人と人は、文化と文化は、言語と言語は交わり合いながら、新しいうねりを作り出してゆく。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもある、ラモーナ・ツァラヌさんによる連載短編小説!
by 文学金魚
空に太陽が見られるのは、年に一回だけだった。太陽祭の日で、一年で昼がもっとも短いこの日は、昔は冬至と呼ばれていた。しかし季節がなくなってから、その名は不要になってしまった。ただ太陽の光が一番弱くなる日なので、この日だけは昼頃までは人工雲を飛ばさずにすむ。人工雲とは、地上を強すぎる太陽の灼熱から守る装置のことだ。
その日、シーラは太陽祭関連のイベントでスピーチをすることになっていた。立派な室内庭園で有名なエストレイヤホテルで、まる一日かけて、環境省主催のイベントが行われるのだった。シーラは特別ゲストとして招かれ、スピーチしたあとに、聴衆といっしょに屋上で日の出を観ることになっていた。
シーラは環境活動家だった。地球が自然豊かな星だった時代の映像や写真をコラージュにした彼女のスピーチは評判がよかった。森、湖、野原に咲く花に舞い降りる蝶々、リス、鹿やそのほかの動物、鳥やそのさえずり、川や雨の音、虹や雲など、今では見られず聞こえなくなってしまった映像を背景に、かつては美しかった地球の物語を話した。
奇跡的にすべての条件がそろい、生命を宿すようになったこの星は、過去に何回も危機に直面していた。二・五億年前の、巨大な噴火や超大陸形成による大量絶滅。六六〇〇万年前には小惑星の衝突により、七十五パーセントの動物と植物が絶滅。氷河期や砂漠化による生命の多様性の減少。地球の生命は何度も絶滅の危機に瀕したが、毎回それを乗り越えた。だからどんなに深刻な状況になっても希望を失ってはいけない、というのがシーラのスピーチのポイントだった。火星への移住計画が進む中、過去のデータや映像を映し出しながら、地球をあきらめてはいけないと彼女は主張し続けていた。
科学者や地球温暖化問題専門家の中で、彼女の主張を支持する者はほとんどいなかった。もはや環境改善は絶望的で、人類を火星に移住させ、そこでゼロから社会を築き上げるしかないという主張が隅々にまで行き渡っていた。それに宇宙開発は科学者たちの長年の夢だった。世界中の先進国の全面的支援を受け、夢の実現を目の当たりにした科学者たちが、シーラの言葉に耳を傾けるはずもなかった。
反体制とまではいかないまでも、シーラの活動は政府の大方針と対立していた。にもかかわらず政府主催のイベントに招かれるのには理由があった。先進国の人口の約八割がうつ病に苦しんでいた。原因は二つあると言われていた。心理学者によれば、人工雲によって太陽の光が遮断されているのが、うつ病の爆発的増加の原因だった。
もう一つの原因は宇宙船に乗って火星に行き、新たな世界を築く人たちが限られていることだった。政府は選考基準などを一切公表していなかったが、十代や二十代の若者の中から数パーセントしか選ばれないだろうと言われていた。文字通り暗い世界で、特に四十代を過ぎた人たちは未来に対する希望を失くしていた。
実際自殺者の数は、日々その記録を更新していた。「自己シャットダウン」と呼ばれる新たな病気も蔓延していた。重篤な段階のうつ病患者が外の世界と関係を遮断し、飲料と食料を拒否し、話しかけに反応するのも拒否して自分を死なせるという病気が先例のない規模で広まり、毎日世界中で数千人の命を奪っていた。そんな社会状況の中で、昔の美しい映像を背景に地球は必ず復活すると説くシーラのスピーチは、多くの人々の慰めになった。非公式だが政府もその効果を認めていた。
