートリンクはある。あのビアホールのあった湾岸の再開発地域とは、少し離れていた。中学生の頃は、ボーイフレンドにあちこちのリンクに連れて行かれたものだが、ここもその一つだった。
スーツ姿のとき、スケートをしようと思い立つ人間が多いとでもいうのか、フロント奥には貸衣装屋と見まがうばかりの施設があり、多彩なウェアが貸し出されていた。こんなサービスは昔はなかった。
客は多くはなかったが、がら空きというほどでもない。
瑠璃は、ぴったりしたデニム風の、しかしクッションの利いたパンツとフリース素材の黒のトップに着替えた。リンクサイドで、仁が靴を履かせてくれた。が、それが済むと、自分だけ先に氷上に滑り出してゆく。
瑠璃は、壁や椅子の背を頼りにスケートの歯の上にゆっくり立った。一歩ずつ氷に近づき、おそるおそる乗ってみる。
なんで、こんなことをしているのだろう、と一瞬は思った。
が、冷たい、白い清潔な空間だった。誰かが鋭いスピードで行き過ぎてゆくとき、巻き起こされる冷え冷えした空気感は、淀んだ気分を変えるに十分だった。というより、そんな気分に拘泥していたのでは、とても足元がおぼつかない。
手摺に掴まり、少しずつ氷を蹴る。三十年近く前の感覚を、足先と膝が思い出していた。
振り返り、仁の姿を捜した。ほんの十分かそこらの間に、急に客の数が増えたようだ。何かのブームででもあるのか、カップルも多い。紫色の可愛らしい衣装を着て、くるくるスピンする少女までいた。それらの人影の先に、仁の姿が見えた。結構な速さで人の間を縫うように滑っている。
瑠璃はそっと、手摺から手を離した。
身体が覚えている。不思議だった。頭の記憶はほんの十分前でもあやふやなことがあるのに、肉体は物忘れしないのか。
リンクを半周した。目線を上げる余裕ができ、仁の姿を目当てにしようとしたが、見当たらない。
リンク二周目、背筋を伸ばしてスピードを上げた。考えてみれば、中学生の頃はいつも男の子に手を引かれていた。相手はキスするチャンスばかり狙っていたのだから、当然だ。一人で思うように滑るのは、初めてかもしれない。
仁の姿がない。白いリンクの、どこにも見当たらない。
何も心細く思うことなどなかった。一人で滑り、帰るぐらいできる。もう中学生ではないのだ。と、膝に力が入った瞬間、エッジが傾いた。引き腰になり、辛うじて倒れずに壁際に寄った。手摺を掴んだ。勢いで後ろ手になりながら壁を背に、やっと停まった。
そばで空気が動いた。振り向くと、ニット帽の男の子が突進してくる。思わず腕を上げた。激突を防ごうとしたが、遅かった。と、男の子の身体が傾き、氷に倒れた。
その手を捕んでいたのは仁だった。男の子は、仁に追われていたらしい。
なに、と瑠璃は声を上げた。「誰なの?」
瑠璃の息が白く、氷上の空気にかかった。仁はやや手を緩め、男の子を立たせた。が、すぐにベルトの辺りを掴む。どこかの外国で、囚人を扱うときのやり方だ。
ニット帽の下から覗く顔に、瑠璃は見覚えがあった。
史朗。髪に隠れて分かりづらいが、間違いない。だが、なぜ。
仁は男の子を後ろから小突き、壁に沿って出口に向かう。
瑠璃も後に従った。仁に目で促されて、ロッカーで靴に履き替えた。その間、仁は史朗のベルトをずっと掴んでいる。
「交替して」と、史朗は瑠璃に言った。
史朗のベルトを掴むことを、瑠璃は躊躇した。おそらく自分たちを尾けてきていたのだろう。が、なぜ。
「誰か、知ってるの?」
仁は首を横に振った。「けど、前に瑠璃さんちの前で見かけた。夜だったっすけど」
そうだった。仁の目と、人の顔への記憶力は、赤外線カメラ並みなのだ。
「史朗くんよね」瑠璃は話しかけた。ニット帽を深く被り、史朗は俯いて応えなかった。
「同級生の息子さん」と、パーティ会場ででもあるかのように、瑠璃は仁に紹介する。「亡くなった、姫子の」
ああ、と仁は驚きもせず頷く。「持ってて」と、ベルトを掴んだ手を瑠璃の方に向けた。「緩めちゃ、だめですよ」
「いったい、何をしたって言うの?」
いいから、と仁は珍しく、鋭い舌打ちをした。瑠璃はしかたなく、ベルトのその部分を形ばかり握った。
仁は悠々とロッカーに向かい、靴を履き替えていた。史朗がスケート靴のままでいる以上、どうせ逃げられないのは明らかだ。
仁が戻ってくるまで、瑠璃は史朗に話しかけずに無言でいた。この事態に、あまり関与していないかのごとく取り繕うには、それしかないようだった。
「腹、減ってないっすか?」
仁はもうベルトを掴まず、何事もなく三人で遊びに来たかのように言った。
「アメリカンドッグ、どうっすか。ここのって結構、美味いっす」
そう言うと、仁は史朗の手を取り、さっさとコーナーへ向かった。史朗は、手を振りほどこうと抵抗した。が、スケート靴で足首を捻りながら、仁に引きずられてゆく。
瑠璃はリンクを振り返った。この騒ぎに気づいた客は、どうやらいない様子だった。誰かが転ぶのも、人に引きずられて行くのも、大きな声を上げるのも、ここでは普通のことだ。仁は計算づくで、史朗を氷上に誘き寄せたのか。誰かを尾けているなら、リンクサイドにいたままでは目についてしまう。とりわけ男の子が、氷に載らずにいられるわけはなかった。
小さな三人掛けテーブルのスツールに史朗を腰かけさせ、仁はアメリカンドッグとコーヒーを買いに立った。スケート靴という足かせをはめられた史朗は、もはや諦めたのか、大人しくしている。
「で。これは何だ?」
盆を運んできた仁は、アメリカンドックが三本入った紙皿と、紙コップのコーヒーをテーブルに並べたが、その間に何か器具のようなものを置いた。ほっそりしたひげ剃り機みたいだった。
「何なの?」と瑠璃も訊いた。
史朗は答えなかった。スタンガン、と代わって仁が言った。
「こいつのポケットに入ってた」
スタンガン。瑠璃は史朗を見つめた。
そうすると。あのとき、この子がわたしを。
だが、それはほっそりと優美なラインを保ち、いかにも女持ちにデザインされた器械だった。
(第27回 第14章 前編 了)
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