妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
予定通りに母親は退院した。当然といえば当然かもしれないし、一歩踏み込んで考えるならとても嬉しくめでたいことだと思う。ただ何だか呆気なく感じてしまったことも事実だ。
「俺のボケ防止にもなるから」と、その後も父親はリッちゃんの先生として通ってくれるし、マイタケは食べたが乾燥ワカメはまだ残っていたりと、入院中から引き継いでいる事柄もある。それに結局病院へ一度も顔を出さなかった親不孝も重なり、何となく母親がまだ入院しているような感覚だ。しかも退院した日の夜に電話をくれた兄貴から、気にかかる話を聞いてしまった。
「まあ、今後も経過観察は続くんだけどな」
「え、そうなの?」
「そりゃそうだろ、というか、そういうものらしいぞ」
兄貴が病院から受けた説明だと、母親はこれから半年に一度のペースで検査を行なっていくという。最初のうちはもう少し細かい刻みで三、四ヶ月ごとらしい。手術が終わって退院したからこの件は終わり、とはいかないのだ。
「考えてみれば、そっちの方が安心だろ」と兄貴には言われた。「これからが大事ってことじゃない?」とマキは言っていた。どちらの言い分も分かる。分かるけど……という感じだ。
だから昨晩、遅めの時間に来た「夜想」のマスターからの連絡に乗っかり、店まで呑みに行ってきた。「経過観察」の話、いや愚痴を聞いてほしかった。闇雲に出かけた訳ではない。この前会えなかったトミタさんが来ている、しかも「ちょっと元気ないんだよ」と言われてしまったらこれはもう仕方ないじゃないか。
店内は七分の入りだったが、知っている顔は半分くらい。トミタさんはカウンターの一番奥で、確かに浮かない顔をしていた。お久しぶりです、と声をかけても「なんだ、夜遊びしてんのか」とボソボソ呟くのみ。マスターに視線で尋ねると、口角を上げて小刻みに頷いた。まあよろしく頼むよ、というところだろう。いきなり「経過観察」を持ち出す雰囲気ではないので、まずは様子見の軽い話題から。
「最近娘さんどうですか? アイドル頑張ってます?」
マスターが振り返るのを視界の端で捉えた瞬間、トミタさんが「あああ……」と濁点が付くようなダミ声で呻いた。どうやら地雷を踏んだらしい。
あまり話したくなさそうだったが、あんな呻き声をスルーするのは不可能だ。右から少し、左から少し、それがダメなら斜め後ろ、と各方向から探りを入れ、ようやく輪郭を理解できた。年明けに訪れた京都をいたく気に入ったトミタさんの娘は、大学を休学して先月から京都に住んでいるという。
「え、でもこの間……」
カメラマンの城山さんを連れてきてくれた時にはそんな素振りもなかったが、それは「知らぬが仏」だったらしい。
「また俺がうるさく反対すると思ったんだろ。直前まで黙ってやがったんだ」
注文する前に生ビールの大ジョッキがやってきた。マスターが深々と頷いてみせる。地雷を踏んだ間抜けな男にはこのサイズがお似合いだ。

「もしもですけど、このことを娘さんが相談してきたら反対してました?」
ううう、とまた呻いたがそこまでダミ声ではない。頬杖をついたまま数秒考えたトミタさんは「やりたいことがあるなら応援するさ」と呟いた。それを聞いて少し気が楽になる。数年前に大揉めした時とは違うからだ。今回は断絶していない。父娘がすれ違った結果、父だけが寂しくなる、ありがちというか幸せそうな話に思えた。無論そんなことを言ってはこんがらがるだけなので、今度は各方向からフォローを入れて何とか機嫌を立て直す。
「まあ、あの歳で間違えない方が異常なんだから、見守ってやんないといけないんだよなあ。おい大学出、お前んところも娘だからこじれると大変だぞ」
俺を励ますくらいまで立ち直れば大丈夫だろうと、ようやく「経過観察」の話を持ち出した。ここまで一時間弱。まあまあ早い方かもしれない。
「なんかスッキリしないっていうか、手術して退院して、でもまだ終わりじゃないんですよねえ」
そう愚痴る俺を、トミタさんは一言「馬鹿だな、お前は」と切り捨てた。立ち直りすぎだ。
「白か黒かの世界で生きてんのは子どもだけだぞ、大学出」
「……」
「ガンだけじゃなくて、どんな病気も百パーセント完璧に治ることなんてないんだよ。再発する可能性もあるし、他の病気を併発することもある」
「じゃあ、この状態が一生続くんですかね」
