ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
4(後編)
身売り。父の骨董とともに、香津の店に買われてもよい、とはっきり思ったのは、そのときだった。わけのわからない、あるかのごとき恋愛感情の錯覚より清潔ではないか。大手企業への就職だって、ようは身売りなのだ。
もしかして瓜崎は、ないはずの直感で、そんな瑠璃の心境を感じ取っていたのかもしれない。売春婦とは言い得て妙かも、などとあれこれ思う間もなく、大学祭の休みに出来事は起きた。穂高岳から鮎瀬が消えたのだ。
瑠璃を含め、同級生のほとんどがそれをニュースで最初に知った。同じクラスにはワンダーフォーゲル部員はいなかった。そもそも実験の忙しい理工学部では、本気で山登りするために何週間も大学に来ないなんて不可能だ。専門課程に進むと、夏休みでさえ実験室はめいっぱい稼動する。鮎瀬やボンは、栞の言った通り、コンパ要員に過ぎないはずだった。
鮎瀬の遺体が見つかったのは、騒ぎになって二日後のことだった。耳に入ってきたその状況は、山登りに疎い瑠璃でも、聞けば聞くほど不可思議に思えた。
穂高岳で行方不明と報道されたのだったが、実際にいなくなった場所は上高地のキャンプ地のようなもので、標高こそ一五〇〇メートルだが山腹ともいえない地形らしい。その夜、文字通り穂高岳を目指すグループと、キャンプ場に残って高地の動植物を観察して帰るグループに分かれ、別々にテントを張ったという。
鮎瀬は、穂高を目指すグループにいた。それは珍しいことだったが、専門課程に進めば山登りなどできなくなる、と言っていたらしい。妙に張り切って、そわそわしていたと言う者もいれば、いつもと変わらなかったと言う者もいた。小柄で細く、色白でどこか少女めいた、と言って悪ければ妖精の男の子じみた鮎瀬だったが、見かけによらず酒がやたらと強く、普段は雀荘に入り浸っていた。コンパ要員には違いなかったが、山の植物の生態には詳しかったらしい。頂上まで踏破することには関心が薄く、木陰で寝転がってみたり、一人で茂みを彷徨い歩いたりするのが好きだった。朝になり、いないとわかっても、その辺をほっつき歩いていると思われ、上を目指すグループは鮎瀬を置いて出発した。
鮎瀬はなかなかキャンプ地に戻ってこなかった。下に残ったグループは、鮎瀬が散歩がてら先に出発し、登山グループに合流した、ぐらいに思っていた。騒ぎになったのは、登山グループで体調不良者が出て、付き添いとともに下山してきてからだった。
上のグループにも鮎瀬はいない。出発の朝、姿が見えなくなってから、すでに一日半が経過していた。
鮎瀬が見つかったのは切り立った崖の下、遺体は沢に流されかけ、半分水に没していたという。予定の登攀ルートから少し外れた辺り、死亡推定は行方不明になった日の午後から夕方で、鮎瀬が同行するはずだった登山グループは、午前中にはその域を過ぎていた。
やはり鮎瀬は深夜から明け方に一人でテントから抜け、木々の間を歩いていたのだろう。華奢な体つきで、熊などものともしない剛胆なところがあった。その時間帯の山は本当に美しく、気持ちがよいという。先回りして登山グループと合流しようと、無茶なやり方でルートに出て、足を滑らしたのではないか。山に慣れたつもりの若い子がやりそうなことだと言われ、そのように事は収まりかけた。四国の愛媛から出てきて、大学近くで下宿していた鮎瀬の葬式は、やはり大学に近い寺で行われ、同級生の多くが参列した。
彼の写真に掌を合わせ、焼香した瑠璃は「まだ何回か残っている実験をどうこなせっていうの」と、ぼやきそうになった。隔週で行われる工学基礎実験は二人一組のペアを組んでいた。クラスではそれを学籍番号順でも、あいうえお順でもなく、なぜか誕生日順という変わった分け方で、五月二十一日生まれの鮎瀬と二十六日生まれの瑠璃は入学以来、ずっと一緒だった。
雀荘に入り浸りで、語学の授業などはフケがちの鮎瀬は、実験とそのデータの処理には驚くべき手際を発揮した。とりわけ瑠璃が最も苦手とする化学実験では、資料を横目で眺めながら、まるで料理でもこなすような要領のよさだった。瑠璃が基礎課程の二年間をどうにか終えられたのは瓜崎と、そして鮎瀬のお陰だった。手先が器用な鮎瀬は、比較的無口な方だったが、話し出すと明るい透明な声で笑った。
上高地で鮎瀬と会ったと、瓜崎が言い出したのは、葬式が終わって二、三日も経ってからだった。
「なんで、今頃そんな」
もう名前も忘れたが、瓜崎が言い触らした瑠璃の悪口について教えてくれた例の馬面の同級生から、それも聞いた。
うーん、と馬面は首を傾げた。
