ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
4(前編)
その次の週も、栞はまた講座に現れた。
同じ席に座り、実技にも熱心に励んだ。瑠璃も通常通り、機嫌よく講義を進め、他の受講生と変わらぬようフラワー・アレンジメントを直してやった。
講義が終わると、栞は瑠璃に声をかけることなく、目を合わせないまま会釈をして、教室を出ていった。
瑠璃は安堵したが、同時に得体の知れない底意が伝わってくる気もした。
得体が知れない。では栞自身には、それがわかっているのか。
鮎瀬純也について、栞はあれ以上は何も言わなかった。瑠璃を家に呼んだ表向きの理由に沿い、パーティルームに相応しい設備や照明について質問しただけだった。瑠璃は、これから日本橋の店に行く、などと言わずともよい言い訳で、早々に栞宅を出た。
実際、その一階スペースは独立したキッチン、洗面所を備え、二階のメイン・キッチンから専用エレベーターで料理を運ぶこともできて、大きくいじらなくとも申し分のないパーティルームだった。だが、そんな話のどの断片にも、栞の視線のどの一瞥にも、瑠璃が居たたまれなくなる別の意味が込められていた。
一瞬たりとも、鮎瀬純也を忘れたことはない。
と、栞自身が言ったのだから、今このときもそうだ、と思うほかなかった。
ならば、と、瑠璃は後から腹立たしく考えた。
あの素敵な戸建てが落成した瞬間も、鮎瀬のことを思っていたのか。夫との関係は知る由もないが、息子が生まれた瞬間も、中学に合格した瞬間も、鮎瀬純也のことが脳裏から離れなかった、とでも。
嘘つき、と瑠璃は決めつけ、あの言葉を忘れることにした。有閑マダムが、子供が手を離れてなお暇になり、自分自身の物語を捏造しはじめたに過ぎない。
一瞬たりとも? そんなことがあるはずない。確かに栞の名は、鮎瀬と親しい一つ下の女の子として聞いたことがあった。だが、あれから長い、長い時間が過ぎているのだ。瑠璃の方も、いや瑠璃の方は、鮎瀬のことを一瞬たりとも思い出さないようにしてきた。
あなたを恨んでいる。
栞の眼差しは、翻訳すればそうなったろうか。にも関わらず講座に出て、瑠璃の指導を受けている。この二十数年間、そんな裏表のある暮らしに慣れっこになっているのだ、とでもいうかのように。
ならば、なぜ瑠璃を家に呼びつけて、あんなことを言ったのか。
自分が鮎瀬に、何をしただろうか。
長い年月が経っていた。二十数年前のあのとき、瑠璃は瓜崎の言葉の意味がよくわからなかった。
瓜崎。そう、あの大学ホールの同窓会にいた。イタリア製のスーツなんか着て、相変わらず目立って。瑠璃と目が合った。寺内が、互いに遭わせないように気を使ってくれていたが。
瓜崎は、少しばかり太っていたが、あまり昔と変わらなかった。昔からほっそりしたタイプではなかった。かといって、がっちりした体型でもない。体つきが中途半端で、瑠璃の好みではなかった。
体型なんて些細なことだろうか。昔も、そして今も瑠璃にはそうは思えない。太った痩せたは、人の現状態を示すだけだが、持って生まれた体型は本質そのものだ。体育会系の筋肉質は単に鍛えられた結果に過ぎず、興味が持てない。一方、熊さんみたいなずんぐりむっくりは、それほど嫌いではない。
瓜崎のように太っても痩せてもなく、筋肉質ですらないような中途半端な体つきには、本質的に知性を感じない。
が、そんなことは、とりわけ学生時代には、とても口には出せなかった。瓜崎に知性を感じない、だなんて。
整った顔立ちに知識に溢れた言葉。付属高でトップの成績だったにも関わらず、医学部の、それも特待生推薦を断ったという瓜崎は理工学部の輝けるホープ的存在だったらしい。無論、ホープでもハイライトでも知ったことではないが、瑠璃自身も、およそ瓜崎の頭脳に難癖をつけられる立場ではなかった。
コンピューター実習が落第寸前だった瑠璃が、無事に専門課程に上がれたのは、まさに瓜崎のお陰だった。正確に言えば、瑠璃に対する瓜崎の好意のお陰だったが、瑠璃はそれを意識に上らせなかった。若い娘にありがちな都合のよさ、ずるさだったかもしれない。とはいえ、瑠璃にどうできただろう。わたしの実習レポートを手伝ってくれるのは下心があるからでしょう、と親切を断って留年すればよかったのか。
若い誰しもが、自分のことで頭がいっぱいだった。とりわけ遊びを知らない理工学部の一、二年生だ。輝けるホープの瓜崎にも、自分の親切を受け入れる女の子が、男としての好意は拒絶するという理屈は納得できなかったろう。
