女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
四季の仕事、といっても当然役者ではない。大学の建築学部で劇場工学を学んだダビデさんは、その目を輝かしながら聞き慣れない言葉を教えてくれた。
「劇場工学研究所っていうんだけどさ」
「?」
それ何? というおチビちゃんの視線を頬に感じながら、トンカツを口に運ぶダビデさん。今日のディナーは目黒にあるとんかつ屋。厨房をぐるりと囲んだ大きなカウンターに、二人隣り合って座っている。この店から数分歩けば、懐かしい下宿先だ。もうあの家は取り壊されてしまったけれど、家主だった木暮美千代さんはお元気かしら……、なんて感慨にふけっている場合ではない。「なんだ、知らないのか、劇場工学研究所。聞いたことない?」と、微かに得意気な声が隣りから飛んでくる。
さっきまで腰が痛くて辛かったくせに、誰のおかげでこうしてトンカツが食べれると思ってるのよ。本当、憎たらしいんだから。もちろんそんな気持ちは口に出さず、「教えてほしいなあ」と甘えた表情を作ってみる。なかなか見てくれないから、ちょんちょんと肩を叩いてしっかりアピール。もったいぶって軽く天を仰いだ後、ダビデさんは彼が誘われているという、劇場工学研究所について話し始めた。
「実はさ、劇場の建て方ってよく分かってないんだよ」
「建て方?」
「うん。今まで色んな劇場で公演をやってきただろ?」
普段そんな風に考えることは少ないけれど、たしかに東京だけではなく、地方都市にも行ってたくさんの劇場で舞台に立ってきた。どの劇場にもそれぞれの個性や特色があるけれど、「建て方が分かっていない」とはどういうことなんだろう?
「きっとさ、ひとつとして同じ劇場なんてないはずなんだ。女優としてやりやすいところもあれば、やりづらいところもある。そうだろ?」
確かにおっしゃる通りだ。おチビちゃんが深く頷くと、今度はダビデさんがちょんちょんと肩を叩いてきた。
「?」
「あのさ、まずは冷める前に食べちゃおう。ね?」
それもそうね、とおチビちゃんはテーブルの上のソースをトンカツにかける。何ともいえない香ばしい匂いに、思わず「わっ」と声が出た。
結局話が再開したのは、場所を喫茶店に移してからだった。やはり美味しい物を食べながら、真剣な話をするのは難しい……というよりもったいない。肝心の味が分からなくなってしまう。
見るからに甘そうなチョコレートケーキを口に運んだ後、ダビデさんは「どこまで話したっけ?」と尋ねる。見た目とは裏腹、かどうかは分からないが、彼は甘い物が好きだ。
「まだほとんど話してないよ」
「あ、そうだった」
さっきみたいに隣り同士も悪くないけど、やっぱりこうやって顔が見える方がいいな。そう思いながら、おチビちゃんはショートケーキの先端を食べた。きっと後で「一口食べさせて」と言ってくるはずなんだから。
劇場の建て方はよく分かっていない、とさっきの言葉を繰り返した後、「つまり専門家がいないんだよね」とダビデさんは言い換えてくれた。それで少し話が分かりやすくなる。
「劇場って特殊な建物だと思うんだ。お芝居が見えていればそれでいいってわけでもないし、セリフや音楽が聞こえていればそれでいいってわけでもないだろ?」
うん、と再び深く頷く。その通りだ。特に音、中でも自分たちの声に関しては、観ている人たちに最高の響きを届けたい。だから劇場に入った時はまず手を何度か叩いてみる。その音がどう響くのかを知る為だ。あまり響かないようであれば、声を張る必要があるし、逆に響き過ぎてしまうのであれば、それが散らないように声を抑えなければいけない。更に客席の一番奥に先輩や公演委員長が立ち、舞台上での声の聞こえ方をひとりひとりチェックする。そんな当然の準備を思い浮かべると、ダビデさんの話はより分かりやすい。
