ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
5(前編)
その翌週、カルチャーセンターの教室に栞の姿はなかった。瑠璃は安堵したが、同時に腹立たしかった。鮎瀬純也に対する自分の気持ちを主張したら、用は済んだということか。
柿浦からは一斉発信のメールが届いていた。次の土曜、比目子の「お別れの会」が、町田の葬儀会場で開かれるという。
親族だけでの密葬がすでに済んでいるらしかった。司法解剖などで万事の予定が遅れたことから、こうした形にしたものと思われた。
町田は比目子の今の住まいに近いらしい。三時間ほどのうちに、都合のよいときに来て、もしよければ別室で軽い料理をとってほしい、ということだった。焼香だけを済ませ、すぐ引き上げることもできる。ありがたかったが、柿浦のメールには、結局のところの死因などは何も書かれていなかった。知りたければ、その別室での談義に加わらなくてはならないようだ。
香典を包み、いちおうは喪服にパールを付け、ストッキングまでは黒にせずに出かけた。
町田駅から指定されたバスに乗った。空いていて、腰掛けることができた。喪服姿の乗客は他にいなかった。
栞は来ているまい、と考えた。栞宅からの帰り際、居心地の悪さを紛らわせようと、比目子が亡くなった同窓会の話をしたが、栞の方は面識はない様子だった。
瑠璃はやはり、あれから栞のことが気にかかっていた。無論、栞の感情の問題は彼女自身のことだ。それよりも、あの頃のことを思い出す、と言う方が正確だった。大学二年のときに起きた鮎瀬の事故死、その前後に、理不尽で不愉快な思いをしたことを瑠璃はずっと忘れようとしていた。
実際、それが記憶に上ることもなかったのは、専門課程に進んでからキャンパスも変わり、人間関係に影響を残さなかったからだ。同じクラスから数学科に入ったのは、瑠璃以外には教師志望の無口な男子学生一人だけだった。数学科には苦手な実験がなく、コンピューターの単位も一切取らなかった。
暇になった授業の合間に、瑠璃は亮介との交際を深め、結婚が決まり、就職活動とも大学院とも縁がなくなった。
ただ理工学部女子会、といったものは基礎課程から変わらずにあった。とはいえ同期が集まっての飲み会で、突っ込んだ話をすることはなかった。そもそも鮎瀬を知らず、誰かが山で死んだとニュースを見た、という程度の者がほとんどだった。ボン子がワンダーフォーゲル部にいたのを瑠璃も知らなかったぐらいで、理工学部の女子学生からは鮎瀬の件で何か言われたり、不快な眼差しを受けたりした覚えはない。ただ瓜崎を知る数人が、「振られた後に、あれこれ言うなんて最低」と憤慨し、「そんな男だから振られるって、わかんないかなぁ」と、慰めるでもなく励ましてくれたが、それが鮎瀬の死ぬ前か、後だったかも記憶が定かでなかった。
銀座の路地で偶然遭ってから、嫌々でも同窓会に出て、今日また比目子のお別れ会に足を向ける。それも、理工学部の彼女たちの淡泊さがもたらしたものだ、と瑠璃はバスの中で思った。
ぎりぎりで人を繋ぎとめるのは、格別に与えられた好意のいくつかでなく、むしろ一貫して悪意がなかった、ということだろう。
焼香の会場は、普通の葬儀の場と変わらなかった。来訪者がちりぢりに現れるせいで人影が少なく、寂しいだけだ。
そう。比目子でなく、黒岸姫子、だった。
入口の貼り札を見て、思い返した。
斜め一列に親族が三人ばかり、これも交替制なのか、数少なく腰かけている。左端にいる少年が例の、父親のわからない息子に違い在るまい。比目子はその秘密を墓場まで持って行ってしまったのか。それともさすがに、本人は聞かされているのだろうか。
瑠璃の前に男が一人、後ろから女性が一人入ってきたが、どちらも知らない人たちだった。
「どうぞ、奥で少し召し上がっていってください」
黒留袖の親族らしき女性が脇から出て、声をかけた。と、その廊下に男の後ろ姿が横切った。どうやら寺内みたいだ。見つかったら面倒だ。まさかこんな席で、嫌らしい真似はしないだろうが。
「急ぎますので、今日はこれで」
前後に焼香した男女は、すでに姿が見えなかった。皆、別室に腰を落ち着けたらしい。
葬儀会場を出ると、表は日盛りだった。バス停に向かった。通りも静かなものだった。黒岸姫子との遭遇の巻は、これで一段落、ということだろう。そうであってほしかった。
道路の向い側に、反対方向のバスが停まった。喪服の女が降りてくる。実々だった。瑠璃を見つけて手を挙げ、通りを渡ってきた。
「皆は?」
会わなかった、と瑠璃は答えた。「奥の部屋には、大勢いると思う、まだ」