「鮎瀬の両親には、葬式のときに話したって言ってるけど。ま、自分が最後に会った人間ってわけでもなし、ってことだろうが」
鮎瀬はワンダーフォーゲル部の連中と一緒に品川を発ったのではなく、後から一人でキャンプ地に現れた。その程度の気ままは許されていたし、装備はちゃんとしていたという。
「その前日かな。瓜崎の泊まってたとこで、昼飯食ったって」
十月の大学祭休み、二年生ともなると自身のサークル活動のほか旅行など、思い思いに過ごす。特に付属高から上がってきた瓜崎は、今さら大学祭を見て歩く気にもなれないだろう。
「で、上高地に行ってたの? 何しに?」
上高地にある皇国ホテルが瓜崎の家の常宿で、瓜崎はそこを一人で訪れていたらしい。
「さあ。思索に耽った、とかかな。本、持ってったみたいだし」
春から秋までしか開いていない観光地だ。十月上旬といえば、上高地はもう秋深いもいいところだという。
ちょうど同じ頃、鮎瀬もその辺りに来る予定と聞き、ホテルの昼食に誘った、ということか。しかし、あの二人って、そんなに親しかったろうか。
瑠璃は腑に落ちず、同時になんとなく不快だった。
瓜崎とは以来、互いに口もきかなくなった。それも鮎瀬との関係を邪推されたのが原因なのに、その鮎瀬と瓜崎が旅先で落ち合うほど仲良くしていたとは。
「何の共通点もなさそうだけどね」
吐き捨てるように言い、瑠璃は後悔した。鮎瀬は亡くなったのだ。誰と親しくしていようと、けちをつけることはない。
「共通点といえば、君のことだな」馬面は言いづらそうに呟いた。
「あたし?」
馬面は頷く。「皆そう言ってる。二人で会って、君のことを話したんだろうって」
「みんなって誰よ」瑠璃は訊いた。「二人が話したことを知ってるのは、二人だけよね」
そして今となっては、瓜崎だけだ。瓜崎自身がそう言っているのか。瑠璃のことについて、二人で話したと。なぜ。二人とも、いったい瑠璃の何だと言うのか。
「鮎瀬が気にしてたらしいんだ」馬面は言った。「君に関して、瓜崎が言い触らしていたことをさ。どんな男と付き合ってるのかって、瓜崎に詳しく訊きたがってたみたいで」
「どうして」
だからさ、と馬面は目を逸らした。「やっぱり、好きだったからだろ。君のこと」
嘘だ、と瑠璃は瞬間的に思った。鮎瀬は瑠璃に親切だった。だけど、そんなんじゃない。
「瓜崎が知ってることで、まだ黙ってることがあるんじゃないかって、鮎瀬が問いただしたって。だってさ、そうでなければさ」
「なによ」
「売春婦なんて言葉は出てこない」と、馬面は呟いた。
売春婦、というその言い方は、馬面が以前、憤慨してくれたときとはまるで違っていた。裏付けになっているのは瓜崎の言い分で、馬面はそれを信じている様子だった。
瑠璃のことで、瓜崎がまだ皆に語っていないことがある? 瑠璃の名誉をあまりに傷つける事実で、詳細は言えない?
何やらそんなニュアンスだった。売春婦というのは振られた男の捨てぜりふでなく、根拠があるのだとでも言いたげな。
何がどうなっているのか。卑劣としか言いようがない。
武士の情けで語っていないのは、むしろ瑠璃の方だ。瓜崎だって、それはわかっているはずではないか。
瑠璃にとって、鮎瀬は単なる友人だと瓜崎は確認したがった。
もちろん、そうだ。今思えば、好ましい男の子だった。付き合えば気があったかもしれない。だが当時は、そんなことは思いも寄らなかった。
「で、僕は?」と、あのとき瓜崎は訊いた。
彼から本当に物を尋ねられたのは、そのときだけではなかったか。いつも彼の言うのを聞いていた。瓜崎は何であれ、他人の考えに関心があるようには見えなかった。
「友達よ、もちろん」
瑠璃の答えに、瓜崎は黙り込んだ。
どちらからともなく、出ようか、と言った。
店を出て、あざみ野駅まで無言で歩いた。駅の改札で瑠璃は微笑み、手を振って別れた。
ホームに滑り込んできた電車に乗り込むと、心底ほっとした。大井町線に乗り換え、叔父の家のある久品仏駅に降り立った。
と、瑠璃は立ちすくんだ。目の前に瓜崎がいた。前の車両に乗っていたのか、改札への通路を塞ぐようにしている。
瑠璃は後ずさりした。小さな矩形のホームには、数人がいただけだった。瓜崎はいきなり突進してきた。
「いやっ」
瑠璃は逃げたが、ホームの端に追い詰められた。抱きつかれ、むりやり顔を抑えつけられ、唇を寄せてきた瓜崎の胸を力まかせに押しのけた。とたんに瓜崎は、瑠璃を突き飛ばすように離れた。
すたすたと改札に向かい、何ごともなかったように清算を済ませて出てゆく瓜崎の後ろ姿を、瑠璃は茫然と見つめた。が、瑠璃もすぐに立ち上がっていた。周囲の目を気にするぐらいの余裕はあった。
