ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
6(前編)
その日、やはり講座に栞の姿はなかった。
花材を片づけ、使ったパネルや食器を自宅に送ってくれるよう、スタッフに手配を頼むと、瑠璃はハンドバッグひとつで青山の裏通りへ入っていった。
記憶はおぼろげだった。地図があれば別だが、道順を覚えるのはもともと得意ではない。いくらか陽が長くなる時季ではあるものの、もう六時近くで、薄暗い路地を瑠璃はだいぶ彷徨った。
あのときは栞の家を逃げるように辞した。無論、瑠璃が逃げなくてはならない理由などなく、後からは甚だしく癪にさわった。
鮎瀬を忘れたことはない、と口に出した瞬間から、栞の視線は敵愾心剥き出しとなった。
それを瑠璃は意に介さないふうに装い、当たり障りなく挨拶を交わし、できるかぎり優雅に玄関を出たつもりではあった。
「田宮」という表札の家を、瑠璃は今、必死で探していた。主婦の栞は名刺も持たないのか、電話番号ももらっていなかった。
ここだ。
瑠璃は後ずさりし、暗がりに目を凝らして構えを確認した。そう、この家だ。門に見覚えがあるし、「田宮」。表札も間違いない。
六時十五分。亭主は帰っているだろうか。だとしても出直す余裕などなかった。瑠璃はインターホンを押した。
「はい」
どこか疲れたような栞の声が聞こえた。
警察です。
一瞬、そう言ってやろうかと思った。
「瑠璃です」
短くきっぱり言った。栞がどう出るかなど、忖度する必要は感じなかった。
インターホンは無言で切れた。数秒後、鍵を開ける音がして、玄関扉が細く開いた。
栞が顔を覗かせるまで、瑠璃はそのまま動かなかった。鉄格子の門を瑠璃が自分で開けて、入ってくるのを待っているらしい。
結局、栞の方が出てきた。ピンク色のエプロン姿だ。何か待ち受けていたかのように、取って付けた感じがした。視線を合わせないまま、鉄格子の門を開け、「どうぞ」と言った。
瑠璃は門を抜けたが、玄関扉の前で立ち止まった。
「お家に上がるつもりはないの。何しに来たか、わかるでしょ」
玄関灯に照らされた栞は、そっぽを向いたまま意固地な表情で黙り込んでいる。
「どうしてあんなことを。わたしがあなたに何をしたの?」
「なぜ、あなたが来るの?」
栞は瑠璃の顔をまっすぐ見返した。
「警察じゃなくて。来るなら警察だと思ってた。どうしてわかったの?」
防犯カメラよ、と瑠璃は答えた。「最新型で、隅に目立たないようについてるの。映像は今、警察が解析してるわ。お望みなら、ここへ呼びましょうか?」
「どうぞ。どうして最初から、そうしなかったの?」
栞に言われ、瑠璃は言葉に詰まった。防犯ビデオの静止画を見せられた瞬間、栞だとわかった。鮮明な映像ではなかったが、顔よりむしろ彼女の服とハンドバッグだ。講座に来たときと同じ格好をしていた。
が、それを舅姑にも警察にも話してない。なぜかと問われても、すぐには説明がつかなかった。
「ほら。警察に電話していいですよ」
栞は開き直った。「そうしてよ、今すぐ。あたしの気持ちを皆に伝えられる」
栞の気持ち。だとしたら講座に出たときと同じ服を着て、防犯カメラに映るのは想定の範囲内だったのか。
傘でガラスを叩き割られたとき、「このぐらい、されていいんだ」と叫ぶ声を聞いたと、店の男の子が言っていた。姑の方は、それは記憶にないという。
「あなたの気持ちって、鮎瀬くんのこと? それに、わたしが何か?」
とぼけないでよ、と栞は呟いた。
「鮎瀬さんが死んだのは、あなたのせいでしょ。鮎瀬くんたら、どうしてこんな人を」
あの噂か。古びてカビの生えた、あんな馬鹿馬鹿しいことをまだ信じている者がいる。
