女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#3(中編)
古羊さんが会社の新人の指導係を任されたのがちょうどその頃だった。新人、といっても何人も任された訳ではない。笹信さんひとりだけの指導係に任命されたのだ。それにはちょっとした理由がある。
もともと古羊さんはベテラン社員であり、仕事もなかなかにできる。上司から一目置かれている存在なのは確かなのだが、仕事以外でも、一目どころか二目も三目も置かれている。要するに敬遠されているのだ。嫌われているのではなく、距離を置かれている。そういう類の人間はたまにいる。古羊さんである。
それとちょっとだけ似ているのが笹信さんだった。
ただし、似ているのは他人から距離を置かれがちという一点においてのみであり、性格からすれば彼女は古羊さんとは正反対だった。口が悪い、態度がデカイ、生意気だ。笹信さんと組んだ同僚や上司はそう彼女のことを表現する。仕事ができない訳でもなく、呑み込みも決して悪くはない。なのに彼女とは一緒に仕事したくないという。特に上司の受けは悪かった。
どうにかこの生意気な新人のへらず口を封じ込める方法はないものか。毒をもって毒を制す。これが古羊さんを笹信さんの指導係に抜擢した狙いだった。無論そのことは、古羊さんにも笹信さんにも伏せられてあった。
「古羊です。よろしくお願いします」
「笹信です。よろしくお願いします」
ぺこりと首から上だけで軽く頭を下げた笹信さんは、まだ深々とお辞儀している古羊さんの首からぶら下がった社員用のネームプレートをじろじろ見ていた。そしてやっと顔を上げた古羊さんに嬉しそうに云った。
「古羊さんって、下の名前、ウタコって云うんだ」
「ええ、そうですけど、何か?」
にっと笑うと笹信さんは自分のネームプレートを持ち上げて、古羊さんの目の前にずいっと突きだした。
「ほら、あたしも。あたしもウタコって名前なんです。なんかすごくないっすか」
敬語と男の子が使うような言葉をごちゃまぜにしながら笹信さんは云った。
古羊さんは素直に驚いてみせた。
「あら、ほんと、奇遇ですね」
「ね、ね。でもウタコって名前、嫌じゃないですか。なんていうかあ、昭和って感じだし。昭和の香り、っていうの」
平成生まれの笹信さんは鼻にしわを寄せる。
「あ、でも」
唐突に、何かよいことでも思いついたように笹信さんが声を弾ませた。
「あたしの歌子はまだマシかも。古羊さんの唄子は古いほうのウタだもん」
「古いほうのウタ?」
古羊さんが首を傾げると、笹信さんはお互いのネームプレートのウタの漢字を交互に指さして云った。
「だからあ。あたしのが昭和の香りだったら、さしずめ古羊さんのは大正ロマンって感じ?」
語尾を上げながら、何がおかしいのかくすくすと笑っている。
オフィスの片隅でのやりとりを、仕事の合間に聞くとはなしに聞いていた係長以下数名の社員の動きがいっせいに止まった。ごわごわとした緊張感がみんなを身動きのとれない状態にしていた。さすがの古羊さんも怒りだすに違いない、その瞬間を想像しつつ、顔は向けずに全身で事のなりゆきを見守っていた。
古羊さんはふうっとため息を吐いた。
「笹信さん、あなたって……」
「なんですか」
一呼吸置く。
「モノ知りなのね」
家に帰って古羊さんは辞書を開き、「歌」と「唄」の語源について調べてみた。
畳の上で身体を折り曲げ、重い辞書に覆い被さるようにして文字を拾う。そこには「歌」は一般的に広く使われている言葉であり、「唄」はどちらかというと邦楽、昔からある日本のウタ、小唄とか長唄なんかに使う、とあるが、それはどうも便宜上のことらしく、別に完全に使い分けられている訳ではないようなことが書かれている。
「ふむ」
古羊さんは一声唸り、「昔から、とか、伝統的な、みたいなところが古いほうって意味なのかしら」と首をひねった。
しばらく辞書を適当に開いては、その一番左下の語句を拾い読みするという遊びをしていた古羊さんは、無理な体勢のまま、いつしかこっくりこっくりやりはじめた。身体が揺れるたび、薄いブラウスを通して古羊さんの背骨が浮いたり沈んだりするのが見える。古羊さんは昔から痩せている。胸もお尻もお世辞にもふくよかとは云えないし、全体的に細い筒のような体型をしている。四十を超えてなお、少女みたいな硬いラインと黒髪を保ち続けてはいるが、それが魅力的に見えるかどうかは難しいところだ。器量は十人並みだが表情に乏しい、無理に笑顔をつくるようなかわいさは生まれてこのかた持ち合わせたことがなかった。
男は古羊さんの髪ばかり褒めた。
褒めて、切ることを厭い、古羊さんの髪はずいぶん伸びた。
男に従順であるように見えて、前から美容院を苦手としていた古羊さんはそれをサボりの理由とすり替えた。その代わりといっては何だが、朝五時起床をさらに十五分はやくして念入りに髪を洗った。それからゆっくりと身体を洗い、風呂に浸かった。朝食前に洗濯機をかけ、食べ終わったと同時に洗濯物を干した。晴れの日は狭い庭の物干し台に、雨の日は二階のカーテンレールに。そこまで終えるとぼんやり縁側で緑茶を啜り、身支度を整えて仕事に出るのだ。