シーラは今回、虹やオーロラ、日食など、かつてはあったが現在は見られない自然現象の映像を見せながら、太陽祭の原型だった冬至をめぐる世界中の風習について話した。聴衆の中に一度も自分の目で虹を見たことがない若者がいて、感嘆の声をあげた。最後にシーラは世界中の研究機関が力を合わせて自然環境復旧の研究を進めれば、きっと地球はかつてのような自然を取り戻せると主張した。
「人工雲がなければ、太陽の光があたる地上の温度は六〇℃で、人間には耐えられません。太陽との関係をやり直せるというあなたの主張には、どんな根拠があるんですか?」
スピーチの終わりに聴衆の中から質問があがった。
「人工雲を使わずにすむ方法の研究が、七年前まで行われていました。しかし火星植民化プロジェクトが優先され、助成金の支給が止まってしまったので、その研究は中止になったのです。適度な太陽の光が得られれば、緑が生え、水循環も復活する可能性があります。その可能性はゼロではないはずですが、力を失った地球を置き去りにしようというのが政府の方針です。でもこの地球はわたしたちの住む場所で、わたしたちを生んだ親ではありませんか。今の方針を変えるためには、この地球に生きる個々人が力を合わせて、ポリシーの優先順位を今一度考え直す必要があります」
いつものことだが、最後まで穏やかに話そうとしていたシーラの口調が、冷静さを失って戦闘的になった。
「そもそも「火星植民化」ではなくって、「避難」でしょ。わたしたちだって避難なんかしたくない。だけど火星に引っ越すことが、唯一わたしたちに残された希望なんじゃないですか」
近くに座っていた女性が即座に反論した。
「それはでたらめだ」とシーラは思った。しかし今ここでそれが違うという証拠を提示できない。シーラはぐっと言葉を飲み込んだ。
「皆さんもうすぐ日の出の時間です。屋上に急いでください」
司会をしていた政府関係の男がそう言って、シーラと聴衆の議論を打ち切った。会場にいた人たちが屋上に移動しはじめた。
「今日、あなたをお呼びしたのは、太陽の話をしてもらうためで、環境運動を起こすためではありませんよ」
「皆さんの質問に答えただけです。失礼します」
険しい顔の政府関係者にそう言うと、シーラはホールの外に出た。
スピーチを聞いていた何人かが、シーラと話す機会を望んで外で待っていた。昔、自分の目でオーロラを見たという人もいれば、スピーチの時に見せられた虹の写真がどこで撮影されたのか、知りたいという人もいた。「せっかくだから、日の出前の空の色を見ながら話しませんか」と言うと、シーラは屋上に向かった。
「いや、きれいな映像、ありがとうございました。ちょっと前に、VR旅行でイギリスへ行ったんですよ。そこでストーンヘンジを見ましてね。冬至の時は感動しますよね。シーラさんはよくVR旅行に行かれますか?」
エレベーターの中で中年の男が話しかけてきた。紺色のスーツの上着からぽっこりとお腹が出ていた。
炭素排出量を減らす対策として、飛行機を使った個人旅行が厳しく制限されてから、バーチャル旅行を可能にする機器が普及していた。VR旅行では今はもう存在しない場所へも旅することができた。温暖化で被害を受けて、現在では見られない世界遺産もVR旅行なら訪問できる。ストーンヘンジは珍しい旅行先として人気があった。しかしシーラから見れば、VR旅行は環境悪化によって、人間がどれだけ不自由になってしまったのかを象徴するものでしかなかった。
「VR旅行は、あまり行きませんね」
「いや、絶対行ったほうがいいですよ。ものすごく視野が広がります」
中年男はVR旅行の素晴らしさを、えんえんとほめつづけた。
屋上は蒸し暑かった。二十年前から東京で三〇℃以下の気温を体験した人はいない。ただ頭上の空には星がきれいに輝いていた。昔と比べて唯一変わっていないのは夜空だった。星は三十年前のように、二千年前のように、二億年前と同じように、遠くから地球に光を届けてくれた。人工雲は日没後は地上に戻されるから、夜空に星や月が見えるのだった。
