女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#6(後編)
わりとまともな味の緑茶を啜り、正田のおばさんが息を弾ませて云った。
「ねえ、いいじゃないですか、古羊さん」
手帳には先走って「◎」が高い筆圧で記してある。
「万々歳ですよ。よい甥御さんを持ってらして、うらやましくなるくらい」
「そうかしら」
古羊さんはあまり浮かない顔で湯呑みの中に視線を落とした。慧に編んでもらった三つ編みのおさげ髪はひと晩経っても乱れることなく、古羊さんの両の耳の下から左右均等に生えている。
正田のおばさんは何とかその気にさせようとさらに云い募った。
「一緒に暮らそうだなんてね、自分の子どもでもなかなか云えないことですよ。それを息子でもない甥っ子が云ってくれてるんです。ねえ、ありがたい話じゃないですか。あたしも甥御さんと少しお話させていただいてますけど、あちらのご両親は夫婦揃って早々に有名な高齢者用マンションに入居されたそうで、老後のケアは万全と聞いてますよ。近頃のは高級ホテル並みですってね」
「詩音はホテルに泊まっているの? だったら家に泊まりにくればいいのに」
「それぐらい優雅なマンション暮らしをされてるって意味ですよ。それにね、万が一介護が必要になった時でも、あちらがいろいろ面倒見てくれるから心配いらないそうです。だから古羊さんが甥御さんと暮らすのを遠慮なんかしなくても大丈夫なんです」
正田のおばさんの力説を理解できているのかいないのか、古羊さんの表情は変わらない。押しつけがましい態度に抗議するように、家が、がたぴし、と小さく鳴った。
その音を聞きつけた正田のおばさんが眉をひそめる。
「ねえ、あたしは心配しているんですよ。この家も相当年数が経っているようだし、古羊さんがこのままここに住み続けるには何かと不自由なこともあるでしょう? 階段も急ですし、段差もね、昔の設計だから今みたいにバリアフリーって訳じゃないし。甥御さんはもし古羊さんが一緒に住んでくれるなら、改築するつもりだとおっしゃってましたよ。オール電化にすれば火事を心配したりしなくてすみますからね」
「そうねえ」
思案するというよりも、正田のおばさんのおしゃべりを止めたくて古羊さんは相槌を打ったようだった。
「でもわたしはここに住んでないといけないの」
いつもぼんやりした返事しか寄こさない古羊さんが急にはっきり云い切ったので、正田のおばさんはびっくりして目をぱちくりさせた。
「あら何か、どうしようもない理由があったんですか」
「……カエル場所がなくなると困るもの」
途端に小声になった古羊さんの声は聞き取りづらく、正田のおばさんは怪訝そうに耳を近づけた。
「えっ? 帰る場所? 誰のことです?」
訊き返しても、古羊さんは曖昧な表情を浮かべて視線を逸らした。逸らした先には折れそうに細いしだれ桜が枝を揺らしている。
「わたしはあの桜だけでじゅうぶん」
誰ともなしに呟いた言葉は、ひらひらと春の庭に舞い下りて、すぐに地面にしみ込んでいった。
呼び鈴が鳴った。
一度、間を置いて二度。
玄関のすりガラスの向こうに丸い頭と細長い身体。ぼんやりとしたシルエットでそれが慧と判る。慧はドアの向こうで辛抱強く、古羊さんが現れるのを待っている。普通の勤め人とは違う生活をしている慧だから、あまり急ぐことなどない筈だが、この日は少し急いでいた。できあがった革製品を納入しに、お客さんのところにいく用事があったからだ。
三度目を鳴らすかまごまごしていると、錆びた蝶番の音と一緒に古羊さんが顔を出した。
「入ってくればいいのに」
いつもは勝手に入ってくる癖に、とその顔は云っている。
「また鍵、かけてなかったんだね」
慧は顔をしかめた。
「物騒だよ」
「そういう顔をすると、ほんと詩音によく似てきたわねえ」
のほほんと嬉しそうに古羊さんは云い、慧はその台詞なら百万遍は聞いた、と思った。百万遍聞くたびに心が尖るのを情けなく思い、ため息を吐いた。こればっかりはなかなかどうして、歳をとってもうまくはいかないのだった。
そして古羊さんが百万遍同じ台詞を口にする間に、本モノの詩音と会った回数のあまりの少なさを思い、またため息を吐いた。
「唄子おばさん、僕これから仕事ですぐ行かなくちゃいけないんだけど、渡したいモノがあって」
「何かしら」
「父さんから手紙をあずかってきたんだ」
「詩音から?」
慧は頷きながら上着のポケットから手紙を取り出した。少し曲がった手紙を古羊さんは神妙な顔つきで見ている。時間のない慧はいくぶん早口で説明した。
「おばさんに会いたいんだってさ。なんか今さらだよね。手紙を読んでくれたら判ると思うんだけど、父さん、元気は元気だけど足腰がちょっと弱ってきちゃってね、自分から来るのはしんどいらしいんだ。唄子おばさんさえよければ、僕が車でいつでも連れていくから」
古羊さんは手紙を受け取りはしたものの、どこかぼうっとした感じで固まっていた。