「まあ、ほとんどの建物が専門家なんていないんだけどさ、病院だけは違うらしいんだ」
「病院?」
「うん。例えば人がスムーズに動けないとダメだろ?」
「うーん……」
「病院に行った人が、受付に行って、先生に診てもらって、採血をする、という流れを無駄なくこなすようにするには、どんな設計にすればいいのか、とか」
「あ、そっか、なるほどね」
チョコレートケーキを前に、熱心に説明してくれるダビデさんは少し可愛らしい。そんな密かな発見を喜びつつ、おチビちゃんは彼の言葉を頭の中でイメージしていく。たしかに病院でモタモタしてると命に係わってくるわよね……。
「あとさ、一言で手術といっても、病院によって呼吸器系が多いのか、整形が多いのかで、それ以外の部屋との距離感も変えなければいけない」
「それ以外って?」
「うん、たとえば放射線や超音波で画像診断するような部屋もあるわけだし」
へえ、と少し大きな声が出てしまった。何でも知ってるんだなあ、という気持ちも顔に出ていたらしく、ダビデさんが慌てて「違う違う」と顔の前で手を振る。
「今のはさ、ついこの間習ったことの受け売りだよ。つまり最新の知識と豊富な経験がないと、病院なんて設計できないってわけ。受け売り、受け売り」
でもすごいよ、と言ったおチビちゃんの気持ちに嘘はない。それが分かったダビデさんは、照れ臭そうにショートケーキを指差し、「それ、一口食べさせてよ」と頼んだ。
互いのケーキがなくなった後、少し迷ってからダビデさんはチーズケーキを頼んだ。まだ食べたいから、ではなく、全部話したいからだと知っているおチビちゃんは「何を迷ってたの?」と尋ねる。
「いや、もう一度チョコレートケーキのつもりだったんだけど、ちょっとアレかなと思って」
別にアレでもいいじゃない、なんて意地悪は言わずにおチビちゃんは話の続きをせがむ。
「これからは劇場もさ、最新の知識と豊富な経験をベースに建てられるべきなんだよ」
「そういうところだと、私たちも演じやすくなるのかな」
「それもあるだろうし、なにより観に来るお客さんたちが喜ぶだろうな」
「喜ぶ?」
「例えばトイレの位置や数」
「あ、そうだね」
「演じる側だと……楽屋の位置とか、使いづらい劇場あるんじゃない?」
そういうことか、と視界が開けた感じだ。おチビちゃんの頭には、幾つかの場所が浮かんでいる。古い劇場だと上手下手――かみしもの通り抜けが不便なところも多い。
「じゃあ、その、何だっけ、劇場……」
「劇場工学研究所、な」
「それそれ。そこが日本全国の劇場を良くしてくれるってことなの?」
「まあ、最終的にはそうしたいよな」
何かすごいね、と呟いてから数秒、クエスチョンマークが頭の中で膨れ上がる。
「ねえ、ちょっと待って」
「ん?」
「それってもう四季だけの話じゃないよね? もっと大きな規模の話だよね?」
「うん、そうなるよな。でもそういう人なんだろ? 浅利慶太って人は」
不意にダビデさんの口から発せられた先生の名前は、何だか違う響きを持っていて、「うん、そうなんだよね」というおチビちゃんの声は妙に上ずっていた。
数日後、おチビちゃんは稽古場でダメ取りを任された。先生のお父様が亡くなってから初めて、ということもありほんの少しだけ緊張がある。
見たところ思ったより顔色は悪くなかったが、どことなく元気がないような気がして、ダメ取りをしている最中もどこか集中しきれなかった。特に何かを注意される訳ではなかったが、終わった後に「あのさ」と声をかけられ、思わず「すみませんでした」と言いそうになる。
「はい」
「前に、この手首のところやってくれたでしょ」
そう言って先生は、左の手首を示した。おチビちゃんはピンと来ない。
「ほら、ゴルフをやった後にさ」
「ゴルフ……だと、あ、大町ですね?」
