人と人は、文化と文化は、言語と言語は交わり合いながら、新しいうねりを作り出してゆく。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもある、ラモーナ・ツァラヌさんによる連載短編小説!
by 文学金魚
終点で電車を降り、バスに乗った。駅前を離れるとすぐに山の中だ。バスはくねった道を上り、山に吸い込まれるように坂を下ってゆく。バスの乗客は奈々恵を含めて八人で、地元の人らしいおじいさんとおばあさんだけだった。木々の緑や木漏れ日、道路沿いに咲いている花を見ながら、「ああやっぱりここは落ち着くなぁ」と奈々恵は思った。
奈々恵は刺激が多く、なんでも揃う都会が好きなんだと思っていた。しかし大学生になる頃からじょじょに自然に惹かれていった。就職してしばらくして引っ越した今のマンションも、大きな川が近くにあるから決めたのだった。すぐそばに広大な自然があると思うと安心した。
目的地は山の中腹にあって、バスを降りるとすぐそばが崖だった。近くに神社があり、百メートルほど続く参道の両側におみやげ屋や小さな飲食店が並んでいた。平日で、参拝に来ていた人は少ないが、ちらほらいた。
奈々恵は歩いて民宿に向かった。暑くなると思ったのに案外涼しかった。山の中のせいかもしれなかった。山に沿ってぽつぽつと民家があり、道路の向かいに小さな畑が拡がっていた。民宿は坂を少し上った所にあった。目印の看板を見つけて坂を上ると、朝顔棚に色とりどりの朝顔が咲き乱れているのが見えた。朝顔は朝咲いて昼過ぎに萎むのが普通だが、ここの朝顔は夕方まで咲いていた。和子と来た時も着いたのは今くらいの時間だったが、朝顔たちが出迎えてくれた。
奈々恵はどきどきしながら朝顔棚に近づき、スマホで写真を撮った。花びらが厚く、色の濃い朝顔たちだった。少ししおれているのが、なんだか今の自分の心を代弁しているように思えた。奈々恵はいろんな角度から朝顔たちを撮った。なにか願掛けが成就したような気がした。
「こんにちは、きれいでしょ」
振り向くと割烹着姿の中年の女性が立っていた。奈々恵はすぐに民宿の女主人だと気づいた。
「とってもきれいです。ここの朝顔をまた見たくなって来たんです」
「あらうれしい」
ものすごい早口だった。ああそうだった、こんな話し方をする人だったと思い出して、奈々恵は嬉しくなった。
「あの、カフェありましたよね。まだやってますか?」
「もちろんよ、どうぞ」歩き出しながら、「もしかして前に、うちに泊まったことある?」と聞いた。
「ええ四年くらい前ですが」
「やっぱりね。わたし、記憶力だけはいいのよ。お客さんの顔は、何年前でも忘れないの」
窓際の席に座ると、色とりどりの朝顔が間近に見えた。女主人が紅茶を運んで来た。ポットからカップに紅茶を注ぎながら、「クッキーはサービスよ。お菓子作るのが好きだから、お客さんに食べてほしいだけだけど」と笑った。
「いただきます」紅茶の香りを楽しみながら、奈々恵はカップを口に運んだ。
「思い出したわ。お友達と二人で泊まってくださったのよね。お友達は元気?」
「はい、結婚しましたけど」
「あらおめでとう」また早口で言うと「まだ若いわよね。若くして結婚するといろいろ大変よ。仲良くしてあげてね。話を聞いてくれる友だちは何より大切なんだ」と続けた。奈々恵はどきりとした。結婚してからの和子の悩みなんて一度も聞いたことがない。そもそも、心を開けてくれるほど信頼してくれるかどうかも分からない。
「ちなみに今日はこのあたりの宿に泊まりに来たわけじゃないわよね」と女主人がまた早口で言った。
「本当に朝顔を見に来たんです。すごくきれいだったって記憶があったから。日帰りで帰るつもりでいますけど」
「そう」女主人がなんとも言えない複雑な表情を浮かべた。
「明日もお休みなら、泊まってきなさいよ」
唐突にそう言った。休みじゃないが、仕事にも普通にいけないと奈々恵は思い、一瞬迷ったが「はい、じゃあそうします」と答えた。今は外から光りが差し込んでいるので目立たないが、暗くなるとバスや電車の窓に、姿の写らない自分をまた見ることになる。部屋に戻ってそれを考えるのもいやだった。