「ねえ。それは誤解だし、買いかぶりよ。鮎瀬くんとわたしは、ただの友達だったのよ。彼はわたしのことを好きでも何でもない、」
「あたりまえよ」と、栞はいきなり怒鳴った。
「好きでもない、あなたに頼まれて。わざわざ、あんなところで命を落として」
「いったい、どう聞いてるの。わたしが何を頼んだんですって?」
「あなたのこと、追いかけ回している男がいたんでしょ。あなたには付き合ってる人がいたのに、きっぱり断れなかった。そいつに何か世話になってたとかで、でなきゃ理工学部を卒業できなかった。で、用が済んだところで、自分のことを諦めてもらうように説得してくれって、鮎瀬さんに頼んだって」
「誰が、そんなことを?」
「誰も彼も、理工学部では皆、そう言ってるって。あたしは文学部で、あなたの身辺のことなんか、知らないもの」
だから、と瑠璃は息を吐いた。
「理工学部にいたんじゃないんだから、あなたの知ってる誰か、理工学部の人から聞いたんでしょ?」
栞はしばらく黙って考えていた。
「ボン先輩。先輩が、理工学部では皆、そう言ってるって」
瑠璃は再び溜め息を吐いた。
予想された答えではあった。が、二十年も前の話だ。ボンが誰かから聞いた曖昧な噂話を、栞にしゃべったのか、その内容が栞の頭の中で変容したのか、突き止めようもない。
「あなたはそうやって都合よく、他人を利用するタイプだって」
それもボンが言ったのか。あの無邪気でフレンドリーな彼女が。二十年も前のことだとしても、いや、だからこそ傷つく。
「あなたが言ってるのは事実と全然、違うわ。でも、それでどうして鮎瀬くんが死んだって?」
瑠璃は矛先を別に向けた。どのみち噂だ。事実と違うのは驚かないが、瑠璃が馬面から聞いた話とも違いすぎる。
「あなたから頼まれて、鮎瀬さん、その男と談判しようとして。そいつが上高地のホテルに滞在するって知って、追いかけたのよ」
「鮎瀬くんが上高地に出かけたのは、あんたたちの、ワンダーフォーゲル部の登山ついでだったんでしょう。だいいち、どうして鮎瀬くんが、わたしのためにそんなことを。わたしをそいつから奪おうとしてたのでもないのに」
同情よ、と栞は言い放った。
「あなた、学費にも事欠いてたんでしょ? それで、その男に援助してもらってた。つまり援交よね」
瑠璃は頭が混乱した。大学を卒業できないというのは、単位を取るために助けてもらった、という意味ではなかったのか。
「その男って・・・。誰か知ってるの?」と、瑠璃は訊いた。
「知らないわよ。やくざの組の関係者だとか。盗品を売りさばいたりしてる」
噂は、根も葉もない。根も葉もないのに、なぜときどき、ぽとんと実が落ちるのだろう。それも誰も知らないはずの実が。
父が亡くなって学費に困っていたことは、鮎瀬も含め、同級生の誰にも話していないはずだった。瑠璃の若気の意地でもあった。
「学生時代にも、くだらない噂を流されたものだけれど」
瑠璃は言った。面と向かってぶつけてきただけ、栞が一番ましなのかもしれなかった。
「そのときも今も、気にしないことにしてる。あなたに言っても仕方ないけど、ただ、これだけははっきりさせて」
上高地の皇国ホテルに滞在していたのは、瓜崎という同級生だ。
「本当にやくざ者と別れたくて困ってたなら、同級生の男の子に泣きついて、仲介を頼むこともあるかもしれないけど。瓜崎くんはボーイフレンドですらなかったし、お付き合いは自分で断ったの。彼は、ホテルで鮎瀬くんと話した内容について、あなたが思ってるのとは違うことを言っていた。それも学生の頃で、どこまで本当やら」
