ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
6(後編)
金曜の夕方、瑠璃は先日買ったビター・ブラウンの服を着て、薄い化粧をして出かけた。
薄い化粧というのは、薄化粧ではない。厚化粧よりよほど手のかかる、薄く見える化粧のことだ。瑠璃はそれを米国で体得した。
アメリカ人にとって肉体を若く保つことは必須の課題だ。にもかかわらずアメリカ女性はたいてい不器用で、メークをすると老け込む。ときに幼く見られる日本人女性だが、メークで老けることはない。米国でそれを感心され、瑠璃は自らそれをブラッシュアップした。肌の透明感を保つための薄塗りは基本だが、メーク雑誌にあるような、これ見よがしにプロの施すアイラインやシャドウはぶち壊しだ。ごく目立たぬメリハリをつけながら、顔そのものが一枚の滑らかな布のように仕上げる。普段着で素顔を装い、ただ若いと見られたいときは、その絹布みたいな肌に埋没させるように口紅もマットな茶系のピンクに。パーティメイクなら、そこへ普通にはあり得ないゴールドや紫をくっきりと人工的に載せる。
今日は、一番似合うワインカラーの口紅一本、グロスで濡らすだけだ。そんな念入りな仕度を、念入りに見えないようにして向かった先は浜松町だった。
大手メーカーの巨大な本社ビルが聳え、植木がひしめく広い敷地を抜けたところに、瓜崎の勤める政府機関があった。
「次世代導体研究所」というそれは、周囲をコンクリートの壁に囲まれた低層の独立した建物で、壁の向うはおそらく海だろう。埋め立て地に建てられているとはいえ、ずいぶん鷹揚な土地利用だった。さすが政府機関というところだが、敷地の繋がり具合からして、隣りの大手メーカーからの出資や賛助もあるのかもしれない。
言われた通り、建物には入らずに玄関先から携帯電話をかけた。研究所だけあって派手なロビーはなく、受付嬢もいなそうだった。
ちょうど約束の時間だった。出てきた瓜崎は顔を会わせたとたん、あちらへ、とコンクリの通路の方へ手を差し伸べた。
再会の感動的な素振りもなく、仕事の用事で来たようだ。大きく目を見開くのも、昔からの瓜崎の癖だった。
瑠璃が追いつくのを待たず、瓜崎は先に通路を早足で向かう。
建物沿いの短い脇道に、すでにタクシーが停まっていた。
「どうぞ」
後部ドアを開けさせ、瑠璃を乗せると、瓜崎は反対側から乗り込んだ。
「しばらくぶりだね」
運転手に行き先を指示して頭を傾け、だが瑠璃の目を見ずに言う。
しばらく、というのがこの二十年ばかりのことか、つい先日のホールでの同窓会からを意味しているのか、わからない。
「こんなところまで足を運ばせてしまって。駅ビルで待っててくれてもよかったのに」
見たかったのよ、と瑠璃は言った。
「研究所とか、隣りの浜富士電気ビルも。もしかして、あたしも勤めてたはずのところかなあ、って」
「君には無理だよ」瓜崎は顔を上げて、笑った。「そんなことにはならなかったと思うね、どのみち」
「どうして?」瑠璃は不満そうに訊いた。「ただコンピューターができないからって、」
そうじゃなくてさ、と、瓜崎はまだ可笑しそうだった。
「歴史は後戻りしないよ。物理的に言っても未来はユニーク。唯一に決まる。常に、そうなるだけの必然性があったんで」
「なに言ってんのよ。最新宇宙論は不確定性でできてるじゃない」
「宇宙じゃなくてさ。浜富士電気には、隣りの本社にも技研にも、南園からたくさん就職してるけどね。君みたいなのはいないよ。僕が人事でも君は採らん。いや、採るかもしれないな。ま、人種の違いをどう見るか、だが」
「差別だわ」
瓜崎は笑いで肩を揺らし、大きく頭を振った。前髪も揺れたが、白髪は覗かない。背広は上等で、地味な色目の国産だった。ネクタイに少し華やぎのある蹄鉄模様が入っている。ホールで見かけたイタリアン・ブランドのスーツでなくて、よかったと瑠璃は思った。
