僕の住む街に、隠れ家のようなブックカフェがある。そこで僕は何かを取り戻してゆく。導かれるように求める何かに近づいてゆく・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもある、ラモーナ・ツァラヌさんによる、本格的日本語小説処女作!
by 文学金魚
僕は時空堂の夜の常連になったようだった。平日はいつ行ってもお客は僕だけだったからだ。だけど週末に、昼間訪ねると、数は少ないけどよく会うお客さんがいた。先生と呼ばれる老紳士はその一人で、鼻眼鏡越しに本を眺め、「この本もあったか」とかつぶやいていた。数冊選んで机に積み、メモを取りながら読んでいた。時空堂を図書館にしている学者さんらしかった。
「ホントにすごいコレクションだね」
「お役に立てて何よりです」
先生とクララさんが話していた。静かにしているのがブックカフェの礼儀だから、僕はチャンスと思って、「ここの本は全部クララさんが集めたんですか?」と聞いてみた。
「この人の私物だよ。稀覯本もいっぱいあるんだ。売って欲しい本もあるんだけど、私物だからって断られてるの。ここで読めってことだよね」
「そうですね」クララさんが笑った。
「ほら、頑固なんだから。でもここにある本、全部読んだら、時間と空間を自由自在に行き来できるようになるんだよね」
「まさか。それは先生の願望ですよ」
「いや、僕は本当だと信じてるんだ。なにせ時空堂だからね」
先生は笑うとまた本を読み始めた。
「あの方は元大学教授で、引退してからこの地域の郷土史の本を書いていらっしゃるの。町の図書館の本は、ほとんど全部読んでおられるんじゃないかしら。たくさんの蔵書をもお持ちでしょうしね。だけど不思議ね。このお店の本じゃなきゃ、調べられないことがあるとおっしゃるの」
先生が帰るとクララさんがそう言った。窓の外の先生を目で見送っていたので、独り言のようにも聞こえた。僕は返事をしようかどうか迷った。クララさんがそのままカウンターの後ろに戻っていったので、僕は何も言わずにまた本に目を向けた。
昼過ぎにやってくる女性は近くに住むピアノの先生で、「今日は遠い国の物語を読みたいわ」、「悲しい気持ちを励ましてくれる詩はないかしら」などと尋ねていた。クララさんがすすめてくれる本を読むのを楽しみにしているようだった。
本を受け取ると、いつも右側の机に座った。少し読むと顔を上げ、窓の外をぼんやり眺めていた。本の内容と対話しているようだった。本を手に空を見つめる彼女の姿は美しかった。
初めて会った時、ななみちゃんは「いらっしゃいませ!」と元気な声で僕を出迎えてくれた。この街の中学の制服姿だった。面くらいながら「こんにちは」と答えた。どことなくクララさんに似ているような気がした。
「クララさんは?」
「奥で読書中です。わたしがご注文をうけたまわります」
「じゃあ紅茶を」と言って僕は苦笑した。ふと先生の、時空堂の本を全部読んだら時間と空間を自由に行き来できるという言葉を思い出していたのだった。
「加賀谷さん、いらっしゃい」
「お孫さんですか?」
奥から現れたクララさんに、いつものアームチェアに腰かけながら聞いてみた。
「いえ、わたしの友だちのななみちゃんよ」
「よろしくお願いします」ななみちゃんが紅茶を運んできてくれた。「よろしくね」と答え、僕は読みかけの本を開いた。
「ななみちゃん、読み終わりましたよ」
「どうでした?」
「とっても面白かったわ」
反対側のテーブルから声がした。クララさんの言葉は短くそっけなかったけど、ななみちゃんは、目をキラキラさせていた。
クララさんがノートを手渡すと、ななみちゃんは学生カバンにしまって立ち上がった。
「ありがとうございます、失礼します」
僕の方も見て、軽く会釈をしてからお店を出ていった。
「いい子でしょ。近所に住んでる子で、ときどき遊びに来てくれるの。物語を書いてて、なぜかわたしが一番最初の読者に選ばれたのよ。素敵でしょ」
目が合うとクララさんが微笑みながら言った。