だから何も信じてない、と呟きながら、瑠璃は自身があやふやになってゆくのを感じていた。
瓜崎が言っていたという、鮎瀬との談判の内容についても、瓜崎本人から聞いたわけではない。あの馬面の言葉を信じ込んでいただけだ。二十年以上の間、ずっと。
「父が亡くなって、経済的に苦しかったのは事実だけど」
だが、それがなぜ栞にまで知られているのだ。瑠璃はその疑問を、ともあれ頭から追い払った。
「父のコレクションを売り払って凌いだのよ。それを引き受けてしてくれたのが、主人の店。あなたが叩き壊した、日本橋の店よ」
単純な話だった。別に恥じることもない。
たったこれしきのことを、なぜ若い頃、皆の前で口にできなかったのだろう。店に身売り、などと自嘲しつつ。
玄関先の庭はすでに真っ暗で、仄明かりの中の栞は視線を落とし、瑠璃の言葉を黙って聞いている。むしろ栞が警察官か何かで、瑠璃の一言ずつの真偽を噛み分けているようでもあった。
「そう、結婚を決めた相手に援助してもらっていた。援助してくれた相手と結婚した、と思ってもいいけど。あなたの話は何もかも、ごっちゃよ。夫は少なくとも、やくざではないわ」
骨董商には確かに、盗品が紛れ込むことはよくある。やくざ者が力ずくで物を奪い、詐欺紛いを働くのも珍しくはない。だが「香津」は日本橋の名店だ。やくざ呼ばわりされる筋合いはない。
「主人や店を侮辱されたり、危害を及ぼされるのは許せないわ。わたしに関するどんな評判を信じようと、あなたの勝手だけど」
それを直接、言うために来たのだと、瑠璃ははっきり思った。
警察に任せる前に、自分で栞を問いたださなくてはならなかった。
ちょっと待ってください、と栞は玄関を入っていった。鍋を火に掛けたままにしている、とでもいうような感じだった。
すぐに戻ってきた栞は、玄関の扉から離れずに、瑠璃を手招きした。明るい灯の下へ、といった仕草だったが、瑠璃は警戒した。
傘は持っていないようだが、刃物は。
栞はピンク色のエプロンのポケットから手を出した。
白い封筒が握られていた。「二百万円あります。これで足りるかしら」
どういうつもりだ。瑠璃は栞の顔を眺めた。
「警察に黙ってろ、と?」
栞は首を横に振った。「それはどちらでも。毀した物を弁償しようと思って、最初から用意してました」
最初から。行動に出る前から、ということか。
瑠璃は店の、あの惨状を思い出した。見ようによっては腰が引けたように、入口から先に進んでいなかった。古物やガラスケース、二百万円分を越えないように毀した、ということか。
「いったい、何のために?」
弔い、と栞は呟いた。「何かしたかったから。鮎瀬さんとあたしを結びつける、何か。結婚式もできないし」
「じゃ、あれが結婚式の代わり?」
およそ本気ではない瑠璃の言葉に、栞はあっさり頷いた。
この金がもともと結婚資金で、自分が鮎瀬の女だと証明するものであるかのように。
「どうしても、わからないんだけど」
瑠璃はいくらか、どぎまぎして訊いた。「わたしは鮎瀬くんに何も頼んでない。だけど仮に、上高地のホテルに行った鮎瀬くんの目的が何であったとしても、彼が死んだのは事故で、誰のせいでもないでしょ?」
「あなたの話が本当なら、事故かもしれない」
栞は言ったが、その口調にとげとげしさはなかった。
「でも、やくざ者相手に談判しに行って、その帰りに死んだのなら、殺されたんだろうって」
瑠璃は一瞬、絶句した。「そう。そんなふうに考えたわけね」
「最初、田宮がそう言ったのよ」
「ご主人? ご主人に鮎瀬くんのこと、話してるの」
栞は当然のごとく頷いた。
「どういうふうに?」
「本当は、あたしの夫になるはずだった人、って」
「ご主人は、何て?」