品川方面に向かっていたタクシーは、大通りに出て間もなく停まった。大規模に再開発されている埋め立て地のホテルやレストラン、アミューズメントが立ち並ぶ一角だった。
「差別じゃないさ」
車を降りると、瓜崎は言った。「君は特別、ってことだよ」
運転手の耳を憚ったように路上に出るまで待ったわりには、口説きめいた嫌らしさはなく、出来の悪い同級生を慰める口調だった。
「特別な君に相応しい、すてきなレストランじゃなくて申し訳ないが」
通りから煉瓦造りのパティオふうスペースに入り、二階の店に案内された。ヨーロピアンな雰囲気のビアホールだ。
「いつも勤め先のお客さんを連れてくるところ。今日は領収書はもらわないけど、普段の技術系サラリーマンの姿が見たいんだろ」
瓜崎は、勝手知ったる店の奥の一番いい席に進む。どうやら予約してあったらしい。確かに、洒落た店で右往左往するよりは、わがままの言えるビアホールに案内する方が気が利いている。
「実は結構、いけるワインもあるけど。最初はビールでいい? 僕も小ジョッキで」
ずいぶんこなれたものだ、と瑠璃は思った。昔の瓜崎なら、自分やそれに近い立場を「技術系サラリーマン」と軽く言い放つことなどなかったろう。それとも変わってないのだろうか。瑠璃が幼くて自分のことしか見えておらず、彼のそんな面を見落としていたのか。
いずれにしても、歳月は不思議なものだ。瓜崎と差し向かいで乾杯する日が来るとは。
「名刺交換しましょう」
瑠璃が差し出すと、瓜崎も胸ポケットに手を入れた。
「失礼。最近はどうも、メールで挨拶が済んだ気になって」
瓜崎の肩書きは、施設研究所の教授となっている。
「あそこに学生がいるの?」
「うん。学生っていっても博士課程後期の、かなりな年輩のとか、外国からの留学生とかね。若い研究者と実験のカンファレンスをしてる。いわゆる授業をしてるわけじゃなくて」
彼の言葉は、その肉体や表情と異和感なく響き合っていた。昔、なんとなく愚鈍だった中肉中背に、年齢の方が追いついてきたという感じだ。当時から若い男の子らしい敏捷な細さ、引き締まった透明感がなかった分、幻滅もさせないといったところか。
「今、どんな研究をしてるの?」
「そうだな。なんて説明すると、わかりやすいかなあ」
瓜崎の視線はふと宙に浮いた。それは私心のない、教師の眼差しで、瑠璃は思い出した。
そうだ、瓜崎くんだ。あの頃から優秀な教師みたいだった。ものを教えるとき、瓜崎は客観的に瑠璃の理解の程度を値踏みしていた。最後は言い寄られて陳腐ないざこざで終わってしまったが。
「無線LANや携帯の時代になればなるほど、目に見えない中継地では効率的かつ大量の電気通信が必要になる。海外も国内とまったく同じ条件で繋がるようになるために、ね」
研究所では白衣の下になり、背広は人目につくまい。それでもこれぐらいのものは着ていて、白衣から覗くネクタイには特に気を使う。おそらく、すでに所長に近い立場で、外部からの客も多ければ当然だが。
「従来の導体や半導体に代わって、想像も及ばないものが浮上してきている。青色ダイオードでプラスチックのタッチパネルができたとき以上の大変化が起きるだろうね。簡単な工事で導入した後、数ヶ月で自己増殖して、帯電する電気容量が増える生物、とか」
「生物?」
コンピューターみたいだった男が歳を取り、女性の扱いもまあまあで、人らしくなった。なにしろ元が優秀なコンピューターだ。経験を積みさえすれば、学習能力は高い。
「そう、生物」と瓜崎は頷いた。「ま、ウェブは生き物だって、よく言うけど。それは社会的な比喩でさ。まさか自分が本当に、生化学者と仕事することになるとはね」
もしかしたら、と瑠璃は考えついた。