月はいつものように青白く、冷たく光っていた。地球がたった三十年間で信じられないほどの変化を遂げたのに対し、宇宙はいつものようにそこにあった。人類が絶滅しても、びくともしない。「星たちは、いったいいくつの文明の衰退を目撃したんだろう」夜空を見上げるたびに、シーラはそう考えた。
日の出を待っていた人たちの間から声が上がった。朝日がもうすぐ出るところで、地平線が美しい紫色に変わっていた。みるみるうちに空が明るくなった。日の出の様子を見逃さないように、人々は屋上の端っこに固まって待機していた。
必死に朝日を観ようとする人たちを見て、シーラは悲しくなった。日の出が毎日見られるのは、少し前まで当たり前だったのに・・・。その時、横からだれかが自分を見ているのに気づいた。
「こんにちは。先ほどスピーチを聴かせていただきました」
笑顔で礼儀正しく話しかけてきた男の顔を、シーラはニュースで何回か見た覚えがあった。
「新原賢司と言います」男は自己紹介すると名刺を取り出した。
名前を聞いて思い出した。火星に行くための宇宙船開発に取り組んでいるエンジニアチームの責任者だった。開発の進捗状況やその技術について、メディアで話しているのを何度か見たことがあった。彼の話し方には少年が夢を語るような情熱があった。この規模の宇宙船開発は人類にとって初めての試みなので、当初は予測できなかった困難があり、新しい発見もたくさんあった。最先端の技術を使っているのでとても刺激的な取り組みのようだった。
火星移住計画には疑問を持っていたが、シーラは新原のようなエンジニアの話に夢や刺激があることを認めていた。それに今のような時代、元気に楽しく生きていられるのは、自分の技術で人類の未来を切り開けると信じているエンジニアと科学者くらいだった。自然環境の保存と復旧よりも火星植民化計画を優先し、そこに莫大な予算を費やすことに決めたのは政府であり、科学者たちではなかった。彼らは彼らの使命に従っていた。それはシーラもよくわかっていた。シーラは軽く会釈すると、自分の名刺を新原に渡した。
「とてもいいスピーチでした。映像で使った写真や動画は、どこで集めたんですか?」
シーラは戸惑った。自分の仕事に夢中のエンジニアでも、映像アーカイブで集めたことくらいわかっているはずだ。初対面なので、新原は話の切り口を探しているのだと思い、シーラはできるだけ丁寧に答えた。
「虹やハロー、オーロラといった現象の映像は、自然博物館やJAXAが一般公開している映像アーカイブで見つけたものです。冬至にまつわる文化の写真と動画の一部は、ニューヨークの文化センターのアーカイブからお借りしました」
「初日の出とか、ストーンヘンジや北極の光とか、懐かしい光景がたくさんありましたね」
またストーンヘンジかと思い、シーラは黙った。VR旅行の話はうんざりだった。強さと明るさを増しながら、太陽が空に昇りはじめた。空にまだ透き通るような青さが残っていて美しかった。
「やっぱり日の出はいいなぁ。毎日見られるといいのに」
シーラは少し嬉しくなった。「新原さんは地球がこんなふうになってしまう前に、日の出を観たこと、ありますか?」と聞いた。
「十歳くらいだったかな。父親に連れられて、初日の出を観に富士山に登ったことがあります。まだ雪と氷が残っていたから、子供にはすごくしんどい登山でした。でも山頂から見た日の出の美しさは、今でも忘れられない」
「それは、うらやましい」シーラは呟いた。
シーラが八歳になるくらいまでは、太陽が空に昇るのを見られた。しかしその後、日ざしの強さが危険なレベルを超え、少しずつ人工雲で覆われるようになった。最初の人工雲は気球の構造をなぞっていたので、石粒が団子になって、不思議な法則で空に浮かんでいるようだった。しかし最近の人工雲は人工衛星の構造をもとに作られていた。たくさんの人工雲が空に上り、地上三千メートルくらいの高さで鳥のように羽を広げて、太陽の灼熱から地球を守る大きな日傘になるのだった。
