世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
十五、ユリシーズ
邪魔なんだよ、と言うと股ぐらでジェーンが笑った。さっきからそればっかり、と唾をかけてから乱暴にしごく。若さのせいか、物足りなかったのか、今したばかりなのに彼女はちっとも鎮まらない。仰向けの俺はされるがままだ。
「ねえ、全然いけるじゃん、ほら」
ジョイントの影響だろう、錠剤の効果が今頃現れてきた。つまり初戦は丸腰で挑んだらしい。頑張ったな、俺。ねえねえ早くう、と股ぐらからジェーンがねだる。この調子ならきっと再戦を受けても大丈夫だ。でもその前に問題がひとつ。
今は舌を突き出したジェーンがちゃんと見えるけど、目を閉じたらダメ。みすぼらしい右田少年が浮かんでくる。虚ろな目でVHSのビデオを見続ける横顔。父親の形見に囚われた可哀想なこのガキを早く追い出してほしい。
「邪魔なんだよ」
「あ、また言ったあ」
お前見えないのかよ、と言いそうになり一瞬考える。ジェーンって「お前」だっけ、「君」だっけ、それとも「あなた」だっけ……。会ってたったの数時間だけど、もっとしっくりとくる呼び方があったような気がする。あまり自信はないけれど。
そうそう、高級品でなくても効いてくるとこんな感じ。他人との距離感がよく分からなくなる。とりあえず「ジェーンには見えてないの?」と訊いて笑われた。乳房が腿にあたり少しだけその気になる。
「ジェーンって呼ばないでえ、私、ミズホ、タジマミズホだし」
「え、ジェーンは?」
「ジェーンは高校の英会話のおばさん、アメリカ人」
「アメリカ人?」
「すごい怖かったの。ムカつくから名前使ってるだけ、私はミズホ」
面倒くさいから抱き寄せて舌を絡ませた。黙ってろ、ジェーン。実は名前が違うとか、本当は誰の名前だとか、今一番聞きたくない話だ。これ以上頭を使ったら破裂するかもしれない。ジェーン、と囁いて熱っぽい身体にしがみつく。ちょっと痛いよ、と言われるくらいでいい。
右田少年を見たくないから目を見開いたままジェーンの舌を吸っている。瞬きの度にチラチラ浮かぶ姿が本当に邪魔だ。絶対に友達なんか連れてくるなよ。そう念じながら百八十度ゴロリと回転した。正常位。仰向けになったジェーンの顔は無防備で少しブスになる。
「ねえ、吸わせてえ」
「どっち?」
「うんとねえ、細い方」
ジョイントを吸わせながら気付いた。センターテーブルの向こうに右田氏と女がいない。あの女、なんて名前だっけ。まあいいや。それにしても、どこ行ったんだ?
「ねえ」
「ん?」
「次は太い方」
ジェーンから細い方――高級品を受け取って深く吸い込む。ペガッサ、チブル、ペロリンガ。これはどれだろう。まあいい。この煙に燻されればガキは出ていくだろう。燻煙剤だ。アースレッド、バルサン、フマキラー。ほら、さっさと出ていけ。
目を閉じないよう注意しながら床に膝をつき、何か言いたげなジェーンをこじ開ける。鍵ならある。大丈夫、ちゃんと使い物になる。
「あれ、私ミズホって言わなかったっけ? ねえ、今言ったよね?」
これ以上難しい話は聞きたくない。そんな余裕はないんだ。黙らせようと唇を吸う度、鍵穴が微かに反応する。いいかジェーン、何度だってこじ開けてやるからな。
ぐっ、と体重をかける。ぎゃ、と彼女が背中を仰け反らせた。繋がったまま俺たちは漂っている。盛りのついた双頭の犬だ。互いに舌を出し不規則に喘いでは、離れないように絡み合う。
「ちょっと、ちょっとこれ見てよ、これ、見える?」突然目の前にスマホが突き出された。「ほら、これがペロリンガ。ね、ペロリンガ星人だから」