その頃の瑠璃は、たまたま出かけた国立大の大学祭で知り合った経済学の院生と付き合っていた。そのことを瓜崎にも、他のクラスメイトにも話す気にはなれなかった。六歳上で、ややずんぐりむっくり体型の彼との付き合いは、恋愛というより師弟関係、心を支えるつっかい棒のようなものだったが、それを他人に理解させる気力も余力もなかった。
瑠璃は、東京の叔父の家に下宿して南園大に通っていたのだが、岐阜の実家では父が倒れ、商売が立ち行かなくなっていた。下に弟と妹がいて、大学を辞めようか、とも考えた。父は大きく投資をして、商売の拡大を目論んでいる最中だった。瑠璃にも、学校教師にしか用のない数学でなく、システム工学を学べと言っていたが、コンピューター嫌いが判明し、どのみち期待には沿えなかった。
結局、叔父の援助で大学を卒業することになった。父は亡くなったが、生命保険金で弟と妹は地元の大学を出た。
落ち着かない気持ちでいたのは一年半ぐらいだろうか。その間、付き合っていた大学院生はあれこれ忠告してくれたが、所詮は何の役にも立たなかった。偉そうなことを言いたいだけで、歳下の女の子だったら相手は誰でもよいのだと気づき、連絡を絶った。
日本橋の老舗骨董店「香津」の長男、亮介と知り合ったのは、父の持っていたささやかな鍋島のコレクションを処分するのに、知人の紹介があってのことだった。
「香津」はずいぶん高値で、父の持ち物を引き取ってくれたようだった。舅の冗談では結納金というか、瑠璃をもらうのと抱き合わせ、つまり人身売買をしたとのことだ。だとしても瑠璃に異論はなかった。抽象論と自慢話しかしない院生のことは三日で忘れ、三千万の札束で母を大いに喜ばせてくれた亮介とともに、卒業と同時にアメリカに発つことに決めた。
教室での授業、提出物のために誰かの家に集まり、飲み会にテニス。大学生活の裏側で、瑠璃の身辺に起こっていたのは、そんなことだった。クラスメイトとのやりとりは流れゆく背景に過ぎず、彼らの間に瑠璃をめぐり、どんな思惑や憶測がなされていたかなど、考える余裕もなかった。だから専攻が決定してすぐの頃だったか、突然、瓜崎から問い詰められたのはまさしく心外だった。
「で、話って、何なの?」
静かな喫茶室でもなく、不二家か何か、いつもレポートの相談をする甘味処だったと思う。それでもパフェやアイスクリームではなくて、その日はコーヒーを頼んだ。
授業が始まる直前、他の男子学生たちと試験のヤマを張っていた最中に、瓜崎が割り込んできたのだ。
「今日、これが終わった後で。いいね」
瑠璃は振り向き、怪訝な顔をした。
「話がある」
大仰に構えた命令口調に呆れた。周りの男の子たちの手前もあり、何のことやら、と瑠璃は肩をすくめた。
コーヒーとミルク、砂糖のポットがテーブルに置かれると、瓜崎は言い出した。
「正直に答えてもらいたい。嘘は許さない」
「だから、何を」
その訊かれ方だけで、罪人にでもなったようだった。
「先週の日曜、誰とどこにいた」
先週。今週ではなく、か。ええと日曜といえば。
すぐに思い出せず、瑠璃は黙っていた。
「鮎瀬と一緒だったんじゃないか」
「鮎瀬くん? 違うけど。どうして?」
「本当か。誓って」
「本当よ。だから何で?」
そうか、と瓜崎は肩から力を抜き、椅子の背に凭れた。
「じゃ、訊くけど。何してた」
「何って。お堀端の美術館に行って」
「美術館?」
妙な言葉でも聞いたかのように、瓜崎は眉を上げた。
「そうよ。ベルメールって画家の展覧会」
瓜崎は黙り、考え込んでいた。激しくエロティックなベルメールの黒い鋭い線を、こいつが新聞の日曜版か何かで目にしてませんように、と瑠璃は願った。
「夜は? 夜は何してた」
「夜は・・・食事を」
「食事って、誰と? 鮎瀬じゃなくて?」
違う、と瑠璃は答えた。鮎瀬がどうしたというのだ。赤の他人に問いただされる理不尽に、腹立たしさを感じてきた。
「男の人? どういう関係?」
「知り合いの息子さん。特別、どうこうって相手じゃないわよ」
「食事だけ?」
瑠璃は怒っていた。十時には帰っていた、などと申し開きする理由はない。だが、あんたに、なんでそんなことを、とブチ切れれば、朝帰りしたとでも誤解されそうな勢いだった。
「わたしは叔父の家に下宿してるのよ」まっとうに答える代わりに瑠璃は言った。「その人は、父がお世話になった知人の息子さんで、叔父もよく知っている人」
どうこういう間柄ではない、というのは、その時点では本当だった。美術館に行き、食事する。それが今後も続く予感はあったが、亮介に誘われたのは、まだ二度目だった。
「で。鮎瀬くんとのことを聞きたいわけ?」