そのおかげで気温は下がったが、空はほとんど見えなくなった。光の減少は植物の光合成に影響を与えるので、多くの生物が失われた。風も雲もなくなったので水循環がひどく弱っている。三十年前、地球の極や高山にあった氷河の大半が溶け出した結果、海面が上昇し、多くの沿岸地域が海に覆われた。しかし地球の九割を覆っている海は、ただの水たまりにすぎない。
「一つお聞きしたいんですけど」
じっと日の出を見つめていたシーラに新原がたずねた。
「シーラさんは、地球の自然が本当に復旧可能だと思いますか? 水循環とか、緑とか、絶滅した動物とか。僕は取返しのつかないことが起こってしまったような気がするんですが。それでもあなたはこの危機を乗り越えて、地球が生き延びられると思いますか? 正直な意見を聞きたいです」
「生命の力を信じています。世界中の科学者が協力し合って、自然環境の復旧に力を注げば、復旧できると思います。絶滅してしまった動植物は取り戻せないでしょうが、水循環を戻して自然な雲や雨、そして適度な太陽の光があれば、緑もまた元気に生えるでしょう。やろうと思えばまだ間に合うと信じています。ただそのためには、各国が協力しないといけません。なのに現在は、国連が完全に違う取り組みに資金と知力を注いでいるわけでしょう」
新原は困った顔をした。「ありがとうございます。よくわかりました。やはりシーラさんは、地球のこと、信じていますね。なんか、心強いです」と言った。
この男は、なぜこんなに適当なことばかり言うのだろう・・・。
シーラは、新原が自分を挑発しているように感じた。太陽の方を見ると、地上からすでに人工雲が上がりはじめていた。日差しがもっと弱い日でも、太陽が昇るにつれて気温がどんどん上がる。昼になると、耐えられないくらいの灼熱になるのだった。
「この朝日を見てください。年に一度ではなく、毎日見られるはずのものです。そんな当たり前のことを取り戻せるなら、取り戻したくないですか?」
「もちろん、取り戻したいです」
シーラは新原の顔を見た。特に気を悪くした様子は見えなかった。
「ごめんなさい。ちょっと言い過ぎたような気がします」
「よかったら、一度ゆっくり話しませんか?」
新原の声は穏やかだった。冷静さを失っているのは、シーラの方かもしれなかった。
「いいですよ。時間が合えばいつでも。じゃあ、わたしはこれで」
「お会いできてよかった。また今度、あらためて」
軽く会釈すると、シーラは屋上の出口に向かった。下りのエレベーターは満員だった。皆小声で朝日を観た感動を語り合っていた。シーラは一年間で一回だけ朝日を見られるなんて、普通じゃない、空を毎日見られるのが当たり前のはずなのにと思った。
悲しみが、ねっとりとした液体のように心に染みついた。早くここを出て一人になりたかった。ひどく疲れていた。座って休もうと思っても、ロビーは人でいっぱいだった。自分に気づいて挨拶したり、話しかけてきそうな人もいたので、下を向いて、急いでいるふりをして人の間をすり抜けた。早く誰もいない場所で心を落ち着かせないと、泣いてしまいそうだった。
シーラも鬱病だった。しかし公の場で気分が沈んだり、人前で泣いてしまうことはない。普段は自分をうまくコントロールして、家に帰ってから気が済むまで泣くのだった。しかし今日は違っていた。スピーチをして、そのあと聴衆とやり合ったり新原と話したせいか、喉に息が詰まって今にも泣き出しそうだった。シーラは温室の入り口を見つけると中に駆け込んだ。
温室といっても、厳密にいえば、もう戸外では生きられない植物を育てるために、温度、湿気、そして照明の光を調整した空間だった。エストレイヤホテルの温室は、今では見られない植物の多さと美しさで有名だった。シーラも何回かこの温室を訪れたことがあった。小さな滝が流れる場所もあり、特にそれが気に入っていた。
