女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#6(前編)
押入れの中に新入りを見つけた正田のおばさんが声を上げる。
「古羊さん、また布団、買ったでしょ」
云うや否や、すばやく黒表紙の手帳を取り出して、「正」の字の横に新しく「一」を足す。名前が正田だからそうなのか、やたら正の字やら記号やら書きたがる。要するにメモ魔なのだ。
「今度買う時は相談して下さいって云ったでしょう?」
「ごめんなさいねえ」
悪びれない口調で、すっかりおばあさんになった古羊さんが縁側で緑茶を啜っている。
正田のおばさんは押入れからはみ出しそうな布団の山をぎゅうぎゅう太い両腕で押し込みながら、どうにかふすまを閉めた。手帳に視線を走らせると、大袈裟にため息を吐く。書き加えられた「一」の左横には「正」の字が二つ、そのまた横には「古羊 ふとん」の文字が並んでいる。
「困ったわねえ」
ひとりごちつつページをめくっていると、縁側から古羊さんがのんびりと声をかけた。
「どうしたの? 何か困ったことがあるの?」
「困ってますよ。すっごく困ってます」
「まあそんな困らないで。あなたもここに来てお茶でも飲んだら」
「はいはい、そうさせてもらいます」
げんなりとした顔で手帳を上着のポケットにしまい、正田のおばさんはずかずかと縁側に歩いていった。よっこらしょ、と云いつつ勢いよく腰をかける。正田のおばさんはなかなか重量級の体格であるので、古い家の床は彼女が移動するたびにぴしぴしといつも小さく悲鳴を上げている。
正田のおばさんは、この近辺の独居老人の世話人として古羊さんの家に出入りするようになった。巻きつくような脂肪の下に、崇高な奉仕の精神をたくわえたヒトなのである。
こぽこぽと、皺ばんだ手で急須から緑茶を注いだ古羊さんは、「はい」と湯呑みを手渡した。それから小さく頷きながら云った。
「それは困ったわねえ」
何が困ったことなのか、いっこうに判っちゃいない古羊さんの顔を眺めながら、正田のおばさんは出がらしの白湯みたいなお茶を口に含んだ。とんちんかんな受け答えにも、日によって味の違うお茶にも慣れっこらしい。お茶はひどい時では抹茶のお濃茶みたいにどろどろと濃い日もあり、今日みたいに薄すぎて白湯とそう変わらない日もある。
正田のおばさんの心の中で、この緑茶の濃さを五段階に分けて毎回メモ帳につけたらどうだろうか、という名案が突如閃いた。思いつくとさっそくやってみたいのだが、さすがに家の主の前ではそうしたい欲望を何とか抑えて、正田のおばさんは口を開いた。
「古羊さん」
「はい?」
「あたしが困っているのはね、あの布団の山のことですよ。二階の押入れはとうにぱんぱんで、今また見たら一階も数が増えているじゃありませんか。あれじゃあ押入れを開けた時に、雪崩みたいに落ちてきて危ないったらないわ。そんなに買わなくても平気でしょう? ここには古羊さんひとりなんだから」
「そんなに、あったかしらね」
「あります、ありますよ」
二回云うのが癖なのか、ただ単にくどいだけなのか、正田のおばさんはまた大仰に息を吐いた。
「でもねえ」
おっとりと古羊さんが答える。
「慧がね、泊まりにきたら困るから」
「慧さんが十人来ても、詩音さんが十人来ても大丈夫ですったら」
古羊さんの云い訳は大抵決まっている。泊まりに来るのが「慧」の日と「詩音」の日があるだけだ。甥の慧はともかく、古羊さんの弟らしい詩音という男性の顔を、正田のおばさんは一度も拝んだことがなかった。
「また変な業者が売りつけに来たんじゃないですか。あんな程度の悪い布団ばっかり売りつけられて。いいですか、古羊さん。ああいうのはね、悪徳なんです。今度来たって相手にしちゃ駄目ですからね」