この人が成熟した以上に、世の中のコンピューターの方が人間に近づいているのかもしれなかった。もはや機械的だの、人らしさなどを云々すること自体が無意味なぐらいに。
「このピッツァが美味いんだ。 サラダはこれでよかった?」
美味いから食べてみろ、と熱心に勧める瓜崎は、人らしくも教師らしくもあり、現実的な父性も漂わせていた。
「お子さんは、いらっしゃる?」
ああ、と瓜崎は頷く。「三人。上が高校生でね」
苦労と悦びの記憶が同時に襲ってきたような、その親らしい苦笑いほど彼の顔立ちを端正に見せるものはない。
「君、子供はいないんだろ」
「ええ、誰に訊いたの?」
「訊かなくたってさ。本当に昔のままだから。先日、ホールで見かけたとき、一気に時間が逆戻りしたかと思った」
あら、ありがと、と瑠璃は受け流した。「寺内くんは、昔より綺麗になったって言ってくれたけどね」
「寺内って?」
「ええと、」瑠璃は返事に窮した。「顔を見ればわかると思うけど」
だが寺内は、瓜崎と同じ附属高校出身ではなかったか。瓜崎にしてみれば、目に入らないぐらいの存在だったのだろうか。
「パーティのアレンジメントをしてるっていうのは、皆から聞いたよ。展示会のことも。確かに、アメリカで家に招待されるのは、日本でのことと違うからね」
「あなたは、どこに行ってたの?」
「カリフォルニア、MIT。君は?」
「ロスよ。今も行ったり来たり」
ロスに主人が常駐している、と瑠璃はあえて言わず、瓜崎もそれ以上は訊かない。もしかして、と瑠璃は思った。姑がときおり、亮介の代わりに自分を見張るような気配があるのは、まさしく今の、こういう状況を警戒しているのか。
違うのだが。瑠璃は、氷のように冷やされた細いジョッキを持ち上げた。これは、そんなのとはまったく違う。しかし、瑠璃が思っていたよりも楽しい再会になったのは事実だった。
「次はワインでもいい? その服、すごく似合うね。女子学生みたいだ」
瓜崎は振り返って、ウェイターを呼んだ。
「これは撮影用に、」とまともに応えかけ、瑠璃は目的を思い出した。「あたしに話したいことって、何だったの?」
瓜崎は虚を突かれたように眉を上げた。
やや困惑したその顔を見て、瑠璃は現実に立ち返った。
女子学生だった頃の過去があって、今、元同級生とここにいるという現実。
「いや。ただ君と、話したかったって思って。ちっとも変わってない様子で、懐かしくてさ」
普通の答えだ。別段、おかしなところはない。だが瑠璃は、何となく引っかかった。実々はわざわざ、瓜崎が瑠璃に話したいことがある、とメールに書いて寄こしたのだ。
「そうだな、強いて言えば」と、瓜崎は無理に言葉を押し出すような言い方をした。「ホールで亡くなった、黒岸くんのことだけど。君、彼女と何かあったの?」
瑠璃は思わず、瓜崎の顔を眺めた。
姫子と何かあった、とは? それこそ、こちらが訊こうと思っていたことだった。
「あたしが? どうして」
「高梨がさ。うん、奴とは昔から親しくてね」
やはりあの男か、と瑠璃は心底落胆した。あいつから、いったい何を聞いたのだ。
「高梨さんって、附属高出身だっけ?」
「いや。そんなに昔から親しいわけじゃない。卒業してからだな、同い歳の子もいるし」
「高梨さんからは電話があって、いろいろ言われて」
言いがかりとしか思えないことを、という言葉を瑠璃は飲み込んだ。瓜崎が奴と親しいというからには、気をつけなくては。
「何のことか、よくわからなかった。わたしの服装や態度がどうこうとか。警察に提出したっていうビデオに、わたしが目立って映ってるって、注意してくれたつもりかもしれないけど」
そう、と瓜崎は曖昧な表情を浮かべていた。
「で、高梨さんが何て?」
瑠璃は訊かずにおられなかった。柿浦は何も聞いてない、と言っていた。さすがの高梨も、瑠璃に吐いた暴言をあちこち言い触らすほど非常識ではないと信じたかったが、親しいという瓜崎相手に、高梨は何を?