「そいつも知ってたのか、って。お前と結婚するはずだったって、そいつも承知だったか、って」
栞は急に顔を覆った。
「嫌がらせを言うのよ、いつも。お前と赤い糸で結ばれてるって知らずに、やくざの女に色気を出したんだなって。その女に利用されて、やくざに崖から突き落とされたって」
馬鹿な男だ、犬みたいに死んでって、無理矢理にあたしを抱くの、と栞はむせび泣く。
「それで、あなたは」
抵抗しないの、と訊くのも、我に返れば馬鹿げていた。
「彼を侮辱して、あたしが嫌がれば嫌がるほど喜ぶの。あなたの講座に出て、話もしたって言ってからは、ずっと毎晩のように」
「ちょっと、そんなことまで?」
「お前の運命の恋人をたぶらかした性悪女は、彼が殺されるって、わかってたに違いないって」
「あなたが、うちの店にしたことも話したの?」
いいえ、と栞は顔を上げ、まっすぐ瑠璃を見つめた。
「それはまだ。あたしと鮎瀬さんの大事なことだもの。簡単には言わない」
「このお金は? ご主人にもらったんじゃないの?」
「あたしのよ。実家からもらった分とか、自由に使えるのだから」
と、そのとき栞の視線が揺れた。
「お帰りなさい」
鉄格子の門の向うに、がっちりした肩の男が立っていた。
「どうしたんだ、こんなところで」
栞の夫は、門扉を開けて入ってきた。
「立ち話のつもりが長くなって。こちらが瑠璃さん。話したでしょ、そこの青山カルチャークラスで講義されてる、先輩の」
ああ、と田宮は頷いた。
門柱の灯りが眼鏡に反射し、その眼差しが鋭く光って見えた。が、「入っていただいたら」と言う口調は穏やかで、玄関に手を差し伸べる物腰も柔らかかった。
「いえ、もう行かないと」瑠璃は急いで応えた。「今日は、講義の帰りで」
「いつも、いろいろと教えていただいて」
そう呟く姿は、仕事で疲れて戻ったサラリーマンが仕方なく、妻の交際に付き合っている様子そのものだった。
「それを受け取りに見えただけなの」
栞は瑠璃の手元を指した。封筒の厚みに、栞の夫は一瞬、眉を上げたものの、何も言わない。
「ご主人のご家族が、日本橋で骨董店をやっておられて。いい物をいくつか譲っていただいたのよ。ほら、一階をパーティルームに改装するから。安物ばかりじゃ、みっともないもの」
「では、失礼します」
瑠璃は田宮のそばをすり抜け、門の外へ出た。まるで友人同士のように、栞と手を振り合う。
「気をつけて」田宮の低い声が、暗い通りに滲むように響いた。
結局、受け取ってしまった金の封筒を、瑠璃はハンドバッグに押し込んだ。なんてくだらないことに巻き込まれたものだ、と瑠璃は肩を落とし、地下鉄の駅のある大通りに出た。
鮎瀬を利用しているのは、瑠璃でなく栞の方だ。その性悪さに亭主が興奮し、二人して彼の死を弄んでるわけだ。二十数年前の、若かった鮎瀬の死を。さもなければ自分たちの若さが失われるばかりだ、というように。
そんなプレイにかかわずらうのは、もう真っ平だった。彼らに腹を立てながらも、瑠璃は地下鉄の中で、舅と姑をどう説得し、警察にどう説明させるべきかと考えていた。
防犯カメラに映った女の正体を、すぐ警察に告げなかったのは、やはり瑠璃自身の躊躇からだった。姫子の件を訊かれることなどあり得ないし、あったとしても何のやましいところもない。
ただ、警察の来訪はあるべきことではなかった。今の瑠璃はそれを怖れていた。それが未だにない、ということが高梨の言葉を否定し、自分の無関係を公に保証するように感じられていた。
(第11回 第06章 前編 了)
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