女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#1(前編)
まったくもって、詩音がいなくなって困ることといったら散髪の問題なのだった。
大きな鏡の前で、古羊さんは美容師に気づかれぬよう小さくため息を吐いた。
古い羊と書いてコヨウと読む。下の名前は唄子さん。ちなみに、詩音は古羊さんの弟の名前である。
「お客さんの髪はコシがありますねえ」
うどんを称賛するかのようにほれぼれと、肩甲骨にまで届く黒髪の一束を握ったり放したりしている美容師に向けて、ありがとうございます、と消え入りそうな声で答える。鏡の中では大して嬉しくもなさそうな表情の古羊さんであるが、これはいつものこと、内心はまんざらでもない様子だ。
伊達に二十年近く、毎朝五時起床で洗髪している訳ではないのである。
古羊さんは自分の艶やかな黒髪をこよなく愛している。自分の顔がいまいち愛せないそのぶんの愛情をすべて注ぎ込んでいると云ってもいいくらいに。
くるくると巻く猫っ毛の詩音とは対照的に、古羊さんの髪は見事な直毛である。おまけに剛毛である。今のところパーマ液ともカラー液とも無縁で過ごしてきた髪は痛みもなく、確かにたいそううつくしい。プロの美容師が褒めるのも無理はない。めったに褒められることなどない古羊さんなれば、ここでたまに称賛の声を浴びるのも悪くはないかもしれない。
けれども古羊さんは美容院という場所が昔から苦手だった。とめどなく流れる会話についていく努力も、眼鏡を外した自分の顔を直視し続けなければならないことも、すべてがわずらわしい。シャンプー&ブロウと毛先のカットだけという、他の客と比べれば劇的に短い筈のこの時間が苦痛で仕方がない。できれば「ご免」こうむりたい。しかし、安っぽいてるてる坊主のような恰好で座らされているが故に逃げ場はなく、古羊さんはまた小さくため息を吐く。苦行である。
それもこれも、詩音が家を出ていったから悪いのだ。
それまでは詩音が古羊さんの髪を切っていた。
晴れた気持ちのよい日を選んで、古羊さんは庭に木製の丸椅子を運び出す。ふだんは台所の棚の上のモノを取ったり、ただの新聞置きに使われたりしているだけの古ぼけた丸椅子が、まさに陽の目を見る時がやってくるのだ。老いぼれた彼はそのことをとても喜んでいる。
やわらかな土の上に置かれると、丸椅子は慎重にバランスをとりはじめる。ちびた脚とまあまあちびた脚、台所の床をカタコトと鳴らすその脚を精一杯踏ん張って、古羊さんが座ってもぐらつかないようバランスをとる。固い座面だけはどうしようもないけれど、それでもお陽さまの熱を逃がさないよう気を配って、古羊さんのお尻の筋肉をほぐしてやろうと待ち構えている。
詩音は丸椅子に古羊さんを座らせると、姉のかけている太い縁の黒眼鏡に手を伸ばす。切るのに邪魔になるからだ。いつもならすぐに縁側に投げ置くのをちょっと考えてから、詩音は訊ねた。
「姉さん、これ、そろそろ買い替え時なんじゃないの?」
茶化したような呆れたような口調で、レンズのない眼鏡の輪っかの部分に人差し指を入れ、西部劇のガンマンのようにくるくるとまわす。
「そう? まだじゅうぶん使えるわよ」
「使えるって意味が判らないな。見えていないのなら、それは使えていないのと同じことだろう」
レンズがないのだから当然である。それ以上古羊さんから返事がないのを確認すると、詩音はおもしろくなさそうに眼鏡を縁側に放り投げた。
次に詩音は水玉模様の青い半透明のビニールシートを持ってきて、古羊さんの首に巻きはじめる。きつすぎもゆるすぎもしない、ちょうどよい締め具合。古羊さんはビニールシートが風ではためかないよう軽く手で押さえながら、くつろいだ様子で座っている。こうしていると、自分が何か高級な果物にでもなったみたいだと毎回思う。