「もちろん。お前のお袋さんだけじゃなくて、みんなそうだ。何なら今のお前もそうだ」
「え? 俺が?」
突然の指摘に思わず声が大きくなる。
「そう。俺もお前もアル中なんだよ」
「え?」
「すごく薄めのな。パッと頭に浮かぶヤバいアル中は濃いんだよ。ほぼ百パーセントの大ボス。でも俺やお前は五パーセントとか十パーセントくらいのザコ。だろ?」
そう言ってトミタさんは、自分の中ジョッキを俺の大ジョッキに軽く当てて乾杯した。煙に巻かれたような気がしなくもないが、「経過観察」については納得できた。完璧に治る、という俺の感覚は確かに子どもっぽかったかもしれない。
タクシー覚悟で来たが、この感じなら終電に間に合いそうだ。しばらく思案していると「そういう時は帰るもんだ」とトミタさんに諭された。
「電車を逃すのは、もっと呑みすぎた時のために大事に取っておけよ」
我々薄めのアル中ですからね、と笑ってマスターに終電で帰ることを告げてカルーアミルクを頼む。あと二十分なら店にいても大丈夫だ。
「どうした、甘っちょろいのなんか頼んで」
「これでも喫茶店のマスターなんで、コーヒー味のものはチェックしておかないと」
ふざけて答えたが口から出まかせではない。先日、リッちゃんの授業後に自分のコーヒーを淹れている父親から「夜は酒なんか出してもいいかもなあ」と言われた。城山さんの撮影や母親の入院などを経て心境に変化があったのか、息子の目覚ましい成長ぶりに感じ入ったのかは分からないが、前に何度か相談していたアルコールの提供にいよいよゴーサインが出た。ビールやウイスキーだと普通すぎるので、コーヒー・リキュールのカルーアを使ったカクテルを出してみようかと考えている。

帰り際、トミタさんが「話半分、いや、話二割程度で聞いてほしいんだけど」と顔を近づけた。
「はい」
「実は俺の父親な、胃ガンで亡くなってんだ」
「……」
「もう二十年も前だから今とは色々違うだろうけど、一度手術した後も定期的に検査は受けていた」
「……」
「話二割だぞ。でも病気ってそういうもんだからな」
辛い話を思い出させてしまった。すいません、と頭を下げると「そういう時は礼を言うんだ」と笑われた。
数日後、授業中の父親とリッちゃんを見ながら、図書館から借りてきたカクテルの本を読んでいると、ヤジマーから電話がかかってきた。LINEではない理由があるんだろうと思い、スマホを持って店の外に出る。客は一組。週に二度は来てくれる中年男性がいつもの席にいる。彼は決まって文庫本を読む。そして頼むのはブレンド一杯のみだ。
「もしもし、どうした?」
「おお、仕事中だろ? 悪いな」
「いや、大丈夫だけど」
どうして今日は電話なんだろう、という疑問があるからか、二言三言交わした感触としてはヤジマーの歯切れが悪い。しかもその状態で無駄話を始めた。しばらく泳がすと、尋ねてもいない最近の仕事の近況、京都の外国人観光客の増加、と続けたのでさすがに話を止める。
「待て待て。あのさ、何か頼みたいことがあるならストレートに言えよ」
へへへ、とぎこちなく笑った後、あいつはいつもの調子に戻ってまくしたてた。少々複雑な話だが、一言でいえば女性問題。グイグイこられて困っているという。思い返すまでもなく、あいつが奈良へ単身飛ばされた原因は部下との不倫。懲りないヤツだな、と聞いていると想定外の方へ話が流れた。グイグイきているその女性は、奈良へ飛ぶ原因となった相手だという。
「え、その部下の子ってわけ?」
「元部下な」
そうだ。彼女の方は居づらくなって自ら辞めたと以前聞いたことがある。
「じゃあ、わざわざ東京から会いに来たのか?」
「いや……県内からだな」
「え? 県内って奈良か?」
「うん。なんか、引っ越してきちゃったらしくてさ……」
本来ならからかってやりたいところだが、あまりにもテンションが低いので「そっか」と深刻な声で応える。
「……」
「何か頼もうとしてるんだろ? 出来る範囲で協力はするから言ってみろよ」
緊張は伝染する。小声で「うん、うん」と頷く声を聞きながら、俺は妙に力んでいた。スマホを持ち替えながら両方の肩を回し、なるべく明るい声を出してみる。
「で、俺は何をすればいいんだ?」
二回、大きな咳払いをした後、ヤジマーもどうにか明るい声を出した。
「大変申し訳ないんだけど、ご家族をお借りできないかな?」
(第46回 了)
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