中に入ると、シーラはまっすぐに滝のほうへ向かった。みずみずしい緑を目にしたとたん、涙が溢れた。誰もいなかったので、滝の前にあるベンチに腰かけると深いため息をついて、顔を手でおおって静かに泣いた。滝の音が小さな嗚咽をかき消してくれた。
こんなところで泣いてしまうなんて・・・。
スピーチの準備で疲れてはいた。その上、朝の澄んだ青空と日の出の美しさに、予想以上に心を揺さぶられた。一年に一度だけ日の出を見ることで満足する人たちは、いったい何を考えているんだろう。満足できないなら、どうして環境に対する政府の方針が変わるまで戦わないのだろうとも思った。無力さと空しさで心がいっぱいだった。
近くに人の気配を感じた。ハッとして視線を上げると、新原が立っていた。シーラは思わず顔をそむけた。
「どうしたんですか?」
驚いた声だった。「逃げたい」真っ先にそう思った。今の気持ちを説明するなんて、不可能だった。しかしこのまま温室から逃げ出してしまうのは、あまりにも不自然だった。必死に自分を落ち着かせると、「一人にさせてくれませんか?」と静かに言った。
この場から立ち去ってくれるのを期待したが、新原はベンチの端っこに座り、黙って滝を見始めた。新原は、シーラが鬱病だということに気づいてしまったと思った。少し落ち着きを取り戻すと、「あの、お願いがあるんですけど」と話しかけた。
「何でしょう?」
「わたしをここで、この状態で見たことを、だれにも話さないでもらえますか」
「もちろんです」
シーラの気持ちに配慮しているのか、新原は滝を見ながら答えた。この人は信頼できる人なのかもしれないと思った。
「ありがとうございます」
シーラは立ち上がると、温室の出口に向かおうとした。
「僕にできることがあれば、いつでも言ってください」
パッと立ち上がると、シーラの目を見つめながら新原が言った。
「ご心配かけてすみません。もう大丈夫ですから」
もっと何か言うべきなのかもしれないが、今は無理だった。シーラは軽く微笑むと歩き出した。一刻も早く一人になって、気持ちを立て直す必要があった。出口で振り向くと、新原が滝の前に立ち尽くしているのが見えた。
土いじりをしているとき、シーラが思い出すのはいつも母親のことだった。花や緑が好きだった母親は、水循環がくずれ、植物がみるみる少なくなってゆくのを見て鬱病になり、あっという間に亡くなってしまった。シーラは庭で麦わら帽子をかぶり、鼻歌を歌いながら花の面倒を見ていた母親の姿をくっきりと記憶に刻みつけていた。仕事を手伝うと、植物の名前やそれぞれの花が好む環境について教えてくれた。自分で土いじりをするようになり植物を相手にする時は、いつも母親と話しているような気持ちになった。
その日シーラは、朝からずっと温室で植物の手入れをしていた。緑に囲まれている時は平和な気持ちでいられた。突然、ドアベルが何度も鳴る音が聞こえた。あわてて温室を出ると、ベルを鳴らしながらドアを叩く音が響いた。何事が起こったのかと思い、シーラはドアスコープを覗いた。新原がドアの前に立っていた。
「あ、いた。よかった」ドアを開けると新原がほっとした笑顔を見せた。
「どうしたんですか?」
「朝から電話してたんだけど、出ないので、何かあったんじゃないかと思って」
「あ、すみません。ずっと温室の中にいたので、電話の音が聞こえなかったみたい」
ホテルの温室で泣いているのを見られてから、新原とは何度か会っていた。シーラとは立場が違うが、彼なりに地球環境を憂いていることもわかった。ただ新原はシーラが鬱病だと知っていた。彼が心配するのにはそれなりの理由があるのだった。
「よかったら、中でお茶でも」
