女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
#3(上編)
前触れもなく、オーロラというモノを拝みにいこうと古羊さんは思い立つ。
選んだのはカナダの北の果て、ちょうどアラスカと接するあたりの小さな町だった。旅の目的ならあった。自分の三十路&ひとり暮らし記念である。ただなぜそれが「オーロラ」と結びつくのか、そこのところは不明なのだった。
古羊さんは時々、突拍子もなく行動的だ。普段の活動範囲が狭いぶん、それがたとえ隣町であっても、飛行機を乗り継ぎ乗り継ぎたどり着く北の果てであっても、出ていく時のエイヤッの気持ちは大して変わらないと考えている節がある。こんな風に「ご免」圏外に飛び出す時の古羊さんは踏み切りのタイミングを間違えてしまったみたいに飛躍しすぎてしまうことがあるのだ。
一週間の有給休暇をとって、古羊さんは機上の人となった。
勤めている小さな文房具の会社で、古羊さんは黙々と日々の仕事をこなしている。パソコンを睨んだり伝票を睨んだり、たまに睨んだ顔をもとに戻すのを忘れて上司や部下の前に立つので怖い人との噂がある。それでなくても不機嫌そうに見られる口元の古羊さんは損をしているのに気づかない。ただし、キャリアも長くなかなかに仕事もできるので一目置かれる存在でもあるのだが、そのことにも古羊さんは無頓着である。
古羊さんにしてみれば、理由はどうあれ自分が職場の人間から何となく距離を置かれている事実に変わりはないし、それをさびしく感じるよりも、わずらわしいことに巻き込まれず仕事に没頭できるので、格段困ることにはならないのだ。
とはいえ、古羊さんがそうだからとて、会社の人たちが彼女に無関心でいるかといえばそうでもなく、遠巻きに見られる反面いろいろと憶測が飛び交うこともあった。勤めてからこのかた浮いた噂ひとつなく、この間結婚した弟が出ていくまではつつましい二人暮らし。休みもとらず、友人もおらず、趣味と呼べるモノも聞いたことがない、そんな味気ないと思われても仕方ない生活を送っていた古羊さんが突然一週間もの長期休暇をとってオーロラ見物に行くという、それだけで狭い社内の噂話には色とりどりの花が咲く。
曰く、隠れた恋人との婚前旅行。曰く、大失恋の末の傷心旅行。曰く、弟の新婚旅行のつきそい。曰く、人生を見つめ直す心の旅。などなど。
別段隠す気もなく問われれば、「三十歳を記念して」と答える用意はあるのだが、まあ人は勝手なモノである、誰も直接訊ねたりはしなかった。社内に古羊さんと公私の別なく親しい人物でもいれば、休暇の中日にあたる日が古羊さんの誕生日であることであっさり真相を知ることもできただろうに、誰ひとりとして彼女の誕生日を知る者はいなかった。
時差ボケもなく旅行から帰った翌日、いつも通りに古羊さんが出社すると、さっそく係長とエレベーターで乗り合わせた。
「で、どうだったの、オーロラは?」
何も訊かないのも悪い気がして、係長は礼儀として一応話題を振ってみた。
「出てました」
古羊さんはきっぱりそう云い切って、係長を見上げた。その思いがけず鋭い視線に係長はたじろいだ。おざなりな質問をしたことで、古羊さんを怒らせてしまったのではないかと内心焦る。
「へ、へえ」
係長は裏返った声で感嘆してみせた。
「そりゃよかったじゃない。で、どうなの、やっぱりこう……ヒラヒラーッときれいなんだろう?」
質問をしてみたものの、思い起こせば生まれてこのかたオーロラの映像をまじまじと見たこともなければ興味もない係長は、どんな風に表現してよいものやら見当がつかなかった。したがって、適当に両手の指をピアノでも弾くみたいに空中でびらびら動かしてみせた。頭の中ではなぜか暗闇で、マリリン・モンローの幽霊がスカートを押さえている画が浮かんでいる。
「ええ、きれいなんでしょうねえ」
うっとりと夢見るように古羊さんは斜め上を見上げた。
女学生のような表情をした古羊さんを係長はじっと見つめている。何かが引っかかっている様子である。しばらくして係長がようやくその理由に思いあたった時には、エレベーターは古羊さんの働くフロアに到着してしまっていた。
「お先に」
軽く会釈してから古羊さんが出ていった。そのうしろ姿を見送りながら係長は小さく疑問形で呟いた。
「ねえ?」
閉じかかるドアに急に視界を狭められた係長は、われに返って「開」のボタンを連打した。
古羊さんの働くフロアはすなわち、係長の働くフロアでもある。
結論から云うと、古羊さんのオーロラ観測旅行は失敗に終わった。オーロラが見えなかったからだ。
