ごく普通の女たちが再会したとき、何かが起きる。同窓会のノスタルジーが浮彫りにするあやふやな過去の記憶、すり替えられたイメージ。そして今、この信じがたい現実に女たちは毅然と向き合う…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ちょっぴりハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第4弾!
by 小原眞紀子
2(後編)
箱を空けてゆくと、割れやすいガラスや焼き物は先に車で持ってきたのか、軸や李朝の木製品が多かった。これは「いい匂いのする」荷だろうか。真贋はわからない瑠璃だが、荷全体の品位や趣味の一貫性、仕度の立派さで当たりをつける舅や夫を真似て、目利きを試みるときはある。だが任されているのは大まかな仕訳けだ。最終的には亮介が決めるが、ロスに持ってゆくのによさそうなものを別にしておく。そうだ、浮世絵があったら、取り分けておかなくては。
最初の箱には見当たらなかった。雰囲気的にも、浮世絵というのは、この荷の主の好みでないかもしれない。
四つ目の箱を開けているときだった。瑠璃さん、と姑が引き戸を開けた。もう鰻が届いたのか。取りかかったばかりで、まだ手を休めるときではなかった。
「電話なんだけど」
電話。ここに? 「誰ですか?」
姑は戸惑った顔で「さあ、大学の同窓生とか」と、首を傾げた。
瑠璃は舌打ちしそうになった。まったく、柿浦はどういうつもりか。携帯にかけるのを憚るのはいいが、なんでここの電話番号まで。瑠璃はサンダルを履き、店の玄関先に出た。
「はい」
「やっぱり、そこか」
渡された受話器から聞こえたのは、男の声だった。馬鹿にしたような笑いを含んでいる。
「どちら様ですか」そう問いながら一瞬、ぞっと寒気を覚えた。
「高梨です。先日はどうも」
高梨。先日。あいつだ。
ホールで探しても見当たらなかった、あの無礼な男だ。捨てた名刺は確か、その名だった。
「何か、ご用でしょうか」
瑠璃は平静を装い、木で鼻を括ったように言う。「こちらの番号は、どこから?」
「用がなければ、電話しませんよ」
高梨は嫌そうに言い放った。「どこからも何も、電話帳にでっかく出てるよ。香津骨董店って。あんた今、香津さんでしょ」
そうだった。銀座の展示会場で、こちらも名刺は渡したのだった。ならばなぜ、名刺にある青葉台の自宅か、携帯の番号にかけてこないのだ。
「今日は仕事だって聞いたもんでね。邪魔しちゃ、悪いから」
すると柿浦と連絡し合っている、ということか。いったい、どんな騒ぎだと言うのか
「自宅にもかけたけど、いつまでも帰って来ないし」
「急用ですか?」
「そう。一応、ことわっておこうと思ってね。もうすぐ警察が来る。ホールのビデオ、見せてもいいかな」
「何ですって?」瑠璃は訊き返した。
「同窓会の様子をビデオ撮影したものがある。警察が、それを渡せと言ってきてる」
ビデオ。あのとき、フロアで撮影などしていただろうか。
「新築のホールは最新鋭でね。壁の裏に機材が収納されてて、望遠レンズで撮ることができる。ズームもパンも自由自在だ。あんな場でカメラマンがうろうろしてたら、ぶつかって危ないだろ」
最初の挨拶で、その旨は説明された、と高梨は言う。
「知らなかったなら、遅刻して来たんだな。やっぱり電話してよかった。後から肖像権がどうのって言われると、面倒だからね」
そんなことは構わない。あんなに人目があるところで、撮られて困るプライバシーなど、あるはずもない。
「でも警察が見るったら、別だろ。特に、あんたなんか」
「わたしが? どういう意味で?」
「いや。気分的に、さ」
わざとなのか、高梨は奥歯に物が挟まった言い方をする。
「それも、あんたの映像ばっかりでね」
「わたしばかりって、どういうこと。カメラの操作は誰が?」
「それがたまたま、自分なんでね。警察にも言ったんだ。後で編集しようと思ったから、やたらと映りすぎている人がいるって。だけど、編集前の映像を全部見せろって言うし」
それはそうだろう。映画鑑賞でなく、捜査の一環なのだ。
捜査。瑠璃は、柿浦に訊きたかったことを思い出した。
「警察は、何を捜査してるの。解剖してるって聞いたけど」
「そう。司法解剖。行政解剖じゃなくてね」
瑠璃には、そんな違いはわからなかった。ただ、高梨のもったいぶったお喋りにいらいらしていた。
「つまりパーティで何か口にした可能性がある。食中毒とかじゃなしに、ね」
「心臓麻痺なんでしょう」