「いいんですか? 嬉しいな」新原は満面の笑顔で答えた。
お互いの住所は交換していたが、新原が家に訪ねて来たのは初めてだった。この前会ったとき、シーラは少し落ち込んでいた。よくあることなのだが、新原はそれを覚えていて心配してくれたようだった。
新原は珍しそうに家の中を見回した。シーラは玄関の廊下とリビングルームの壁に、たくさんの空の写真を飾っていた。真っ青な空の写真もあれば、雲や夕焼けの写真もあった。すべて今では見られなくなった風景ばかりだ。リビングルームはカーテンやソファもスカイブルーで、本棚やテーブルに飾った置物も同じ色だった。
シーラはキッチンの冷蔵庫で冷やしていたアイスティーを持ってきた。「ありがとう」と言ってグラスを受け取ると、新原がシーラを見て微笑んだ。土いじり用の服とエプロン姿で、汗だくなままだった。「ちょっと失礼します」と言うと着替えに行った。鏡の前に立つと顔に土がついていた。何も言わないのが新原らしかった。顔を洗い、髪の毛を整えるとシーラはリビングに戻った。
新原は立ったまま本棚を見ていた。シーラは部屋の隅にある固定電話と、その隣に置いたリストフォンが点滅していることに気づいた。履歴を見ると、新原から十件近く着信があった。
「だいぶ電話、もらったみたいですね。気がつかなくて」
「リストフォンでも返信がなかったから、ちょっと焦りました」
「リストフォン、普段は身につけているのですが、温室に入る時は外すんです。湿気や土などでダメになっちゃうから」
「そうでしたか。温室、想像してたより立派だなぁ」
新原が温室を見ながら言った。
「見ますか?」
「是非」
温室はシーラの両親が残してくれたものだった。家から数メートル離れたガラス張りの建物で、高さは六メートルくらいあり、個人所有の温室としては大きかった。LED照明に照らされているので、真昼でもどんよりしている外より温室内の方が明るいくらいだった。シーラがいつも世話をしているので植物の種類も多く、緑も鮮やかだった。
入り口付近には、色とりどりの小さな花が咲く畑があった。ガラスの壁沿いには低木が植えられていた。壁掛け鉢やハンギングプランターにも花が咲いていた。中へ進むと松や桜、楓などの木が一本ずつ植えてある。木影に白いテーブルと椅子が置かれていた。シーラが座ってお茶を飲みながら読書を楽しむ場所だった。木製の仕切り柵の向こうには野菜畑があった。トマトやピーマン、サラダ菜やパセリなどが、伸び伸びと育っていた。
「へぇ、野菜も作ってるんですね」
「少しですけどね」
基本食料が配給制になってから、新鮮な野菜を手に入れるのが難しくなった。野菜を作る農家のほとんどが国家運営で、個人運営の農家は少ない。配給対象にならない野菜がほしい人は、高いお金を払って信頼できる農家から良質なものを手に入れるか、温室で自分の手で育てるしかないのだった。
「僕はいつも研究所の食堂で食事を済ませていますけど、野菜の量は少ないなぁ。こういう温室で野菜を育てて自給自足しているのは、贅沢ですね」
「温室なんかなくても、どこででも、普通に野菜を育てられるといいんですけど」
そう言ってから、シーラはしまったと思った。新原の仕事を否定して、議論を吹っかけてしまったように感じた。案の定、新原は「シーラさんがおっしゃっていた自然環境復旧の研究って、具体的にはどんな研究なんですか?」とたずねた。
「黒川裕先生という方が主任で行われていた量子化学の研究です。かなり有名な研究のはずですが・・・」シーラは新原の意図を探るように話した。
「いや、自分の専門ばかりやっていて、量子化学の研究とかには本当に疎いんです」
シーラは新原を見た。黙って彼女の言葉を待っていた。「じゃあ簡単に説明しますね」シーラは話し始めた。