念を押して強めに云ってはみるが、古羊さんが堪えた様子はない。正田のおばさんは、まったくもう、と思う。判断力の鈍ったお年寄り相手に羽毛布団と称して偽の商品を買わせる手口はあちこちで聞く。だから古羊さんに怒っても仕方のないことはよく判っているつもりだった。けれども他のお年寄りと違うのは、何度説明しても、古羊さんが騙されたとまったく感じていないところなのだ。なんていうか、古羊さんはただ「布団」が欲しいのであって、その中身が羽毛であれ羽根であれ何だかよく判らない得体の知れないモノであれ、いっこうに頓着する気配がないのである。ぼんやりとしているようで、底のほうにある確固とした意志のようなモノを決して曲げようとしない古羊さんの強情さに、正田のおばさんは正直辟易してしまうことがある。
お茶を飲み干した正田のおばさんは、ぽんっと太腿を叩いて立ち上がった。
「ごちそうさま。また来ます」
「ええ、そうしてちょうだい」
「布団の件、甥御さんにはあたしからお話ししておきますからね」
「ほんとにいい季節になったわねえ」
それには答えず、古羊さんは庭の隅の貧相なしだれ桜に目を細めている。てっきり枯れ木かと思っていたけど、ああしてぽろぽろ花を咲かしはじめたのを見るとそういう訳ではなさそうね、正田のおばさんはそう思い、大きな身体をなるべく揺らさないよう静かに古羊さんから離れた。
玄関のところでふり返ると、やっぱり古羊さんは庭のしだれ桜を眺めていた。あたしが来たこと、もう忘れてるんじゃないかしら。
外に出て、また手帳を引っ張り出すと、正田のおばさんは「古羊唄子さん」のページを開いた。無意識にボールペンの先をべろりと舐める。
この頃いつも、ペン先がここで止まってしまう。
いつの時点で「△」を「×」に書きかえるか。その欄が「○」だったのはずいぶん前の話だ。それからずっと古羊さんは「△」だ。「×」になれば、何か具体的な対処法を考えなくてはならない。
しばらく悩んだ末、正田のおばさんは小さく「△」と手帳に記した。
慧が訪ねてきたのは、うららかな春の日のことだった。
四十手前で独身の甥っ子は、つるりとした肌にマッシュルームカット、自分で編んだきれいな水色のベストを着て現れた。いつ見ても慧は、こんな大人子どもみたいな一種独特の雰囲気をまとわせながらやってくる。
ひょろりと背が高く、髪型と合わせるとマッチ棒みたいな優男の慧は、山あいの小さな町に工房を構える革職人だ。時たま下界にふわふわと宙に浮きそうな足どりで下りてきて、古羊さんに会いにくるのだ。
「唄子おばさん、来たよ」
「あら慧、いらっしゃい」
古羊さんは嬉しそうに、でも知らない人が見れば全然そんな風には見えない顔で、慧を出迎える。
「今日はいい天気だね」
慧は気持ちよさそうに伸びをして、さっさと縁側に腰を下ろす。陽だまりに腰を落ち着けた猫みたいに目を細める。
「山はまだ寒いよ」
「桜もまだ咲かないかしら」
「まだまだ。半月は先だね」
「そう。しょうが湯、飲むわよね」
「うん」
素直にこっくり頷くと、台所に向かう古羊さんのうしろ姿を眺める。古羊さんの白髪はずいぶん伸びて、二つにくくった髪の高さは段違いで、毛先も使い古した筆の先のように開いている。
「唄子おばさん」
「なあに」
少し曲がった背中を、流しの下の土鍋をとるのにさらに曲げた古羊さんが答える。
「あとで髪切ろっか」
「………」
難儀している様子の古羊さんはそれには返事せず、やはり猫のごとき敏捷さで背後に近寄った慧が土鍋をひょいと持ち上げてコンロにかけた。
「悪いわね」
「もっと軽い鍋にすればいいのに」
「あら土鍋がね、便利なのよ。何でも、つくれるんだから」
自慢げな口調の古羊さんだが、もう何年も前から土鍋が活躍するのは、慧が来た時につくるしょうが湯の時だけである。
「僕、手伝おうか」
「いいわよ。あっちでのんびりしていれば」
慧はまた素直に頷いた。
「うん、ありがとう。そうするよ」
返事は素直だが、慧は二、三歩後退しただけで、しょうが湯をつくりはじめた古羊さんを黙って見つめている。古羊さんの手もとが危なっかしくないか確認して、足音を立てず静かに縁側へと移動した。今日は会話も成立しているし調子いいようだ、そう判断したらしい。
古羊さんは日によって輪郭を変える。
慧はそんな風に自分のおばさんのことを見ている。一般的にいえば、現在の古羊さんはいわゆるまだらボケであるのだが、慧は昔からモノの本質みたいなのをもっと感覚的に捉える傾向があった。それが今の職人という仕事にも繊細に影響しているようだった。
