恩田侑布子さんの連載「偏愛俳人館」は角川俳句掲載評論で、ほとんど唯一文学評論としての体裁を備えていると思う。簡単に言えば視野が広い。日本文学の一ジャンルとして俳句を捉えていて、その特質を相対化しているから批評に説得力がある。
第3回と4回は阿波野青畝を取り上げておられる。いわずと知れた水原秋櫻子、高野素十、山口誓子、そして青畝の「ホトトギス」四Sである。ただし青畝以外は東大卒で、恩田さんは「東大信仰の根強いレッテル社会ではとびぬけた巨星とはみなされて来ませんでした」と書いておられる。確かに一九八〇年代頃までは、かなり危うくはなっていたが、東大信仰のようなものが文学の世界にもありましたね。それも今では霧散してしまった。時代は変わりますねぇ。
鴟尾今日の日を失へば夕牡丹 23歳『万両』
かげぼふしこもりゐるなりうすら繭 24歳 〃
さみだれのあまだればかり浮御堂 25歳 〃
星のとぶもの音もなし芋の上 25歳 〃
土器や鴨まつ青によこたはる 26歳 〃
いずれも堂々たる大家の風情です。そこには若書きのひ弱さ、その裏返しの奢りや匠気などは微塵もありません。平明にして深い句ばかりです。それを支えているのは比類ない音楽性をもつ独自の文体です。ことに三句目の「さみだれの」をゆったりと口遊んでみましょう。「さみだれ」「あまだれ」「浮御堂」というなつかしいことばの感触に十七音の韻そのものがやさしい雨だれとなってしたたるようではありませんか。(中略)これが青畝マジックです。言語音楽の魔術師が登場したのです。
恩田侑布子「音楽の魔術師」連載 偏愛俳人館 第3回 阿波野青畝(1)
ああなるほど、青畝はそういうふうに読むべきなのかと思った。四Sの中で大きな評価を得てきたのは秋櫻子、誓子である。虚子「ホトトギス」帝国にあからさまな反旗を翻し、新興俳句運動の母体になったことも評価を高めた。青畝評価は今ひとつだったわけだが、ある種の音楽性を備えているという視点は新しい。
木魚ぼくぼく谺ぼくぼく長き日を 80歳『あなたこなた』
南都いまなむかんなむかん余寒なり 81歳 〃
一燭のわなわなゆらぐ雛の恋 91歳 『宇宙』
恩田さんが「あたたかく体になじむオノマトペア」と評した青畝の句である。オノマトペアは擬音を使った言葉遊びのことだが、現代俳句では坪内稔典さんの「三月の甘納豆のうふふふふ」などが代表的だろう。ただ稔典さんの句がほぼ完全なノンセンスなのに対し、青畝句は言葉遊びと意味が微妙につながっている。蕪村「梅遠近南すべく北すべく」「をちこちをちこちと打つ砧かな」に近い表現である。
猫の夫淡路瓦の波を踏む 90歳『西湖』
老艶の自在境、上方歌舞伎の和事のようです。しのびやかに淡路瓦の波を踏む「猫の夫」の肉球のやわらかさ。五十歳の芭蕉が死の床で夢見た枯野の最果ての卒寿の翁から、こんなメリ、ハリ、テリ、ツヤのある句が生まれるとは驚きです。軽みの新生面です。慧眼に裏打ちされた軽みは虚子の核心も突いていました。
要するに師虚子は客観に新生面を発見し、しようと苦心した抒情詩人である。わたしが師の最も秀れた広大な主情に惚れ、しかもそれによって育てられたのだと断言できる。
(阿波野青畝『俳句』昭和41年8月号)
一方で「『危うきに遊ぶ』意気込みがなかったら、伝統の精神を永続させることは不可能」(上掲書)ともいいます。盲従ではなく、「広大な主情」の虚子の求めたる所を求めようと、感性を磨き続けたのでした。
恩田侑布子「二十世紀の古典」連載 偏愛俳人館 第4回 阿波野青畝(2)
恩田さんの俳句論の骨格は『余白の祭』(2013年刊)で表現されている。俳句は極端に切り詰めた表現だが、その源流は鎌倉時代にまで遡れるのである。言うまでもなく短歌が俳句の母体だが、その変化というより短歌から俳句への革命的、革新的表現の変容には時代の大きなうねりがあるということだ。