台所の流しの横で、一仕事を終えてひっくり返ったままの土鍋は、毎朝まだ生まれたばかりの朝陽を浴びて緑茶を啜る古羊さんの背中を見て考える。ああして庭を眺めながら、古羊さんは一体何を考えているのだろう。詩音がいた頃のことや、両親がいた頃のことなんかを考えているのだろうか。それともこの先のこと、あるいは昨夜の男との逢瀬のことなんかを。古羊さんのことだから何も考えていないかもしれない。それならそれでいい、それが一番いい……。
古羊さんは夜、髪を洗わない。風呂も簡単にシャワーで済ますだけ。それがたとえ男の来る日だとしても同じことだ。古羊さんは相手が誰であれ、自分の習慣を簡単に変えたりはしない。
男は古羊さんの浮いた背骨に指を這わせ、長い髪に絡めとられるようにして果てる。それが自分のためだけに用意された揺りかごのように錯覚しながら。古羊さんが一日かけて吸った汚れや疲労に包まれていることも知らずに、阿呆のように眠りこける。
男が眠るのはほんの数十分のことだ。それからそそくさと帰っていく。古羊さんはそれを見届けてから眠る。そして朝はやくに起きだし、風呂場へと向かうのだ。
朝風呂で丹念に洗われた長い髪がうつくしい輝きを取り戻す。昨日までのすべてを洗い流されて艶やかに光っている。洗い流した筈の昨日を、またどうして古羊さんはくり返してしまうのか。古羊さんにもよく判らないのだ。判らないまま朝が来て、また縁側にぼんやりと腰を下ろす。
畳の上では古羊さんが、分厚い辞書を抱きかかえるようにして、本格的に眠り込んでいる。
笹信さんとの関係は概ねうまくいっていると云えた。
たとえ周囲がはらはら見守る場面に何度も遭遇していたとしても、当の本人たちが気にしていないのだから、うまくいっていると表現する他ないのである。
古羊さんが笹信さんについて困っていることといったら、しばしば彼女のおしゃべりで仕事が中断してしまうことだった。笹信さんは古羊さんにいろいろと質問する。生まれはどこかとか兄弟はいるかとか血液型は何型かとか。これでは美容室で質問攻めにあっているのと同じではないか。せっかくあの苦痛な場所から解放されているのに、と古羊さんはげんなりしてしまう。
誕生日を訊かれて答えた時も、何だか笹信さんはひとりではしゃいでいた。
「古羊さんとあたしの誕生日ってば、一日違いじゃないですか。これ、なんかすごくないっすか」
別に世の中にはいろいろな人がいるのだから、どんどん質問していけば共通点だとか類似点だとかはそれなりに見つかってしかるべき、と古羊さんは思うのだが、この時だけでなく、些細なことにも笹信さんは「なんかすごくないっすか」をすぐに連発した。
「わたしにはそんなにすごいと思えないことでも、笹信さんみたいに何でもすごいって反応できるの、ちょっとうらやましい」
給湯室で出がらしの緑茶を啜りながら古羊さんは素直に云った。
笹信さんはインスタントコーヒーを淹れる手を止めて、いくぶん鼻白んだ様子で古羊さんの顔を見た。
「それって、なんか、嫌味ですか」
「どうして?」
きょとんとした顔で見つめる。
「古羊さん、そういうの、おばさん臭いですよ。若い人っていいわねえって莫迦にされてる気がしますもん」
湿気を吸って固まりかけたクリープの瓶の底をリズムよく叩きながら、笹信さんはそう云った。
「そういう風に云うの、駄目なのかしら」
「まあね。云っちゃなんですけど、古羊さんってそういう風に云うこと、よくあります」
「おばさん風ってこと?」
「それもですけど、時々丁寧すぎて嫌味かどうか人を惑わすってことですよ」
ぽんっと勢いよく叩いたせいで、思いがけず大きなクリープのかたまりが落下した。コーヒーがテーブルに飛び散るのを見て、「チクショウ」と笹信さんが小さく呟いた。
古羊さんはそれには気づかず上の空でお茶を啜っている。笹信さんに云われた台詞の意味を考えているのだ。
「惑わしているのだったら、ごめんなさい」
考えても判らなかったので、古羊さんはとりあえず謝ってみた。テーブルの上を布巾で拭っていた笹信さんが呆れ顔で手を止める。
「ほんとはあたし、判ってるんです」
「何が?」
「古羊さんが嫌味で云ってるんじゃないってことです。それからあたしのすごいは口癖みたいなモノですから。なんていうか、テンション上げるための」
そう云ってずずっとコーヒーを啜った。褐色の液面に固まったままのクリープが氷山のように角を出している。
「笹信さんもなかなか大変なのね」
古羊さんはひとりで頷いている。
「そりゃそうです。生きてくのって大変なんです。テンション上げとかないとやってらんないですよ」
「テンション、ねえ。わたしにはよく判らないわ」
ぼんやりと何もない空間に視線をさまよわす古羊さんを見据えながら、笹信さんは舌を出し、尖ったクリープのてっぺんを押し込み、沈めた。浮いてこないのを確認してから笹信さんは顔を上げ、わりと生真面目な口調で云った。
「そりゃそうです。古羊さんみたいなおめでたい人には判りっこないっすから」
わたしだってなかなか大変なのよ。
古羊さんもそう云おうかと思ったが、結局黙って湯呑みに浮いた茶葉のかすのようなモノを見つめていた。
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* 『ふうらり、ゆれる』は毎月05日に更新されます。
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