「あなたは。急ぐの?」
「ええ、ちょっと」
「青山の講義、まだやってるんでしょ」
「来月の末まではね。毎週、準備に追われていて」
「ごめんねぇ、行こうと思ったんだけど」
何がごめんねぇ、なのか、よくわからないまま、瑠璃は首を横に振った。実々の目当ての川村仁は、最後の週に撮影にやってくる。もちろん、そんなことを教えるつもりはなかった。
「ボンが行ってるでしょ。彼女、上手じゃない?」
「最初の週だけ来たわよ。とてもセンスあるから教えることないって言ったら、来なくなった」
ああ、と実々は言葉を濁した。「きっと、そう言われたせいじゃなくて。何だかね、警察がしつこいらしいの」
「警察? 姫子のことで、まだ?」
そう、比目子でなく姫子、と瑠璃は自分に言い聞かせる。
「いったい何だったの。毒物がどうこうって聞いたけど。さっきの会場には、警察の人はいなかったみたいだし」
あれ以来、高梨も何も言ってこない。瑠璃がやたらと映っているというビデオは、警察に提出されたのだろうか。
「そう、いなかった?」と、実々は微かに首を傾げた。
「それにボンは格別、姫子と親しそうでもなかったのに」
うーん、と実々は低く呟いた。「姫子本人とは、そうだけど。実はね、ここだけの話」
道路の先から、瑠璃の乗るバスが来た。
いいわ、と瑠璃は目顔で実々に示し、バス停から下がってやり過ごした。
「ボン子はね、姫子の息子に手を出してたらしいの」
え、と瑠璃は思わず声を上げた。さっき親族席にいた、あの男の子か。詰め襟の制服を着た、線の細い子だった。
「だって、まだ高校生じゃない」
「高校生だったなら、まだしも」実々はいっそう声を落とした。「何年か前の話で、中学生だったのよ。微妙でしょ。犯罪かも」
かも、じゃなくて犯罪だろう。確かに昔は可愛らしかったボンだが、今は太って洒落気もない。厚化粧でない分、多少は若々しく見えるものの、中高生にすれば単なるオバさんに過ぎまい。
「その年頃の男の子の好奇心っていうか、相手は誰でもいい、ってのがあるんじゃないの」
実々は息を吐いた。「女子会の同窓会でメーリングリストが出来たとき、テニスの会を開いたのね。幹事はあたしだったんだけど。あの子、史朗くんを姫子が連れてきて。学校でテニス部だからって」
他にも子連れは何人かいた。テニスの会にしたのは、子持ちも参加しやすいように考えたのだと言う。
「それが、そんなことになっちゃって」
ボン子は史朗くんに名刺を渡し、裏には「もし、したければいつでも」と書かれていた。テニスの順番待ちの隙には、携帯の連絡先も交換したという。
「姫子の目を盗んで呼び出して、何ヶ月間か付き合ったらしいの。史朗くんの様子が変なんで、机の引き出しを開けたら、ボンの名刺が出てきて」
「もし、したければいつでも」というのはテニスの話だ、と二人は口裏を合わせたが、母親の追及に結局、息子が吐いた。
「姫子の怒るまいことか。ちゃんとした父親がいたら、こんな手出しはできなかったろう、他人に引けをとらないように育ててきたのに、って」
他人に引けをとらないよう。比目子、というあだ名の面目躍如という感じだが、親らしい言い分でもある。
「ま、いいんじゃないかって思うけどね。女の子なら困るけど、男の子っていつかは、さ。本人だって、いい目を見たわけだし」と、実々はぶつぶつ言う。「史朗くんって、母性本能くすぐるタイプじゃない? あたしの好みじゃないけどね。うちの子、思い出しちゃうし」
それで川村仁か、と瑠璃は妙に納得した。写真の業界ですれっからしつつある仁は、若くとも乳臭くはない。
「あーあ、ボン子はいいな、自由で羨ましい」と実々は呻いた。
「姫子は、ボン子の亭主に言ってやる、とか息巻いてたけど。史朗くん、南園の附属高校に落ちちゃって。合格間違いなしの成績だったのに、大事なときにボン子に惑わされたってさ」
またバスが来た。瑠璃は目の前の公園へと実々を促すと、入口近くのベンチに掛けた。
「で、ボン子のご主人は?」
さあ、と実々は肩をすくめた。
「夫婦のことだからね、わかんない。息子が南園附属に落ちた言い訳で、根も葉もない、で押し通したのかもしれないし。旦那にも誰か若い女でもいるのかもしれないし」
瑠璃には相当に意外な話だった。あの姫子が幹事だった同窓会にボンは平気で来ていたし、倒れた姫子を本気で心配する様子だった。そもそも姫子が未婚の母となって子供を産んだことも、瑠璃はそのときボンの口から聞いたのではなかったか。
「ボンって、そういう面の皮の厚いとこ、あんのよ。事情を知らないあなたになら、自分の都合のいいことだけ言うかもね」
実際にはボンと姫子は、会っても口もきかないという。