画面に映っていたのは赤色の宇宙人、というか化け物。威嚇するように両腕を振りかざしている。これこれ、とスマホを片手に全裸の右田氏は微笑んでいる。普通じゃない。高級品がかなり効いているはずだ。不健康に汗ばんだ横顔が気持ち悪い。何て言うか、別人みたいな緩み方だ。全身を覆う筋肉も、トライバルの刺青もまったく似合っていない。理由は簡単。今の彼はガキだから。今こいつに必要なのは、父親の形見のウルトラセブンのビデオだけだ。
また距離が分からなくなってきた。右田氏は「こいつ」だっけ、「あなた」だっけ、「お前」だっけ……。いや、それよりこうして姿が見えているのは、目を閉じているからなのか。こんなに頑張って見開いてるのにおかしいな。
「あとこれがチブルね、チブル星人」
分かった分かった、と生返事をしながらジェーンの胸を乱暴に扱った後、左右交互に顔を埋める。あなたはガキなんだから、とっとと出ていって下さい。距離感の分からない言葉は感情が込めづらい。だからそのまま呑み込んだ。
あんなに複数でやりたがってたくせに、右田氏は混じってこようとしない。スマホをいじって怪物の映像に見入ってばかりだ。これ、本当に高級品なのかよ。実はヤバいヤツなんじゃないの?
「ヤバいから高級なんじゃない?」
どこかからジェーンじゃない女の声がする。振り返るまでもない。名前が出てこないあの女が戻ってきたんだろう。確かに「ヤバいから高級」ってのは一理ある。
もちろんその逆だって正解だ。ヤバいから粗悪。全然ある。ジェーンは今、どんなつもりで「ヤバいヤバい」と繰り返しながら、繋ぎ目を指で確認しているのだろう。
ゆらりと右田氏が立ち上がった。自分の家なのに所在無げにフラフラしている。後ろ姿が本当にガキだ。相手をするはずの女は高級品を吸いながら、俺とジェーンの繋ぎ目ばかり見てる。混じりたがっているのは分かるが、あの寂しいガキはどうするんだ?
はい、と女が高級品を俺にくわえさせる。深く吸い込んだのが合図代わりで、俺は名前が思い出せない女を抱き寄せた。色白の痩せた身体はひんやりとしている。いったい今までどこにいたんだろう。ジェーンは相変わらず「ヤバいヤバい」と同じところを指でいじっていて、家主のガキはセンターテーブルの向こうでひとりスマホを眺めている。試しに目を閉じてみたが、もう何も浮かんでこなかった。さあ、とにかく楽しもう――。
目が覚めたのは朝の五時半。二時間も寝ていないはずだ。ゆっくり上体を起こす。ジェーンやその友達や右田氏はまだ眠っていた。ペットボトルの水を持ってベランダに出る。外気に触れたせいで鳥肌が立った。眼下には見慣れない茗荷谷の街。ここは十階以上だろう。
結局右田氏は最後までひとりきりだった。仕方ない。いくら高級品でも落ちる時は落ちる。いや、彼は最初からああなりたかったのかもしれない。分からない。とにかくそのせいで俺はクタクタだ。さすがにずっと二人相手はキツい。
理由はどうあれ安太の時とはまるで違った。どっちが良い悪いではないが、もう右田氏とはしないだろう。今後は二度と会わないような気もするし、ナオとの仲を疑うこともない。
さあ帰ろう。今日も仕事だ。部屋に戻ると独特の匂いが鼻をついた。まだ誰か吸っているのかと見回したが三人とも寝息を立てている。部屋を出る時、誰かに声をかけられたような気がしたが、俺は振り返りも立ち止まりもしなかった。
たった三日ぶりなのにナオの顔が懐かしかった。高級品の効果かな、と密かに考える。茗荷谷から帰った翌日、二人とも休みだったので新宿の中央公園に来た。ナオの提案だ。正午前、今日も暑い。
「もう終わっちゃってるのね、水遊び」
「そうなのよお、暑いんだからさあ、来月までやっててもいいわよねえ?」
「私なんてさ、間違えて先週うちの子連れて来ちゃったのよ。水着まで持ってきて馬鹿みたい」