父が亡くなったことや、亮介の両親の手を借りて父の骨董を処分したことなど、同級生に話すはめになるのは真っ平だった。
瓜崎は我に返ったように、「いや、」と言葉を濁した。
「先週の日曜、鮎瀬くんがどうしたって? なんで、わたしと一緒だったと思ったの?」
映画を、と瓜崎は呟いた。「先週の日曜、鮎瀬に電話したら留守で。誰かとどこかに泊まるから、帰らないとかで」
「それで?」
「月曜に会ったら、男友達の家に泊まったって言うから。そいつと映画を見たって」
トゥルー・ビッグストーリー、と瓜崎は映画のタイトルを言った。
「君も見たって言ってたよな、昨日」
ええ、と瑠璃は頷く。教室で確か、皆とそんな話になった。
「君、つまらないって言ってたじゃないか。そしてあいつも、鮎瀬も、つまらなかったって」
その通りだ。巨大制作費をかけた話題のSF大作だが、陳腐なストーリーで、とても見ていられない代物だった。
「だから二人で・・・。それで、二人で見に行ったのかと」
瑠璃はやっと、瓜崎の言いたいことを理解した。
「つまんないわよ、あんな映画」
確かに教室で、瑠璃はそう言い放った。
「な。つまんないよな」
小柄な身体をきゅっと折り曲げるように振り返って、鮎瀬も言っていた。そのとき二人が目交ぜし合い、通じ合っていると見えた。瓜崎はそう言いたいのだ。
「それに君がにっこりして、嬉しそうだった、って」
「誰が言ったの?」
「皆が。教室に居合わせた連中が」
まあ、そうだろう。瓜崎にはそんな観察眼も、感受性もない。そもそも瑠璃の恋人でもなし、実際、瑠璃自身に本当に興味があるのかどうか。なのになぜこいつが、自分を問いただすのだろう。
「関係ないわよ」と、瑠璃は息を吐いた。
鮎瀬が映画を見たという先週日曜の晩、彼が朝まで誰といたにせよ、少なくとも瑠璃ではない。
「そうだよな」と、瓜崎は満足げに頷いた。「鮎瀬は友だち、でいいね」
なんで満足するのか、と瑠璃は思った。自分が鮎瀬に、人目につくほどにっこり微笑みかけた理由を聞きたくないのか。
意外だったからだ。あの映画がくだらない子供騙しだってことを、わかるわけないと思っていた。同年輩の機械馬鹿の男の子たちの鈍さ、幼さにタカを括っていた。それを鮎瀬が裏切り、瑠璃と同じ言葉を放った。たぶん、瑠璃は嬉しかったのだ。ほんの一瞬のことだったが。
「それで君は、誰と見に行ったの?」
瑠璃は虚を突かれた。「誰と、って?」
「映画だよ。その、知り合いの息子さん?」
瑠璃は首を横に振った。三週間ばかり前、公開されたばかりのそれを大学院生の彼に誘われて見に行った。
彼とは以来、互いに電話もかけない。あのつまらない映画に喜んで興奮していた彼に瑠璃はうんざりし、お茶を飲んでいる間、ずっと不機嫌だった。そして彼のプライドを傷つけるようなことを言った。高い高い偏差値の大学を出て、あんな低レベルのもんが面白いわけ、とか何とか。
「僕は、君を誘って見ようと思ってたんだ。で、誰と?」
瑠璃には答えようがなかった。彼氏だけど別れた、などと告げるのは、期待していい、と言うようなものだ。瓜崎も彼と同様、あの映画を気に入るだろう。それとも最初のデートだから、極めて優秀な感じで難癖をつけてみせるかもしれないが。
瓜崎とのその談判の後、瑠璃に関して、かなり悪口が言われたらしい。食事でも映画でも誘われれば、どんな男にもついてゆく。好きなふりをしてレポートを手伝わせて、一種の売春婦だ、とか。
今の時代なら、笑っちゃうようなことだ。もちろん当時の、世慣れしない理工系学部でも、ささやかな笑い話にすぎなかったはずで、気にも留めなかった。女子学生たちは皆、瑠璃に同情的だった。別に好きでなくても、誘われれば付き合う。女の子はそんなものだし、相手だって断られるよりいいだろう。大げさに考えるのは男だけだが、そもそも瓜崎はお茶の一杯も奢ってくれたことはない。たとえレポートを手伝ってやってるにせよ、女の子に割り勘で払わせるってのは、もうそのセンは諦めてる、という意思表示ではないのか。
「まあ、それにしたって売春婦ってのはひどいよな」
瓜崎が言い触らしているという言葉をそのまま教えてくれたのは、馬面をした同級生の一人だ。瑠璃のために憤慨してはいたが、どんな男にもついていくと言われているわりには、瓜崎になびかなかったのを面白がってるだけのようだった。
瓜崎にすれば、最大限の悪意を込めたのだろう。が、その言葉は、当時の瑠璃にはいっそ小気味よかった。
(第07回 第04章 前編 了)
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