「警察が姫子の人間関係を調べるなら、ボンから話を聞かないわけにいかないんじゃない? 単に仲が悪かったんじゃなくて、ボンのしたことが、その、犯罪の部類だってんなら」
そういうことか。些末なことにせよ、警察はボン子自身に関心を持つ理由があったのだ。一人息子に手出しされたと恨んでいる女と、濡れ衣を着せられ、夫婦仲を危機にさらされたと主張しかねない女。確かに事情聴取に値する。いずれにせよ、それは瑠璃には関わりのない話で、瑠璃に対する高梨の嫌がらせとも関係ない。
「でさ。うちの亭主、ボン子とは付き合うなって言うのよ」と、実々は薄笑いした。「なんか、あたしが影響でも受けると思ってるのかしら。子供じゃあるまいし、ねえ」
実々が影響を受けた可能性は十分にある。そう思えたが、口には出さなかった。
「さて。そろそろ行かないと。焼香の時間、終わっちゃうわよ」
瑠璃は背を伸ばし、ベンチから立ち上がった。猫の額ほどの公園のベンチに喪服の女二人。通りすがりの目にどう映るか。
「ほんとだ」と、実々は慌てて腕時計を眺めた。「瑠璃も急ぐんでしょ。じゃ、瓜崎くんにも会わなかったんだ」
瓜崎。
なぜ、そんなことを。実々の顔を眺めたが、他意のある表情ではなかった。
「瑠璃と話したがってたから。同窓会で見かけたけど、あの騒ぎで声をかける余裕がなかった、とか」
「実々は瓜崎くん、なんで知ってるの?」
瓜崎と実々とは、基礎課程のクラスも専攻も違う。
「女子会のメーリングリスト作るときに、ちょこっと手伝ってもらったんだ。なんか今、国の研究機関の教授だって」
親切だし、まだかっこいいし、とぶつぶつ言う実々の耳に、瓜崎と瑠璃との過去のいざこざについては入ってないらしい。
「さっき来てたかしら。姫子とも知り合いだったわけ?」と、瑠璃も素知らぬ顔で訊いた。都合の悪いことをわざわざ言わないのは、ボン子と同じだ。
「知り合いっていうか、」と実々は言いよどみ、初めて複雑な表情を浮かべた。「あのね、」
「なに?」
「姫子の息子だけど。瓜崎くんの子かも、って噂があるのよ。そんなことないだろうと、あたしは思うけどね」
瑠璃はそのまま青葉台のマンションへは、まっすぐ帰らなかった。新宿に出て、昔よく行った伊勢丹に足を向けた。
目的があるわけではなかった。ただ混乱した気分で、マンションの一人の空間に立ち戻ってゆく気がしなかった。
通行人は誰も、喪服の瑠璃に目を留めたりしなかったが、重々しくて、何でもいいから脱ぎ捨てたい。伊勢丹の二階フロアでは春物のバーゲンをやっていた。瑠璃は二、三着の服を持ち、試着室に籠もった。
「そういうわけで、ボン子と一緒だと亭主が嫌がるし」と実々は言ったのだった。
「講座に申し込めなくて残念だったわ。また今度、何かやるときに教えてちょうだい」
熱心な言葉は、あながち社交辞令にも聞こえなかった。
「ボンは大学の後輩に、講座のチケットを譲ったんだけど」
瑠璃は訊いてみた。「蓮池栞って、知ってる? 今は田宮っていうんだけど。文学部で一年下だって」
聞いたことがない、と実々は答えた。
「文学部の子じゃ、ぜんぜんわからないわよ」
「ワンダーフォーゲル部にいたのよ。山で亡くなった鮎瀬くんとも知り合いで」
瑠璃は早口で告げたが、実々は反応せず、お別れ会の会場へ早く、と気が急いている様子だった。瓜崎と瑠璃との確執も知らないぐらいなら、鮎瀬を知らなくても当然だった。
だが公園を出たところで、実々はふいに言った。
「ボン子も講座には続けて出たかったと思うわよ。でも警察がね。ほら、いろいろと、あなたのことやなんかも話させられて、顔、見づらかったんじゃないかな」
「わたしのことって?」
思わず気色ばんだ瑠璃に、「いや。そんな、変なことは言ってないと思うけど」と実々は慌てて掌を振り、通りを小走りに会場へと向かって行った。
なぜだろう。
二着目のワンピースに袖を通しながら、瑠璃は考える。
実々には悪意も、他意もなさそうだった。別れ際の言葉は、講座に出られないのを惜しむ気持ちが口走らせただけに違いあるまい。その無念もまた、単に川村仁との接点をテレビドラマのごとく夢見るからに過ぎないだろう。
だが。公園のベンチに坐り込み、あれだけおしゃべりしながら、警察が瑠璃のことをボンに話させているという重大事を、少なくとも瑠璃にとっての相当な気がかりを、別れ際まで言い出さなかった、というのはどういうことか。
つまらないことだからだ、と瑠璃は自分に言い聞かせた。
(第09回 第05章 前編 了)
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