「君と黒岸くんは、ずいぶん折り合いが悪かったようだって」
折り合い。
折り合い、ときた。まったく気の利いた言葉を使う。
「わたしは、」瑠璃は笑みを浮かべた。「姫子とは、亡くなる二週間ばかり前に偶然、再会したのよ。銀座の路上で二十年ぶりに」
瓜崎は付き合うみたいに笑みを浮かべた。瑠璃のその言葉に、何ら意味を見出してないようだった。
「わたしの展示会のことを姫子が皆に告知してくれて、何人も来たわ。姫子自身は来られなかったけど。高梨さんも」
ドイツワインの白を傾けつつ、瓜崎は視線を合わせずに、ただ頷いている。その様子に瑠璃は焦れた。
「高梨さんは何を勘違いしたのかしら。そもそもホールでのわたしの格好が気に入らなかったのと、わたしと姫子との仲を誤解することに、どんな関係が?」
「当てつけだ、と思ってるみたいだよ」
海老のフリッターを皿に取りながら、自分の手元だけを見つめて瓜崎は言った。
「黒岸くんが幹事だった、あの同窓会に対する、さ。君はパーティのプロなんだから」
「そう。プロよ。だからどうなの? あなたもそう思う? アメリカにいたんでしょ」
ほら、と瓜崎は人差し指を唇に当て、テーブルの周囲を見回す仕草をした。が、瑠璃は大きな声など出していなかった。
「高梨の考えを訊かれたからさ」
「あの人が何を考えようと自由だし、興味はないわ」と瑠璃は言った。「だけど、主人の両親の店にまで電話してきたり、警察がどうとか、毒物がこうとか。度が過ぎてるんじゃないの」
ああ、と瓜崎は俯いたまま頷く。
「あなたは聞いてる? そんな話を」
今日、瑠璃が尋ねたいのは、まさにそれだった。
うん、と瓜崎は返事した。「警察が動いているのは知っている。毒物の疑いがあることも。だけどね、たとえ死因がそうだったとしても、誰かが故意にしたとは限らない。事故って確率の方が高い」
瓜崎の言葉に瑠璃は微かに息を吐き、ワインを一口飲んだ。いい香りのリースリングだ。
「学内に置いてあった食材か食器に、誤って付着したとか。別の物も汚染されていても、濃度が薄いか、口にした者の体質のせいか何かで、彼女以外、たまたま反応が出なかった」
瓜崎は顔を上げ、見えない黒板に向かっているような視線で、文字か数字を指で宙に描く。
「でも、警察は残留物を調べてるんでしょ?」
「あったって出るとは限らないさ。とっくに洗っちまった食器もあるし、全部食われてしまったかもしれない」
「いっさい残らないようにした、故意犯の可能性がない?」
「としても彼女を狙ったものかどうか。格別、恨みを持つような人間がいないなら、愉快犯が仕込んだものに彼女がたまたま当たった、と考えるのが自然だろ」
「少なくとも、あたしは」ワインがまわったのか、言わずもがなのことを宣言する気になった。
「姫子を殺さなきゃならない恨みなんかないわ。二十年間、彼女のことを思い出すこともなかったわよ」
「そう」と、慎重な研究者か教師の雰囲気で、瓜先は言った。
「君の方はね。黒岸くんは、よく君のことを言ってたけど」
(第12回 第06章 後編 了)
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*『本格的な女たち』は毎月03日にアップされます。
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