それから四、五日、瓜崎は大学に出てこず、誰かが家に電話をかけた。
「熱海の別荘へ一人で行ったきりだって。お母さんも心配しててさ。だってあいつ、熱海まで歩いてったらしいんだぜ」
二人の間に何事かあったと察していた同級生らは、瑠璃の顔をちらちらと横目で眺め、言外に釈明を求めた。
鮎瀬も瓜崎も友達だと言った、としか瑠璃は話さなかった。駅のホームでの件は屈辱的で、思い出したくもなかった。
「鮎瀬は、よほど君のことが好きだったんだろうな」
こちらの表情を窺うように、そう言った馬面の顔を、瑠璃は正面から見返した。
「って瓜崎が言ってたよ。君について自分が告げたことがショックで、気が動転したんだろうって。自殺とまでは言わなかったけど」
瓜崎が知る瑠璃の素行を問いただした鮎瀬は、ふらふらした足取りで、上高地のホテルの部屋を出ていったと言う。
「ふらふらした足取りって、瓜崎くんが言っただけでしょ?」
そうだけど、と馬面は平板な目で瑠璃を見やった。
「奴自身、あのとき熱海まで歩いて行っちまったのは、ショックからだった、とか言うんだよ」
瓜崎は潔く、君のことが好きだったと認めてるんだぜ、と言いたげな口調だった。
「そのときまでは、ね。だけど君が、思ってたような娘じゃなかったって」
嘘だ。何もかもが。
瓜崎が熱海まで歩いて行っちまったのは、単に自分のプライドが傷ついたショックからだろう。女の子の後を追いかけ、襲いかかり、拒絶された。瓜崎にとって初めての、あり得ないはずの出来事で。
「あたしが、どんなですって?」
馬面が瓜崎であるかのように、瑠璃は睨んだ。
「売春婦みたいな、何をしてるって?」
売春婦。その言葉もいっそ小気味よいと、笑って聞き流していたのに。
「言わないそうだ。瓜崎はもう二度と、誰にも言うつもりはないって。君の将来も心配だし。鮎瀬があんなことになったのを、自分のせいだと思ってるんだ、大学ではとても口にできないことを、上高地まで訊きにきた鮎瀬につい、話してしまったってさ」
わたしの将来も心配、ですって。瑠璃は怒りのあまり言葉が見つからなかった。
馬面は肩をすくめ、微かに充血した目で瑠璃を眺め回した。
男が死んだのはおまえのせいだ、この売女。そう責め、足蹴にして興奮する劣情が見え隠れする。
「それで瓜崎は、上高地で鮎瀬に会ったことも、なかなか言い出せなかったんだよ」
馬面の声は、いまや瓜崎に対する同情に満ちていた。この間まで、瓜崎が瑠璃にこっぴどく振られたことを心底から愉しんでいたくせに。売春婦。その言葉だって、瓜崎のみっともない捨て台詞だと思いたがっていたくせに。
鮎瀬の死が、それに乗じた瓜崎の巧妙な作り話が、その言葉の意味と重みを百八十度変えてしまった。
嘘よ、と瑠璃はともあれ言った。
「どう嘘なんだ?」
そう言いながら、馬面は瑠璃の胸元を眺めていた。
午後遅く、人影もまばらな学食の片隅だったと記憶している。瑠璃には、馬面の考えていることが手に取るようにわかった。瑠璃の弁明などに興味はないのだ。汚らしい物のように瑠璃を非難しつつ、同時に想像の下半身で犯そうとしている。
久品仏駅のホームで、瓜崎に抱きつかれたのだ。
そんなことを言う気にはなれなかった。そのぐらいされて相応しい女だ、としか思わないに違いない。
「だって、鮎瀬くんは。わたしに、気にするな、って」
それしか思いつかなかった。瓜崎が瑠璃の悪口を言い触らしはじめた頃に、鮎瀬は実験室でそう言ってくれた。
まだ多くの者が、瓜崎のことを冷笑的に考えていた。鮎瀬の言葉も、そのときは別にありがたいとも思わず、瑠璃は余裕の微笑みを返した。
だが少なくとも。瑠璃自身にはわかっていた。
実験用の眼鏡越しに、ちょっとだけ瑠璃を気遣いながら横目をやり、気にするな、と囁いた。あの鮎瀬の様子からだけでも、瓜崎が言うような理由で上高地に行くなど、とうてい信じられない。
鮎瀬は、瑠璃に特別な好意を示したことも、言い寄る素振りをみせたこともなかった。ただ親切な、いい友達だった。
友達。瓜崎に答えた通り、鮎瀬は友達だった。瓜崎や、この馬面やなんかの男たちとは違っていた。
わたしは鮎瀬くんを好きだった。
誤解さえ怖れなければ、瑠璃は馬面にそう言ってやりたかった。鮎瀬の瑠璃に対する爽やかな無関心は、普通の信頼感と等値であったろう。瑠璃の素行を邪推し、瓜崎を問い詰めるなど鮎瀬はしない。する理由がない。抱きついてもこない。瑠璃の友達だったのだ。
(第08回 第04章 後編 了)
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