こういった恩田俳句論を踏まえて、恩田さんがどこに行こうとなさっているのか非常に興味がある。その一つの答えというか試みが「偏愛俳人館」だろう。伝統俳句や古典俳句など様々な呼び方があるが、俳句の基盤は動かない。飛びっきり新たな表現を生み出したい作家にとってそれは絶望的なことだろうが、虚子のように突き放して「花鳥風月だ」と言わなくても基盤が盤石であることは変わらない。問題は盤石であり、ほうっておけばすぐに石化して動かなくなる俳句をどう動かすかということである。それには新たな読みが必要だ。
青畝は生涯虚子門だったが秋櫻子は虚子写生俳句、つまり虚子が作家の主観表現を封じたことに反発して「ホトトギス」を離脱した。ただ虚子はそれを察知して伏せ手を打っていたようにも思う。確か虚子は秋櫻子の俳句について「隅から隅までミシンで縫い上げたようだ」と批判的な言葉を書いていた。師の言葉はたいてい正しい。秋櫻子句は意味とイメージが詰め込みすぎで余白がないということである。それはやはり危うい。
また虚子は俳句で主観表現は不可としたわけではない。写生を徹底すれば自ずと主観は表現されると説いたわけだが、その理論は曖昧だった。加えて「花鳥風月」という虚子テーゼがあまりにも有名になったため、その後ろ向きの姿勢に若き秋櫻子らが反発したのだった。
その結果、秋櫻子門は実質的に俳句を近代自我意識文学にしていったところがある。秋櫻子、誓子らはまだおとなしかったが「馬酔木」が新興俳句の母体となり、それが京大俳句事件につながっていったのは周知の通りである。で、その後どうなったか。
戦後、再び虚子の力は復活する。俳壇の超大物として君臨した。その経緯は過去の俳句雑誌などを読めばわかる。秋櫻子「馬酔木」から新興俳句時代に虚子は、大家とはいいながら批判の的だった。それが戦後には火が消えたようになる。桑原の第二芸術論は俳句全般への批判であり、虚子をターゲットにしていたわけではないが、それに対しても虚子は「どーでもいい、第二芸術でけっこう」とスルーした。
兜太・重信時代になると、それまで巨大な仮想敵だった虚子は没しているのでまた同じことが繰り返された。重信が新興俳句俳人に対してコンプレックスのようなものを持っていたのはよく知られている。兜太・重信の前衛俳句はまた客観写生に舞い戻ろうとしている俳句界へのアンチテーゼであり、その揺さぶりによる活性化だった。再び主観俳句、自我意識俳句時代になったわけである。
で、再びその後どうなったか。現代では俳句はまた客観写生俳句の方に揺り戻っている。これは何度やっても同じだろう。どんなことをしても結局は同じことになる。しかし客観写生俳句でいいのかと言えば、もちろん不十分である。
恩田さんは徒手空拳で新たな表現を追い求めるという意味での前衛とは無縁である。しかし根源的という意味での前衛俳人のお一人だと思う。青畝の内在律としての音楽性はラディカルな俳句読解の一つである。主観的意味、自我意識表現としての俳句はぱっと読めば華やかだがその生命はたいてい短い。だが単なる写生俳句に終始していたのではいつまで経っても理想とする俳句の影を追いかけることになる。写生であっても内在律があるかどうかは俳句という実に厄介な表現を揺さぶるための一つのキーになるだろう。
ちょいと余計なことを書いておけば、四Sはもちろんその後の俳人たちから師として、神のように崇められる虚子だが、その俳句は淡い。はっきり言えば四Sの方が俳句文学として優れた句を書いている。だがしかし虚子が近・現代俳句の実質的な祖である。このあたり、「虚子大先生」という意味のない尊称を封印して虚心坦懐に考えてみるべきでしょうね。
岡野隆
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