いつの間にか詩音はアイロン用の霧吹きを手にしている。やはりガンマンのようなすばやい身のこなしで、シュッシュッと水をかけていく。噴霧された水の粒子が古羊さんのまっすぐな髪にしがみつく。詩音は途中何度か髪にではなく、空中に向かって霧吹きを吹きかける。うまくいけば一瞬、虹ができるのだ。そうすれば古羊さんが喜ぶことを詩音は子どもの頃からよく知っている。ほとんど流れ作業に思えるそれは、けれども二人きりの姉弟の長年の大切な儀式でもある。
古羊さんの髪の毛がしっとりと湿り気を帯びてくると、詩音は右手の人差し指と中指で少しずつ毛先を挟んでは、左手に持ったはさみでしゃくしゃくと切っていく。左利き用のはさみではないのにさして難しそうにもなく、しゃくしゃくしゃくしゃくとリズミカルに切っていく。
この子は昔から手先が器用だった、と古羊さんは姉らしく感心する。それに気持ちの優しい子。丁寧に扱われる自分の首から上に満足しながら、やっぱり古羊さんは桃やメロンになった幸福な気分を味わっている。
「目はね、治ったの」
甘い夢から醒めたばかりの顔で古羊さんは云う。
「緑をうんと見ていたら治ったのよ」
舌足らずな幼子のように発音する。やれやれ、と詩音は思う。緑を見ると視力が回復するというのはずいぶん前に聞いた話だった。そしてそれがどうやら間違った知識であることもそこそこ前に聞いた話。姉はそのことを知らないのだろう。もとから視力がそう悪かった訳ではないし、あってもなくても大差ないということか。
「そう」
短く返事してから、「しゃくしゃく」の「しゃ」で今度は手を止めて詩音は訊ねた。
「だったらさ、なおさらかけてる意味がないんじゃないの?」
「それがねえ、そうでもないの」
いつもの口調に戻って古羊さんは続けた。
「ないと駄目なの、何だか締まらなくて。鏡の前に立つとわたし、落ち着かないの。顔のパーツをひとつ落っことしちゃったみたいで」
自分の言葉に頷こうとした古羊さんは慌てて前を向く。詩音の作業を邪魔してはいけない。
「そうかな。なくても全然いけてると思うけどな。姉さんは端正な顔立ちだし、あるほうがなんていうか、とっつきにくい印象を与えるんじゃない?」
そうか、そういうことだったのか。姉の理由に頭の中では納得しながら、詩音はそう云った。彼は誰にでも優しいが、残念なことにその優しさは往々にして薄っぺらい。
古羊さんと詩音はあまり似ていない。端正な顔立ちなら詩音のほうがはるかに上である。つまり、思いきりいけているのだ。古羊さんがとっつきにくいのは眼鏡のあるなしの問題などではない。そのことはお互い承知の上だから、結果としてこの会話は弾まなかった。
詩音は黙り込んだ姉を見て、怒ったのかな、とちらりと横顔を盗み見た。だけどこの姉が自分に対して本気で怒ることなどある筈がないとも判っていたから、それもまた一種の思いやりのポーズに過ぎなかった。
古羊さんの視線はぼんやりと庭の片隅をさまよっている。なくてもいけてると思うよ。どこかで聞いたことのある言葉のような気がしている。ほんとうは無意識に思い出すのを避けているのだ。
視線の先、狭い庭の片隅には、一本のしだれ桜の木が立っている。
古羊さんの生まれた頃にはすでにあった桜の木は、年月を経てもその頃と変わらない風貌でそこにある。幹は細く、背もそれほど高くはなく、そもそも土地が痩せているのか原因は判らないまま、昔と同じ垂れ下がった細い枝を揺らしているばかりである。
その儚げな様子を古羊さんは気に入っている。春になってもぽつりぽつりとしか花をつけない姿を見ると、つい、がんばれ、と応援したくなってくる。咲き誇るというには程遠いものの、さあこれで出揃いましたよ、という頃になると、一日でも長く咲き続けてほしいと古羊さんは願うのだった。
子どもの時分に古羊さんは、まだ健在だった父に聞いたことがある。
ねえ、お父さん、お花がもっとたくさん咲いて、ずっと咲くにはどうしたらいいのかしら?