オーロラは常に出ている、問題は肉眼で見えるかどうかである、ということを古羊さんがはじめて知ったのはツアー初日の深夜、他のツアー客たちと一緒に観測場所である町はずれの大きなドーム状のテントで待機していた時だった。
オーロラ観測はひたすら待つ時間が長い。天候がよく、空が晴れ渡っていさえすれば、たとえオーロラが現れていない時間帯であっても、澄み切った夜空に瞬く無数の星々たちが心を和ませてもくれただろう。
晴れていれば。
厚く垂れこめた灰白色の雲を恨めしげに見上げながら、ツアー客一同何度ため息を吐いたことか。
天候の回復を望みつつ、かといって曇天ばかり眺めていても仕方ないので、みんなあたたかなストーブのあるドーム内で過ごす時間が長くなるのは当然の結果だった。なにせ外はマイナス二十度の世界なのだ。持久戦の様相を帯びてきたドームの中で人々は押し黙り、現地の魚を調理してつくったあたたかなスープを黙々と口に運ぶ。あるいはテーブルに突っ伏して、居眠りする者もいる。
ドームの壁面にはオーラのできる仕組みを丁寧に説明したパネルが四、五枚貼られていて、古羊さんは暇つぶしにそれを何度も読んだ。観測にあてられた四日間、何度も何度も読んだので、日本に帰ってきた今でも内容を覚えているくらいだった。
〈オーロラは太陽から地球に吹き込んでくる太陽フーが大気にぶつかった時にできます。太陽フーに含まれるリュウ子と大気中のゲン子が衝突すると励起状態という興奮状態におかれます。この興奮が醒めてしらふの状態に戻る際にデンジーハを放出します。デンジーハ→発酵→オーロラの素という訳です〉
難しい単語はうろ覚えだが、大体こんな内容だった筈だ。パネルにはこんなことも書いてあった。
〈地球はひとつの大きな磁石で、エス極は北極側、エヌ極は南極側にあり、地球のまわりは爺婆(じぃば)によって囲まれています。この爺婆があるために通常太陽フーは地球に近づくことはできないのですが、極付近では爺婆をつくるジ力線に沿って近づくことができるため、大気中のゲン子とぶつかってオーロラが発生するのです〉
つまりオーロラは極の真上ではなく、極近くの緯度六〇から七〇度、ぐるっと地球を取り囲むドーナツ型の地帯にのみ起きる現象なのだという。そして今まさに古羊さんの立っているこの場所が、その範囲内にあるというのである。
古羊さんは小難しい説明文を幾度も読んではいちいち納得し、外に出ては絶望的な夜空を眺めて肩を落とすという行為をくり返した。
異国の北の果て、あたたかく居心地のよいドームの中で、やわらかな黄色い光を反射するパネルの説明文を読み耽っていると、古羊さんは宇宙の神秘に触れているような、ここが唯一無二の場所であるかのような気持ちに囚われた。けれども一歩外へと出てみれば、ここでなくとも日本の自分ちの縁側からでも飽きるくらい見慣れた雲に邪魔されて、神秘の欠片すらこぼれ落ちてはこないのだった。
厚く閉ざされた雲の向こう側では、オーロラが刻々と変幻自在に姿を変えながら確かにあるのだろう。目には見えなくとも確かにあるのだろう。古羊さんは自分にそう云い聞かせ、ずれてきたマフラーに赤くなった鼻を突っ込ませた。
ぶくぶくに着ぶくれた防寒服でよちよちと坂を上る。凍った湖を見下ろす雪の積もったベンチにひとり腰を下ろした。
凍えるような寒空の下、古羊さんは自分がとても遠いところにいるのか、それともすぐ近いところにいるのか判らなくなった。何からの距離なのか、どこからの距離なのか、誰からの距離なのか、それさえも。見えなければすべて一緒だ、と思う。判っているのは「ただある」ということ、それだけだ。
見えないのがわたしらしいのかもね、と古羊さんはちょっと苦笑いする。
下のほうからツアー客たちの歓声が聞こえてきた。とうとうオーロラの御開帳かと期待したのも束の間、待つことに飽きたグループが雪合戦をはじめたらしい。雪に音を吸い取られるせいか、そう離れた場所でもない筈なのに、会話の内容までは伝わってこない。その声もしばらくすると途絶えた。寒さに辛抱できなくなったからか、それとも雪合戦に飽きてしまったのか、ドームに避難したのだろう。
古羊さんはぽつんとそこに留まった。
町の明かりの届かない場所にいるというのに、オーロラも星も、月明りでさえ見えないというのに、あたりはほの白く光っていた。空を覆う雲の白さが、地面を覆う雪の白さが、その凹凸が、わずかな光源を見つけだしては反射をくり返し、この世界を保っているような気がした。気がしただけで満たされたような不思議な心持ちになって、古羊さんは長い間ベンチに座っていた。冷たくてじんじんとお尻が疼くのも忘れて座っていた。