そんな主婦の立ち話を聞きながら、ベンチに座ってぼんやり周囲を眺めている。日陰だが暑いことに変わりはない。向かいのベンチでは学校をさぼったのか、中学生のカップルがソフトクリームを食べている。今、その脇をカートに乗せられた幼児たちが通り過ぎていった。
これからするのは安太と冴子の話だ。ナオから離れて茗荷谷でリフレッシュしたけれど、結局問題は何も解決していない。はい、とコーラを買ってきたナオが隣に座る。
「ひとつ分からないことがあるんだ」
そう言うとナオは「きっかけ?」と答えた。勘のいい人といると疲れない。そう、二人が食事をするようになるきっかけが謎だ。安太は冴子の素性を知っていたのだろうか。安太に冴子の話はしていないが、冴子に安太の話は何度かしている。
「絵描きのくせに全然絵を描かないんだよ」
「泣き上戸でさ、みっともないったらありゃしないよ」
「俺より十も年上なのにだらしなくてさ」
冴子はいつも「でも一番仲がいいんでしょ」と笑っていた。仲がいい、か。まあ、そんなに単純じゃないんだけどな。俺と冴子は仲がいい。多分それで間違っていないはずだけど、本当のところはどうなんだろう。いや、あいつ自身はどう思っているんだろう。
やめよう、またこんがらがってきた。物事はすぐに難しくなる。やっぱり、とコーラを飲んだナオが口を開く。
「やっぱり、きっかけは関係ないよ」
力強い口調だ。思わず横顔を見る。ナオは「物事はすぐに難しくなる」なんて思わないんだろう。
「きっかけは本人たちしか知らないんだし、知ったからって今の状況が変わるわけじゃないでしょ?」
横顔を見つめている俺に気付き、顔をこっちへ向ける。
「なんか、ごめん」
でしゃばって申し訳ないという意味だろう。構わないから続けて、と目で促す。
「それより、どうしたいんだっけ?」
質問の意味が分からず怪訝な顔になっちまった。勘の悪い奴だと思われてるかもしれないな。
「二人がもしそういう仲だったとしたら、それをどうしたいの?」
質問の意味は分かったが、肝心の答えがぼんやりしている。もちろん別れさせたいなんて、これっぽっちも考えていない。
「ただコソコソやってるのが、何だか分からないけど嫌なんだ」
直接そう言うのは恥ずかしかったので、言葉を区切ったり、並べ替えたりしながらどうにか伝える。ナオは煙草に火を点けながら「怒れないもんね」と呟いた。
「え?」
「相手に悪意があるならまだ楽じゃない? こっちは怒りをぶつければいいんだもん。でも今回は違う。ホンマさんと妹さんには悪意も悪気もないでしょ? なんかそれってさ……」
そう言ったきりナオは俯いてしまった。
「どうした? 何だよ、いいから教えてくれよ。なあ、頼むよ」
俺はこの人から教わっているんだな、と実感せざるを得ない。うんうん、と何度も頷きながら顔を上げナオが言葉を続ける。
「それってさ、自分が除け者になったみたいじゃない」
ノケモノ。
嫌な響きだ。そりゃナオも言いづらいはずだ。確かにこの歳で除け者呼ばわりは辛い。そうだな、本当は見たくないものを見なければいけないのは辛いんだもんな。鼻の奥がツンとする。俺はあの二人から除け者にされたくないんだ。
ナオがハンカチを渡してくれた。薄い緑のハンカチ。大丈夫、とすぐに返す。本当はまた裸で抱きしめてほしいけど、公園じゃ無理だよな。
「じゃあ俺は……」
声が上ずってしまった。二回深呼吸をして息を整える。
「じゃあ俺は二人にさ、除け者にしないでくれって言いたいのかな?」
きっとそうよ、と囁くナオの声はやはり力強かった。
動物の形の遊具に乗った女の子はさっきから御機嫌だ。甲高い声をあげては母親に手を振っている。俺は御機嫌ではないけれど、少しだけ気分が楽になった。で、腹が空いた。我ながら単純だと思う。