「ここまで温暖化が進んでいるのは、温室効果のせいだと一般的に認められていますよね。地球によって反射された太陽の放射が、大気圏に閉じこめられてしまっているから地球の気温がどんどん上がってしまう。主な原因は、大気における二酸化炭素の量の増加です。近年では二酸化炭素の排出が制限されているのですが、それだけでは不十分です。二酸化炭素によって放射が閉じこめられないようにするには、大気を構成するガスの割合を直すような対策が必要です。黒川先生は量子化学の技術を使って、大気の治療になりえるようなガスの開発を行っていました。そのガスを大気中に噴霧すれば、放射は大気圏を突破して宇宙に散乱するという仮説です。それが可能になったら、人工雲を使わずに済むはずなんです」
「なるほど。その研究はどうなったんですか?」
「決定的な結果を出すはずだった実験が行われる前に、助成金がストップしてしまったんです。研究に致命的な欠陥が見つかったからだと言われていますが、わたしは疑っています。国際連盟のポリシーが、なぜか急に変わっただけじゃないかと思うんです。とにかく、あの規模の量子化学実験のための資金を見つけるのは、困難になってしまいました。黒川先生が指導していた研究チームには様々な国籍の研究員がいたんですけど、帰国したり転職したりして、みんなバラバラになってしまった。先生もご病気になり、亡くなってしまいました」
「シーラさんは、黒川先生にお会いになったこと、あります?」
「いいえ。当時、わたしはカリフォルニア大学で勉強していて、先生の研究は噂だけ聞いていました。研究が中止になり、黒川先生がお亡くなりになってからこちらに移住しました。環境問題に一生懸命になってから、黒川先生と一緒に働いていた研究者を何人か見つけて、なんとかその研究を続けられないか色々調べてみました。だけど資金と政府のサポートなしでは、何も動かせない状態です」
「その研究の詳細、気になりますね。何か資料はありますか?」
「お見せましょうか? ちょっと待っててください」
シーラが分厚いバインダーを手渡すと、新原は膝の上に拡げて読み始めた。黒川裕のプロフィールと研究実績、研究室に集まっていた先生と様々な国籍の弟子たちの写真、彼の理論を分かりやすく説明した新聞の記事、実験の成果がどれほど期待されているのかを論じた科学雑誌の記事、研究理論に致命的な欠陥が見つかったという記事、黒川は名誉毀損を訴え、裁判が行われた時の記録、研究が中止になり、黒川研究室が解散したことを報告した記事、黒川裕が亡くなったという短い記事・・・。
シーラは資料を読む新原を黙って見つめた。静かだった。風は吹いていないのに、植木のしっとりとした葉っぱが揺れているような気がした。目を閉じて、緑の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。山の中にいる自分を想像した。森の中の涼しさや木漏れ日。そして果てしなく広がる青い空。それを取り戻したいと思った。
「量子化学か。循環を復活させるためには、まず大気を元の状態に戻す必要がありますね。放射が宇宙に発散されるための仕組みを作るのは確かに画期的ですが、どれほどの研究と試行錯誤が必要か。想像するだけで気が遠くなってしまいそうだ・・・」
そう言ったが、新原の口から黒川の研究を否定するような言葉は洩れなかった。シーラはお茶を持ってきて、新原としばらく温室で話した。「家でゆっくり資料を見ていいですか?」と聞いた新原に、「どうぞ必要なだけ持っていてください」とバインダーを手渡した。
温室を出ると、まだ夕方なのに外は暗かった。明るく色鮮やかな温室にいたので、人工雲によって空が覆われている暗さが余計目立った。
「ああやっぱり暗いなぁ」
「そうですね」
シーラは新原と肩を並べて立って、空を見上げた。
(前編 了)
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