「だから、毒物による心マヒの可能性だよ。そういうこともある。化学は得意だったんだろ」
大っ嫌いだったわよ、と瑠璃は毒づきそうになった。
「毒物ですって?」
「単なる可能性でも、捜査は進めないと。証拠は散逸する一方だ」と、まるで自身も警察官のような物言いをする。「もっともグラスや皿はとっくに洗ってしまってるし、料理の残りも処分したそうだ。倒れたとき、まさか死ぬとは誰も思わなかったろうし」
「で、比目子の様子は撮してあるの?」
背後で騒ぎが起こり、自分は遅れて気づいたと瑠璃は思い出した。
「もちろん映っている。人の影にたびたび遮られているがね。倒れたのは、あんたが何か話して、通り過ぎた後だ」
ひどく棘のある言い方だった。
毒物、ですって? 瑠璃は覚悟を決めて訊いた。
「なんで、わたしばかり映ってるの?」
自然に映ったわけではあるまい。なんで自分ばかり撮ったのだ、とはっきり訊きたかったが、躊躇した。
「そりゃ、あんたが目立ってたからだよ」
待ちかまえていたように、高梨は笑う。「きれいで若かったから、とでも言われたいところだねえ」
「誰が、そんなこと」頭に血が上り、反射的に応える。
「妙な格好をしてたからね、よそ者が入り込んで来たのかと思った。あんただってわかるまで、時間がかかってさ」
明らかに嘘だった。しかも嘘だということを隠そうともしない。
「まあ、不審者かと思って、追ったわけだ」
「わたしだってわかってからは、カメラが外れたわけ?」
いや、と高梨は言葉を濁した。「かえって妙に思ったからね。いったいなんで、あんな格好してくるんだ、って。だってそうだろ。周りの女の人たちと全然違うじゃないか」
違って見えること自体が非常な罪悪、というような口調だ。
「あなたの言う、その女の人たちは、わたしに誰もそんなこと言わなかったけど。ラフな格好だったのは、後から仕事が入るかもしれなかったからよ」
「そうかな」高梨は、瑠璃の嘘には容赦がなかった。
「のんびりしてたじゃないか、うろうろ知り合いを探してるみたいにして。ジーパンなんかで、失礼とも思わず」
シャツと靴は最高級品よ、と言うのは馬鹿げていた。
「パーティを侮辱しに来たのか」
「比目子を探してたのよ」と、つい言い訳めく。「展示会に大勢呼んでもらって、お礼を言わなきゃならないでしょ、だから、」
「じゃ、なんで彼女に挨拶した後も、ぐずぐず帰らなかった」
瑠璃に言い返されるごとに、高梨は激昂するようだった。
あんたを探してたのよ。
そう言ってやりたかった。そう、自分はこいつに意趣返しでもしてやりたいと思っていたのだ。だがその間、高梨はカメラを通してずっと瑠璃を見ていた。高梨を探していたことも、もしかして見通したのか。そう思うと背筋が凍りついた。
「不審に思ったんだよ。あんた、昔から恥知らずなところがあったが、それにしたって」
わたしが、恥知らず。昔からの何を知ってると言うのか。こんな男、自分には記憶もない。
違う、と瑠璃は考え直した。
どんな口実でもいいのだ。自分への憎しみに理由などないのだ。悪意はその分、底なしに思えた。昔、自分がこいつに何かしたのだろうか。婚家の店にまで追いかけてきた。銀座の展示会場へも。男の名前も顔も、瑠璃の記憶にはほとんどなかった。あるいは、その記憶がないことに対する怒りなのか。
「挙動不審だよ。身元が知れていよういまいと、あんたのあのときの様子は不審者そのものだった」高梨は決めつけた。
挙動不審。と、高梨がその言葉を口にした意味が、初めて瑠璃に伝わった。
「そういうわけだから、ビデオは提出する。市民の義務だからね」
警察に対しても、挙動不審だったと繰り返すつもりだ。高梨はそう宣言していた。それは市民として「良心」を主張する根拠になる。もちろんこの男が、何ら私心も偏見もなくカメラを覗いていた、という前提があれば、だが。
「どうぞ、何とでも。わたしには関係ありませんから」
店のガラス戸が開き、鰻屋の出前が入ってきた。
財布を持って出た姑は、壁の影で電話を聞いていたらしかった。鰻屋と鉢合わせする形で、二人の従業員も店に入ってくる。
不審ってのは、そっちの主観でしょ、と瑠璃は言い返したかったが、もう争うわけにはいかなかった。
電話を切ろうとすると、「念のため、この電話は録音させてもらってる」と高梨は早口で付け加えた。
「告知しとかないと証拠能力がなくなるそうだからね」
その晩、瑠璃は店の二階に泊まることにした。一人でも大丈夫、と言ったのに、姑は物騒だからといっしょの部屋に寝た。