輪郭を留めているうちはあまり心配いらないけれど、時たま見せる輪郭のおぼろな古羊さんには注意が必要だ。この家の空気に輪郭を滲ませた古羊さんは、過去も未来も現実も非現実も混ざりあい、自身も溶け出しながら混沌としたマーブル模様に飲み込まれていくようだった。
そういう時の古羊さんを慧はなすすべなく見つめるしかない。それは、失恋の胸の痛みにも似ている。
しょうが湯を飲み終わった慧は、古羊さんの髪を切る準備をしはじめた。
縁側に新聞紙を広げ、背もたれのある座椅子をセットする。座椅子はどっしり腰を落ち着けて、春の庭を睥睨しつつ王様のような威厳に満ちている。それから軽々と古羊さんの体重を受けとめると、うむ、と重々しく頷いた。
慧は古羊さんの髪をほどき、丁寧に梳いた。まっ白な長い髪は若い頃のような重量感やハリを失ってふわふわと風に舞う。水玉模様の青い半透明のビニールシートが首に巻かれると、さっきまで頼りなかった古羊さんの貫録が急に増したように思えて座椅子は驚く。何が起こったのか判らないけれど、負ける訳にはいかないとますます胸を張る。
古羊さんのざんばら髪を落ち着かせようと、慧は霧吹きで水をかける。しゅっしゅっ、という軽快な音があたりに響く。
「虹を見せてはくれないの?」
うっとりと半分目を閉じていた古羊さんがそう云って目を開いた。
「虹?」
自分の作業に没頭していた慧は手を止めて、不思議そうに訊き返した。
「虹を、いつも見せてくれたじゃない」
甘えたような声音で古羊さんはねだる。聞き慣れない口調に慌てて慧は答えた。
「虹……うん。今から見せるよ。ちょっと待ってて」
少し考えてから、慧は霧吹きを空に向かって吹きかけた。何度かしていると、陽光を浴びてうっすらと虹が現れた。古羊さんは何も云わずにそれを眺め、またゆっくりと満足げに目を閉じた。
眠りに誘われ、こっくりこっくり舟をこぎ出した古羊さんの髪を慧が切る。首の上下運動に合わせて、はさみを振るう。こっくり、しゃく、こっくり、しゃく。餅つきの要領である。
毛先を整えてもまだ曲がった背骨の中央ほどもある白髪を、慧は無言で眺めていた。また少し、胸が痛んだ。
「あらやだ。寝ちゃったのね」
ふいに現実に戻ったような声を出して、古羊さんが目を覚ました。
「大丈夫、ちょっとの間だよ」
「夢を見ていたみたい」
「どんな夢?」
優しく慧が問いかける。
「傷ついた銀色の魚が泳ぐ夢」
遠くを見るように古羊さんが答えた。「へえ」と返事をしながら、慧は器用に指を動かした。
「何してるの」
「三つ編みしてるんだ」
「ふふ。女学生みたいね」
左側のおさげはすでに編み上がっていて、慧は右側にとりかかっていた。虹の向こうに輪郭を滲ませかけた古羊さんだが、今はくっきりと戻ってきている。
行って、戻って、また行って。
行ったり来たりをくり返す古羊さんを引き留めようと、慧は前々から考えていたことを口にした。
「ねえ、唄子おばさん」
「なあに」
「一緒に暮らさない?」
「………」
「もちろんさ、おばさんがここを気に入っているのは僕だって知ってるよ。でも僕の工房もなかなかすてきなところなんだ。自然もいっぱいあるし、のんびりしてて、きっとおばさんも好きになれると思う。僕も広い工房にひとりだとさびしいし、おばさんが来てくれると助かるんだけどな。あ、仕事場以外はおばさんの好きなように住んでくれて構わないんだ。この家にあるお気に入りのモノを何でも持ってきてくれたらいいんだけど」
すぐに返事をしない古羊さんを気づかうように、慧は噛んで含めるみたいに説明した。
「桜もたくさん咲くよ」
呆けたように古羊さんは庭の片隅のしだれ桜を眺めている。突然のことに驚いたみたいだった。
三つ編みのおさげを仕上げた慧は髪の先をゴムで結んだ。惚れ惚れするくらいの完璧な仕上がりだった。
「何なら、あの桜も持っていこうよ」
二人の視線が貧相なしだれ桜の上で重なり合う。
古羊さんが嬉しそうに口を開いた。
「ありがとう……詩音」
(第6章 前編 了)
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