「よかったぁ。宿泊業やってると、一人のお客さんは要注意ってよく言うのよ。たまに自殺したりする人がいるのね。あなたはだいじょぶだと思うけど、若い女の子って心配なの。なんにも持ってきてないわよね。必要な物あったら言って。ちょっと遠いけどコンビニもあるし」
「ありがとうございます」頭を下げた奈々恵に、「今お部屋用意しますからね」と微笑んで女主人は母屋に向かった。
夕食はカフェでいただいたが、女主人が「お好きな席にどうぞ」と言ったので、奈々恵は窓から離れた真ん中の席に座った。相客は初老の夫婦だけだった。さっき紅茶を飲んだ時とは違い、女主人はあまり奈々恵に話しかけなかった。「山菜の天ぷらよ。こっちからタラの芽、山ウド、根曲がり竹ね」
お料理の説明をすると、カフェの隅に立って二組の食事の様子を見守った。食べ終えると次のお料理を運んで来て、お茶をつぎ足してくれた。前に来たときは和子とおしゃべりに夢中で気づかなかったが、すごく気の回る女性だった。
「奥さん下町だろ」
「あ、わかります?」
「わかるよぉ。俺も下町っ子だもん。どこ?」
女主人と初老の御主人が話しているのが聞こえ、奈々恵は微笑んだ。どうして山の中で民宿をやるようになったのかは知らないが、人を温かく包み込むような力を持つ強い女性に思えた。この女主人のような人付き合い上手な人なら、自分の心を閉じて、友だちと離縁になるのはきっとないよな、と奈々恵は考えた。
なるべく鏡を見ないように浴場で手早くシャワーを浴び、部屋に戻ってドライヤーで髪を乾かすとすることがなかった。さっき撮った朝顔の写真をチェックした。朝顔を見るためにここまでやって来た。四年前と同じように大輪の花を咲かせていた。
山の夜は静かだった。虫が部屋に入らないように電気を消して、窓を開けた。真ん丸な月の明りに照らされていた山の輪郭は、夜空の下ですやすや眠っている巨人の背中に見えた。空気が澄んでいて、星がよく見える。宝石がちりばめられいる白い帯のような天の川は特に美しい。森のほうから、コオロギの鳴き声だけが聞こえる。
「仲良くしてあげてね」という女主人の言葉がまだ奈々恵の耳にひびいていた。好きな人と結婚している今の和子は、自分を必要としているのかしら。あの時の無骨なことを許してくれたのかしら。もしかしたら、自分をもう思い出していないのかもしれない。あの時はいったい何を考えていたんだろう。自分よりもずっと世渡り上手な彼女を見下すなんて。奈々恵は、自分のくだらない優越感がいやだった。仕事をはじめて、勉強とは違って最初から思いどおりにいかず、必要なスキルを身につけるのに大変な思いをしてやっと仕事に慣れてきた今、前よりずいぶん素直になっていた。それでも、和子が許してくれたとしても、自分をそう簡単に許せないと思った。とは言っても、和子と向き合わないと前に進められない気がした。三年間も連絡しなかったということもあって、彼女にきつい言葉を向けられるかもしれない。しかしそれも自業自得。和子に何か言われても、鏡に自分の姿が見えないことより痛くはないだろう。
窓を閉めて、いい香りをするきれいな布団に入った。外からコオロギの鳴き声がどこかわびしく聞こえるなか、奈々恵は眠りに落ちた。
電車にゆられながら、向かい側の席に座っている和子と一緒に旅に出ている夢を見た。和子は考えごとに更けて、窓の外を見ていた。こんなに近くから友だちの顔を見るのが懐かしかった。少し寂しそうな顔をしていたから、自分が見えていないのでは、と奈々恵は一瞬思った。突然、何かを見た和子は笑顔になって、一生懸命に外を指さして奈々恵に見せようとしていた。和子には自分が見えると分かって、奈々恵は嬉しかった。彼女が指さしている方向へと目を向けたら、遠くに連なる山の峰の上に虹色の雲が浮かんでいるのを見た。和子は素早くスマホを出して写真を撮っていた。
涙が目じりからこぼれた。その一筋の冷たさに奈々恵は目ざめた。この三年間、無意識にずっと和子と会いたかったのに、話しかけてみるのがしんどかったから、いつの間にか心に壁を作っていた。そんなことまで、和子はゆるしてくれるだろうか。