「いくら何でも、女が一人きりでは。誰もいなければね、命だけは取られずに済んだ、ってこともあるけど」
だとすれば姑がいても同じで、むしろ犠牲者の数が増えるだけだろう。が、そんなことを言えば一悶着となる。そもそも現金決済が基本の骨董屋が外で襲われることはあるかもしれないが、店など狙ったところで、賊には始末の悪い代物が置いてあるばかりだ。だがいつまでも素人で目の利かない姑は、とてつもないお宝がごろごろしているとでもいった緊張感が抜けない。
翌朝、舅が出てくると、青葉台にいったん帰る、と瑠璃は言った。
「また夕方に来ます。講座の準備をしないと」
カルチャーセンターでのパーティ・アレンジメント講座の仕事は一週間先だったが、準備があるのは本当だ。昼飯にと引き留める舅を振り切り、地下鉄に乗った。日曜日の車両は空いていた。
一人になれて、瑠璃はやっと安堵した。夕べは夢見も悪かった。
朝食のときになって、姑は思い出したように「昨日の電話、何かあったの?」と訊いた。
一晩中、何も言わずに我慢していたのだ。姑のそういうところを、瑠璃は偉いと思っていた。自分にはとてもできない。
「同窓会で幹事をしていた同級生が倒れて、そのまま亡くなったんです」
ああ、と聞き流している振りで、姑は味噌汁を啜った。
「後の始末やらで、ごたごたして。責任の擦り合いのようになって、みっともないんですが」
すみません、と瑠璃は小声で謝った。
気を揉ませて、という意味だった。ときどき姑は瑠璃の身辺に、よく言えば心を砕き、悪く言えば目を光らせていると感じる。離れている長男の代わりに、それが務め、とでもいうみたいに。
「そりゃ大変だね。でも瑠璃さん、同窓会なんぞには出ない人と思ってた」
そう、出るべきでなかった。出なければよかったのだ。慣れないことはするものではない。とはいえ偶然の重なりで、うまく避けられない成り行きもある。
九段下で田園都市線直通の地下鉄半蔵門線に乗り換えると、座席に腰を下ろした。と、瑠璃は、夕べ姑も店に泊まる、と言い張ったのは、あの電話のせいだ、と気づいた。
婚家の店にまで電話してきたのは男で、しかも揉めている様子だったとしたら、夜、嫁を一人にしてはおけない。
当然の懸念だろう。だが深夜、あの男を自分が店に連れ込む?
姑の想像の中であれ、一瞬でもそんなことが起きたなど心外だ。あの声を一言聞いただけで、見当がつきそうなものではないか。
自己正当化する頑迷な口調。自分に都合のいい理由で、値踏みする平板な目つき。髪だけは豊富で、白髪のない狭い額。弛緩した身体。贅肉で崩れた輪郭の顎をひっきりなしにがくがくさせ、知ってる言葉を総動員して鬼の首でも取ったみたいに難癖をつけて。
鼻。あのやたらと大きな、整わない高い鼻。穴の形に特徴があった。そう、空豆のような。
見覚えがあった。あの鼻。高梨。
あの高梨だ、と瑠璃は初めて思い出した。
確かに、基礎課程のクラスにいた。今よりずっと痩せていた。同じ平板な眼差しの目が、頬の肉に埋もれずにぎろぎろして、眉も睫毛も黒々していた。肌の色も今より濃く、背が高かったし、精悍といえば言えたかもしれない。あの高梨。印象は薄く、だが比較的に目立つタイプの連中とつかず離れず、瑠璃のそばにもときどきやってきた。
それが今になって、なぜ自分を。
マンションに帰り着くと、途中で買って帰ったサンドイッチを摘み、講座の資料を眺めた。が、気が晴れなくて集中できず、かといって気晴らしする気分でもない。
今日は日曜だ。あらためて思い起こし、バッグから名刺入れを出した。電話の受話器を持ち上げる。一度は戻した。それから再び取った。
柿浦はいなかった。留守電には吹き込まずに切った。
なかば、ほっとした。何を言うつもりだったのか。
「あの男、何なの。警察のつもり?」「わたしの普段の格好も、同窓会に来たことも、この世に存在してることも気に入らないらしいのよね」
言い出せば、とめどなくなりそうだった。柿浦はどういう理由でか、高梨と頻繁に連絡を取り合っているらしい。そうと承知していても、だからこそ言わずにおられないだろう。責任の一端は、明らかに柿浦にある。何の責任か、自分を不快にしたことか、比目子が死んだ救急車に乗っていたことか、よくわからなかったが。
言わずに済んだ。みっともない、場合によっては取り返しのつかないことを。だが瑠璃の方から受話器を取り上げたことで、何かの陥穽にはまった気がしたことも確かだった。
(第04回 第02章 後編 了)
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