気がつくと、三十歳の誕生日を迎えていた。
それからぐるりとひとまわりした四十二歳のある冬のこと。
古羊さんはひとりの男を家に連れ込んだ。寒い、寒い、と云いながら、男は当然のように玄関で靴を脱ぐ。古羊さんは鼻と頬を赤くしながらあとに続いた。
男の風貌は取りたててよい訳ではない。脂ぎっていないだけマシかもしれないが、痩せてパサパサとした感じを受ける。不健康そうな印象のその男に古羊さんは云った。
「こんなに寒いのだから、うどんでも食べましょう」
丁寧な口調で提案すると、男は素っ頓狂な声を上げた。
「うどん? 今から?」
「ええ、あったまりますよ」
ますます頬を赤くして、古羊さんは答えた。
「すぐですから。座っててください」
男のほうは明らかにそんなモノはどうでもいい、という顔をしていた。そんなモノよりももっとあったまることをしにきたのだ、とその目は云っている。
男の視線など気にする様子もなく、古羊さんは冷凍庫から冷凍のうどん玉を二つ取り出した。うどんを茹でるために小鍋を火にかけ、それからご自慢の土鍋にだし汁を入れて同時にぐらぐらと煮立たせる。熱湯がはねないよう器用に凍ったうどん玉を滑り込ませると、古羊さんは男をふり返った。
「どうぞ、座ってらして」
しぶしぶ男が座るのを見届けてから、古羊さんはガスコンロを離れてストーブに点火した。先にストーブをつければ部屋もはやくぬくもるのだろうが、そこは古羊さんなので指摘しても意味はない。
味噌を溶きいれる古羊さんの頬は赤くなる一方である。古羊さんはあまりお酒に強くない。それでもこれだけ赤くなるのはアルコールのせいばかりとは限らない。それともこんなに赤くなるほど飲まなければならないような、やんごとない事情が発生したかのどちらかであろう。
できあがった味噌煮込みうどんを挟んで二人は向かい合った。
古羊さんが差し出したお椀と箸を面倒そうに受け取りながら、男は土鍋の中を覗き込んだ。立ち昇る湯気に男の眼鏡が曇る。そうすると表情のない顔がますます人形のように見えてくる。忌々しそうに男はワイシャツの袖で眼鏡を拭ってから、気の進まない様子でうどんをつついた。
落第だ、と土鍋は思った。古羊さんの相手にしても落第だし、自分の中身をかきまわす人間としても落第だった。
土鍋は詩音のことをなつかしく思い出す。詩音のいた頃のこと。この家で、古羊さんと仲良く鍋をつついていた詩音は完璧な弟でありながら、いつまでたっても彼らは不完全な姉弟だった。土鍋はそれを見るのがとても好きだったのだ。
男は散々つつきまわした挙句、ほんの数本だけおざなりにお椀に盛った。それを見た古羊さんも安心したように自分のお椀にうどんをとる。いつもするようにどこからか輪ゴムを取り出すと、長い髪をひと括りした。男がわずかに目を見開く。
「括ってしまうのか」
男の咎めるような口調に古羊さんはびくっとして手を止めた。括った髪の根元あたりを掴んだまま口を開く。
「ええ、食べるのに邪魔なので」
「そうか」
「いけませんか」
戸惑った口調で古羊さんは問う。はやく食べないとうどんが伸びてしまう。中身を気にしながら古羊さんは箸を持つべきかどうか迷っていた。
男は目を伏せて下を向く。新たな湯気が再び男の眼鏡を曇らせた。間を置いてから、男は云った。
「いや、括るのはもったいないと思ってね」
低く湿った声だった。
「君の髪はきれいだから」
「まあ」
古羊さんは絶句した。
恥ずかしそうにうつむく古羊さんの眼鏡は曇らなかった。レンズがないせいである。だから土鍋は、おどおどと揺れる古羊さんの瞳がある決意を持って固まる瞬間を目のあたりにしてしまった。
男は湿った、粘りつくような声音で重ねて云った。
「その髪をもっと近くで見てみたい」
黙ったまま、古羊さんは顔を上げた。宙ぶらりんの右手を再び括った髪の根元にあてる。輪ゴムはするりと離れていった。古羊さんのまっすぐなうつくしい髪から何の抵抗もなく抜け落ちた。
古羊さんは静かに立ち上がった。無言で歩き出す。男も慌てて立ち上がった。幽霊みたいに足音も立てず、古羊さんは二階へと続く狭い階段を上っていく。揺れる黒髪に魅入られるようにして、男もあとに続いた。
台所は静かだった。
土鍋の中では汁を吸い、ぶくぶくと膨れあがったうどんたちが文句も云わずにひしめき合っていた。
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