もどかしい気もちを払うために、カーテンを引き、窓を開けようとした。すると、窓ガラスに自分の姿が写っているのに気づき、「わっ!」と声をあげた。
気のせいなのではないかと恐れながら、バッグから手鏡を出して確かめてみた。「戻った!」自分の顔が写っているのを見て、喜びで泣きそうになった。
「これ、和子に言わなきゃ」とひとり言をして、スマホをスクロールして和子の電話番号を探した。
「もしもし和子? 突然電話してごめんね」
いろんな思いを込めて「ごめんね」と言ったつもりだった。
「奈々恵! 心配したのよ!」
和子の明るくて弾んだ声は、奈々恵にはたまらなく懐かしかった。友だちにこんな朝の時間に電話をかけた理由も忘れていた。
「ごめんね。合わせる顔がなかったの」と、言葉を選んで言ってみた。
「こっちこそ連絡しないでごめんね、ほんとにごめん」と和子が答え、その言葉に奈々恵はホッとした。今からでもやり直せるかもと、希望を感じた。
「どうしてる? 元気?」
「元気元気。色々あったけど。今度会わない? あ、そうだ。私、子どもがいるの」
「えっ! いつ生まれたの?」
「もうすぐ二歳になるよ。すでに歩き出して、あっちこっち走り回っていて、パパとママが追いつくのに大変よ」と和子が笑い声で行った。
「男の子? 女の子?」
「会う時まで秘密にしておく」
「ずるいよ」
奈々恵は泣きそうなくらい嬉しかった。和子にも自分にもいろいろな変化があった三年間後に、いつものように自然に話しているのは、奇跡のように思えた。友だちに許されるのも、許すのも決して当たり前ではない。このような奇跡に恵まれていて、生きていることに対してありがたみを感じていた。
来週の土曜日に、和子と真二と二人の子どもに会う約束をして電話を切った。和子に電話してよかったと思った。この山まで朝顔を見に足を運んでよかった。
山の朝の空気はいちだんと澄んでいた。カフェで朝食をとると、身支度を整えて、外に出た。朝顔は朝露に濡れて、昨日より元気いっぱいだった。身をかがめて、大輪の朝顔に向けて「ありがとう」とささやいた。
「夕方まで咲く品種だけど、やっぱり朝が一番きれいね」
奈々恵を見送りに出た女主人がうしろから言った。
「昨日の花よりずっと色が薄くて上品ですね」
「あら気がついた? 夕方になるにつれて、だんだん色が濃くなるのよ」
「ああそうなんですか。知らなかった」と奈々恵は言って、もう一度朝顔を見つめた。
「お世話になりました」と深く頭を下げてお礼をすると、「はいこれお土産」女主人は小さな紙包みを二つ差し出した。
「なんですか?」
「朝顔の種よ。わざわざうちの朝顔見に来てくれたんだもの、自分でも育ててみて。一つは結婚したお友だちにあげてね」と言った。
奈々恵は女主人の気遣いに心を動かされた。
「ありがとうございます。また来ます」
女主人に挨拶すると、奈々恵は坂を下りてバス停に向かって歩いた。
土曜日が待ち遠しかった。幼児向けの絵本と朝顔の種を持って奈々恵は待ち合わせの場所だった公園へ向かった。湖に面したベンチに座って、スマホを見ながら待つと、和子の声が聞こえた。
「奈々恵、ひさしぶり!」
立ち上がり、和子に向かって「ひさしぶり」と言って、「真二さん、こんにちは」と挨拶をした。
二人とも笑顔満面で、少しばかり大人びているように見えた。彼らの目には、自分はどう写っているのだろうと奈々恵は思った。
和子のスカートのうしろから、女の子が顔を出して、奈々恵を興味深く見上げていた。
「こちらはななえちゃん」と和子は娘を紹介してから、子どもに向かって「ななえちゃん、こちらは奈々恵お姉さんよ」
「ななえ?」
「奈々恵ちゃんにずっと会いたかったから、ななえと名付けたの。平仮名だけど。勝手にごめんね」と和子が説明した。
奈々恵は驚いて、言葉を失っていた。女の子の大きな目が自分を見ていたから、しゃがんで「こんにちは」と言った。
すると女の子は嬉しそうに笑って小さな腕を広げて彼女のほうへ歩いてきた。奈々恵も笑って、小さなななえちゃんを抱きしめた。
(後編 了)
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