「とりあえず、それ、読んでみてよ。父さんが自分から手紙を書くなんて珍しいことだから。おばさんにはやく渡してあげたくて寄ったんだ」
慧は古羊さんを安心させるように優しく微笑んだ。
「判ったわ。ありがとう」
抑揚のない声で古羊さんは云い、手紙に視線を落としたまま静かにドアを閉めた。
その様子を見届けた慧は、急いで停めておいた黄色のビートルに乗り込み発進させた。じいさんビートルは鼻歌を歌って、がたがたと機嫌よく身体を揺すりながら慧を運んでいく。
陽気なビートルの車内で、慧は一瞬何か忘れモノをしたような気になって、マッシュルームの形をした丸い頭を傾けた。そして今日の古羊さんの輪郭がどうだったかを自分が確かめていなかったことに気づくと、小さく舌打ちし、ハンドルを切った。
ドアを閉めた古羊さんはほうっと吐息をもらした。
「詩音から、手紙なんて」
大事そうに胸に抱き、台所へ行く。まるで恋文でも届いたかのような喜びようだ。古羊さんの頬はかすかに上気していた。
気持ちを鎮めるためにまずお茶の準備をしようと、古羊さんは少なめに水を入れたやかんをコンロにかける。けれどもやっぱり待てないらしく、流し台の右から二番目の引き出しからキッチンばさみを取り出した。台所の窓に中身を透かすよう掲げて、慎重に封を切る。そのまま縁側まで移動し、腰を下ろして読みはじめた。
「会いにきてほしい、だって」
「この家がなつかしい、だって」
誰もいない家の中で、誰かに報告するように古羊さんはいちいち読み上げる。もしかしたら古羊さんは、昔詩音と過ごしたこの家に話しかけているのかもしれなかった。
やかんだけが静かに返事をするようにしゅうしゅうと湯気をあげている。
読み終わった手紙を丁寧にたたんだ。封筒にしまおうとして、差出人の住所が目に入る。知らない住所。昔々、詩音が結婚した頃一度だけ招かれた新居とも違う場所。ここに詩音はいるのだ。そこがどこだか判らないけれど、きっと白くてきれいな光に溢れた空間なのだろうと古羊さんは思う。そこに自分も行くのだ、と。
「どうして今まで、会いにいかなかったのかしら」
古羊さんはまたひとりごとを云う。
会いにいくなんて、考えてもみなかった。慧に云われるまで、自分からなんてそんな考え、これっぽっちもなかったのだ。
詩音が今いるところを古羊さんは想像してみた。
そこはもっと白くて、光り輝いていて、もうこの世とは思えないほど清らかな場所に違いない。そういうところがあの子には似合うのだ。幸福で、安らかで、うつくしいところ。
それなのに、どうしてだろう。
古羊さんは不思議だった。古くて、狭くて、くすんだこの家。ここには詩音は全然似合わない。それでも自分はずっと、詩音は還ってくるのだと思っていた。口に出さなくても、そうなのだと無意識に信じ込んでいた。そんな思いを自身が忘れている時でさえ、心の片隅でひっそりとそのモノは佇んでいて、成長することもないかわりに枯れることもなかった。
季節だけが巡っていった。
その日々を追想しながら、古羊さんは目を瞑った。
……どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえる。
そっと目を開くと、あたりは白い靄のようなモノに包まれていた。見まわすと、上へと続く白い階段が庭の片隅のしだれ桜の根もとから空に向かっていた。
泣き声は空から聞こえてくる。
どこかなつかしい声に従って、古羊さんは天の階段を昇っていく。近づくにつれ、それが詩音の泣き声だと古羊さんは気づいた。いや、ほんとうはもっと前から知っていたのだ。
雲の上に立つと、遠くに白いゆりかごが見えた。
天国のようにうつくしい場所で、赤ん坊は不服げに、悲しげに泣いていた。
「どうしてそんなに泣くのかしら。ここはとてもすてきなところなのに」
古羊さんは首を傾げ、ふわふわとした雲を蹴散らし駆け寄った。身体が驚くほど軽かった。
ゆりかごの中には、白いおくるみに包まれた詩音が泣いていた。くるくるのやわらかい巻き毛に白い頬。長い睫毛に涙の滴が散っていた。
「おーよしよし」
さらに顔を近づけると、古羊さんの長くて艶やかな黒髪がゆりかごにこぼれ落ちた。その髪の一端を、詩音の小さく白い手がぎゅっと掴んだ。
「泣かないで」
手を伸ばし、優しく詩音を抱き上げる。とんとん、と背中を叩きながら、古羊さんは詩音をあやす。
「詩音はいい子、詩音はいい子。もう、泣かないで」
とんとん、とんとん。
くり返すうち、古羊さんも子どもに戻っていく。
とんとん、とんとん。
「しおんはいいこ、しおんはいいこ。もう、なかないで」
(第6章 後編 最終回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
■ 片島麦子さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■