春の朧夜、縁側に胡坐をかき、花見気分で杯を重ねていた父親は澄まして答えた。なあ唄子、桜の花がなんであんなにきれいに咲くのか知っているかい? 知らないだろう。桜の木の根元にはな、どうやら死体が埋まっているらしいよ、それであんなに見事に咲くんだと。
有名な小説を引き合いに、酔いも手伝って父親は上機嫌に語った。古羊さんがそれを聞いて怖がるのを酒の肴にしてやろうというつもりであったのだが、それこそあてが外れたことだった。
お父さん、死体があったらなんでお花はきれいに咲けるの?
怖がるような様子は微塵もなく、けろっとした顔で古羊さんが問い返すと、父親は急に興醒めしたように、ああ何だな、まああれだな、要は栄養がまわるってこったろう、といささか乱暴な口調で答えたのだった。
次の日の朝、寝床を出たきり戻らない古羊さんを心配して母親が家中を探していると、意外にもその姿は庭にあった。しだれ桜の根元近く、子ども用のスコップで浅く掘った窪みに古羊さんが横になっている。何事かと慌てて駆け寄り抱き起こしたが、どこも何ともないと云う。それじゃああんた、なんであんなところに寝てたのよ。呆れて理由を訊ねてみると、わたしの栄養を分けてあげるつもりだったんだ、と屈託なく笑ったのだった。
髪とパジャマを土まみれにした古羊さんが、しこたま叱られたのは云うまでもない。
それからというもの、古羊さんは大事にしていたモノを庭の片隅の桜の木の根元に埋めるようになった。
はじめの頃はまだ子どもらしい好奇心でもって、詩音と一緒に飼っていた文鳥やら銭亀やら縁日で捕ってきた金魚やらが死ぬとそこに埋めていたのだが、その時期も過ぎ、いつしか生きモノを飼うのが「ご免」の範疇に属するようになると、自分の大切にしていたモノを埋め出したのだ。小動物の死骸なら多少なりとも養分の足しにはなったろうが、以降は桜の木からしてみれば迷惑な話だったに違いない。それでも古羊さんはその習慣だけはやめなかった。
そこにはさまざまなモノが埋まっている。忘れられないモノ、忘れてしまったモノ、忘れたいモノ……たとえばバラバラに砕けたレンズとか。
しだれ桜は黙ったまま、それらを抱いて風に揺れる。
詩音から結婚したい旨を告げられた時、古羊さんは完全に油断していた。油断して、台所の棚にしまおうと手にしていたご自慢の土鍋を落っことしてしまったくらいだ。
土鍋はすとんと古羊さんの右足の甲で一度バウンドしたあと、ごろごろと床を転がっていった。幸い土鍋は割れず、古羊さんの足は腫れた。骨が割れなかったのは不幸中の幸いである。
「大丈夫? 姉さん」
あまりの痛さに声も出せずうずくまる古羊さんに、詩音は慌てて駆け寄った。うう、という獣じみたうなり声をわずかに上げ、古羊さんは下を向いたまま動かない。泣いているのか、と思った途端、生まれてこのかた姉が泣いている姿を見たことのなかった詩音は珍しく動揺した。父と母を亡くした時も、古羊さんは詩音の前では泣いたことがなかった。
「ちょっと見せて」
「………」
足を見る前に、詩音は古羊さんの頬を両手で挟むように持ち上げ、表情を確認した。泣いてはいなかった。いつも他人から怒っているように見られがちな下がり気味の口角がぎゅっと内側に寄り、おちょぼ口になっている。詩音は笑いたいような、けれどもいらいらとした気分になって目を逸らした。あんまり古羊さんが自分に対して無防備なことに、ほんの一瞬いらついたのだ。詩音は固い表情で姉を近くの椅子に座らせると、右足を手にとった。