「そうそう。君がこういうのが得意だからって」
先生は左の手首に右の手を当ててみせた。そうだ、と記憶が蘇る。確かに以前、「愉気法」をしてくれと頼まれたことがあった。あの時はどうして先生が知っているんだろうと不思議だったけど、今思えば「研究生レッスン」でも披露していたし、実際に同期の子たちにしてあげることもあったので、当然といえば当然のことなんだ……。
「あれをさ、ちょっと頼んでもいいかな?」
「……はい。あの……」
「?」
「具合、悪いんでしょうか。だったらちゃんと病院……」
「違う違う」
ようやく笑った先生につられて、おチビちゃんも安堵混じりの笑顔を見せる。
「僕じゃなくて金森にさ、やってあげてくれないかな」
金森馨さんは先生と同じ歳で、四季が結成した翌年に入団して舞台美術を担当している。あの『ジーザス・クライスト・スーパースター』の迫力ある舞台装置も、もちろん金森さんの手によるものだ。少し前から胃の調子が悪いという話は知っていたが、ちゃんと病院には行っているのだろうか? そんな気持ちの動きを先生は決して見逃さない。
「どうした? 何か問題があるのかな?」
「いえ、大丈夫です」
そう答えてはみたけれど、やはり引っ掛かっていることはある。「愉気法」はその瞬間、楽にしてくれるかもしれないけれど、未熟な私の実力では病気そのものを治療することはきっとできない。だから、あまり大きな期待をかけられると困ってしまう――。
少しの間、迷った。人の期待を裏切るのは怖い。でも結局、おチビちゃんは正直に話してみることにした。ここで黙っておけば、もっと怖いことになるからだ。うん、うん、と先生は穏やかな声で相槌を打ちながら、最後まで話を聞いてくれた。
「……じゃあ、僕も君に話しておかないと」
少し長い沈黙の後、先生はそう言って、いくつかのことをおチビちゃんに教えてくれた。
金森さんは病院にかかっているが、ここ最近具合が少し良くないこと。先生とごく親しいメンバー十人程で、金森さんを守るためのチームを組んでいること。そして、そのことを金森さん自身は知らないこと――。
「だから、ね、やってあげてくれないかな」
はい、おチビちゃんが答えると先生はゆっくりと立ち上がり、金森さんがいる部屋へと連れて行ってくれた。
緊張しているのは、先生に色々聞いたからではなく、今まで金森さんと話した記憶が少なかったからだ。年輩のスタッフと食事をする機会は確かに多いが、金森さんはまだ小さいお子さんがいるからと、そういう場にはほとんど姿を見せなかった。
「金森、連れてきたよ」
椅子に腰掛けていた金森さんは、言われれば前よりも少し痩せたように見える。こんにちは、と頭を下げたおチビちゃんに「ああ、ありがとう」と声をかけてくれた。
「どの辺りが痛いですか?」
本当はもう少し別の話をしてからの方が良かったかもしれないが、一刻も早く楽にしてあげたいと思ったから、おチビちゃんは単刀直入に切り出した。
「うん。胃の辺り、かな。そこがちょっと気持ち悪くて」
分かりました、と胃に右手を当てる。その後、金森さんの横顔を見ながら左手をそっと背中の方に回した。両手で挟み込むような体勢だ。段々と右の掌に感触が現れてくる。自分の気が吸われるような、あの独特な感じ。そのままゆっくりと左の掌も背中に当てていく。すると数秒しか経たないのに、もう気が吸いこまれていくのが分かった。右よりこっちの方が強いかもしれない――。
そのうち自分の肩の辺りが痛くなってきた。驚いた気持ちが表情に出ないように気を付ける。こんな経験は初めてだ。
「すみません。背中の辺り、痛くないですか?」
いつもと変わらない声で、そう尋ねるのが精一杯だった。
(第16回 了)
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