腹減ったな、というとナオは頬にキスをしてくれた。ご褒美みたいなキス。食べたいものを訊かれ、焼肉と答えるとナオは笑った。たしかに焼肉を食べたがる流れではない。
「焼肉で全然いいんだけどさ、それ、夜にしない?」
「ああ、別にいいよ」
「昼はお蕎麦でどう? 中野にね、駅からちょっと歩くんだけど美味しい店があるのよ」
もちろん異論はない。ベンチから立ち上がり公園を出る。駅へ向かおうとすると、すぐそばの停留所から中野行きのバスが出ているという。詳しいんだな、と驚くと「だからこの公園に来たのよ」とナオは笑った。
「昔、あいつと一緒に焼肉を食べたんだ」
「ホンマさん?」
「そう。あいつ、俺が食べるのをずっと見ているだけでさ、食わないのかって訊いたら何て言ったと思う?」
「えー、分かんないよ」
「そうやって旨そうに食事をするのは才能だ、って」
「へえ」
「そんなことばっか言ってんだよ、あいつ」
安太のことをこんな風にナオに話すのは初めてだ。たいして面白くもない話だがそれでいい。ただ気分が楽になったことを示したかった。
バスに乗るのは久しぶりだ。平日の昼間だからか車内には老人が多かった。ひとつだけ空いていた二人掛けシートに並んで座る。運転手がボソボソと何か言い、バスが緩やかに走り出した。
「私、実はバス好きなのよ。特にさ、こんな時間に乗ってると、いかにもお休みって感じするじゃない」
窓側に座るナオの後ろで景色がゆっくりと流れ始めた。差し込む陽射しが産毛を白く輝かせる。頭に吹きつける冷風が涼しい。
シャツの袖で隠れているけれど、青い蝶は今もこの肩にとまっているはずだ。もし逃げていたら、と馬鹿なことを考えた。もしあの蝶が逃げていたらナオは何と言うんだろう?
いかにも言いそうな台詞は思いつかなかったけど、きっとナオは同じ蝶を同じ位置に彫るはずだ。ふと思いついて尋ねてみる。
「あのさ、ここの蝶」トントンと指でつつく。「あの色、なんていう色?」
「色の名前は知らないけど、蝶の名前なら知ってるわ」
「あ、それなら聞いたことあるよ、モル、モル……」
言いかけた俺をナオが遮る。
「モルフォ蝶、でしょ。でも私のは違うの。ユリシーズって名前なの。日本の呼び方はオオルリアゲハ。モルフォはね、たしかアマゾンとかの方にいるんじゃなかったかな」
ユリシーズという響きが蝶っぽくない。昔の偉人みたいだ。
「ユリシーズはケアンズにいるのよ」
「ケアンズ?」
俺は海外の地名を殆ど知らないし、実際に海外に行ったこともないし、あまり行きたいとも思わない。
「ケアンズはオーストラリアの港町でね、ユリシーズが見れるスポットは観光名所なの」
詳しいんだな、と驚くのは今日二度目だ。今回もまたナオは笑った。
「当たり前じゃん。刺青だよ? 適当に彫れないってば」
それもそうだ。俺は昔から痛いのは苦手で、刺青はおろかピアスだって開けたことがない。
「そのケアンズってところには行ったのか?」
「ううん、彫る前まではすごく行きたかったし、色々調べたりしたんだけど、彫ったらちょっと醒めちゃったのかな、別に無理してまで行きたくはなくなったの」
近いうち一緒に行こうな、と言いそうになって慌てて呑みこむ。この人に適当なことを言ってはいけない。嘘はすぐにバレるだろう。
「ユリシーズはね、三回見ると大金持ちになれるんだよ」
軽く微笑みながらナオが言う。
「三回? 一回じゃ駄目なのかよ」
「一回だと幸せになれるの」
「順番、逆だろ」
二人で声を出して笑った。セックスの時、ユリシーズにかけたりしたら罰があたるかもしれないな、と思いナオより少し長く笑っていた。
(第15回 了)
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