「腫れそうだけど、骨は大丈夫みたいだね」
軽く周囲に圧迫を加えながら詩音は云った。
「ともかく冷やそう」
てきぱきと氷水の入った金だらいを用意した詩音は、古羊さんの右足をその中に浸けるとまたすぐ立ち上がった。台所の流しで今度は氷のうを用意しているみたいだった。
無駄のない弟の動きを目で追いながら、古羊さんはおとなしく氷水に足を浸して待った。痛みが徐々にやわらいでいくように感じられた。詩音が結婚するという衝撃はいつまで待ってもおさまらなかったが、少しだけ時間稼ぎできたことに古羊さんはほっとしていた。
詩音は氷のうを手に戻ってくると、古羊さんの前に再びひざまずいた。氷水の中から赤くなった右足を持ち上げて、自分の左膝に置いた。手拭いで水分を拭きとって足の甲に巻きつけると、氷のうをその上から押しあてた。
「冷たすぎない?」
古羊さんは黙って首を横に振った。実際、冷たさなど感じなかった。痛みもどこかに飛んでいき、あるのは足の裏に伝わる詩音の体温と自分の足を支える指の感触だけだった。
「詩音、この家を出ていくの?」
「結婚したら、そうするつもりだよ」
「わたしが出ていこうか」
「なんで?」
氷のうから顔を上げて、詩音が鋭く問い返した。古羊さんは思わずたじろいで、あたふたと答えた。
「ほら、だって、わたしひとりだし。結婚するなら一軒家のほうが何かと便利でしょう?」
「ああ、そういうこと」
詩音は目元を緩め、再び氷のうに視線を落とした。
「それなら心配はいらないよ。新しいマンションももう見つけてあるんだ。仕事場に近いし、子どもが生まれてもじゅうぶんな広さだよ。それに姉さんだってそのうち結婚するかもしれないじゃないか」
「わたしが?」
「そうしたら相手とここに住んだらいいよ」
「………」
「頼むよ」
云ってから、自分は何を頼みたかったのだろうか、と詩音は考えた。
「……そうね」
古羊さんは気のない様子で相槌を打ちながら、自分は今、ほんとうはこんな話をしたい訳ではなかった気がしていた。お互いがどこか釈然としないながら、会話は流れていく。
沈黙が下りた。
詩音は優しく賢くうつくしい。子どもの頃からはしっこく、誰からも愛され、何事もそつなくこなす才に長けている。天は二物以上のものを彼に与え、それを享受することが詩音にとって何より重要な使命であり、そのための手段のひとつに「結婚」があるとするならば、ためらいなく手を伸ばす。今がその時なのだった。
古羊さんはじっと詩音の髪の毛を見ていた。くるくるふわふわやわらかそうな巻き毛。自分とはまるで似ていない、だからこそ守らなければならない、血のつながった唯一の弟。家を出ていくということは、髪を切ったり足を冷やしたり、自分に触れるこの指の感触が、遠く離れてしまうことなのだと思った。
つと手を伸ばし、詩音の髪に触れてみた。自分のほうからそうしてみるのは、子どもの時以来かもしれなかった。
「詩音」
古羊さんは語りかけ、もう少し大胆に手のひらごと髪に埋めた。昔と変わらず、見た目どおりのやわらかさだ。少しくすぐったい。
「しあわせになるのよね?」
「しあわせになるんだよ」
間髪入れず詩音は答え、古羊さんはいささか乱暴にくしゃくしゃと頭を撫でた。
「おめでとう」
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