不思議な感じがした。時空堂には哲学の本なんかも置いてあったけど、このお店自体が何かの物語のようだった。店主はクララさんだから、彼女が物語の主人公ってことになる。そのクララさんが、ななみちゃんが書いた新しい物語を読んでいる。物語がどんどん膨らんでいるようだった。もしかして、僕も物語の登場人物の一人で、このお店から新しい物語を紡ぎ出せるのだろうか。
チラリとクララさんを見ると、そのままテーブル席に座って本を読んでいた。ふとどこにいるのかわからなくなってしまう。ヨーロッパの貴族の豪邸にしかないような、天井まである高い本棚。その中に座っている。青い目をした、だけど国籍不明の老婦人。もしかして彼女もまた、この本で埋まったお店の登場人物の一人なんだろうか。
でも僕はクララさんのことを何一つ知らない。どうしてこのお店を始めたのかも、知らないんだ。
しばらく読み続けていた小説を読み終わり、本を閉じて内容を振り返っていた。ヘルマン・ヘッセの『ナルツィスとゴルトムント』で、昔一度読みはじめたけど、この店でようやく最後まで読み終えた。
「ヘッセって、いいでしょ」クララさんがカウンターの後ろから話しかけてくれた。
「ええ、ヘッセは、大人になってから読んだ方がいいかもしれませんね」
クララさんは微笑んだだけだった。ただいつもより店の中の雰囲気が柔らかくなっていた。僕は思い切って時空堂の本をどうやって集めたのか、聞いてみた。
「自分が読みたいと思って買った本、友人や知り合いからもらった本、それに親が残してくれた本などですね。気づいたら数千冊集まってたの」
「ブックカフェを開くきっかけは何だったんですか?」僕はそれが一番知りたかった。
クララさんは困った顔をした。言葉を探しているようにも見えた。急須の茶葉を取り替え、お湯を注いで僕の分のお茶もいれてくれると、ようやく口を開いた。
「人間は優しく助け合う力も、もの凄く残酷なことをしてしまう力も持っていますよね。だけど現実は、取り返しがつかないけどとっても曖昧。放っておいたらすぐに無に飲み込まれてしまう。そんな無にあらがって、物語や詩や論文を生み出し、記録するのが人間の創造力だと思うのよ。加賀屋さんがお好きな物語だって、わたしたちに現実の本当の姿を見せるために書かれているような気がするの。良い本って、人類の知性と感性の結晶だと思うわ。その結晶を守るための場所を作りたかったのかしらね」
「世界中の本を集めた、図書館みたいな場所を作るつもりなんですか?」
「まさか。もっと気軽な場所よ。広い世界の入り口みたいな」
クララさんは恥ずかしそうだった。膝の上でこぶしを丸めて、うつむき加減で話していた。まるで少女がはにかんでいるようだった。話題を変えた方がいいと思った。
「珍しい本もあるんですよね。そう言えば、まだカタログの本は見てないな」
「お見せしましょうか」
僕がうなずくと、クララさんは思いがけない早さで立ち上がった。緑色のスカートが翻って閃光を発したように感じたが、床に置かれたステンドグラスのランプの光が目に入っただけだった。ただやっぱりいつもより機敏に動いたようだ。ランプから目を戻すと、クララさんは梯子を両手に持ち、本棚に立てかけて一段目に足をかけていた。僕はあわてた。
「僕が取りますよ」
「だいじょうぶです」
僕はあっけにとられた。クララさんは身軽に梯子を登り、あっという間に四メートルほどの天井にいた。一冊の本を引き抜くと、足早に梯子を下り始めた。僕ははらはらしながら、両手でしっかり梯子をおさえた。
「棚の上にある本のほとんどは、百年とか二百年前に出版された本ですけど、これが一番古い本なの」
テーブルの上に置かれた本を取り上げ、そっと開いてみた。タイトルや著者名、発行先などがブラックレターで書かれていた。読めなかったが、ラテン語だということはわかった。下の方にMDLXXXIIと印刷されていた。
「一五八二年刊の本ですか」
「そう。ジョルダーノ・ブルーノの『デ・ウンブリス・イデアルム』、『アイデアの影』よ。一五八二年にパリで発行されたの」
僕は遠い目になった。十六世紀イタリアの哲学者、ジョルダーノ・ブルーノ。地球が宇宙の中心ではないという、当時最新の宇宙論や世界説を主張したため、異端者とみなされ死刑に処せられてしまった。彼の中では哲学と天文学、幾何学と宗教学が融合し、一つの思想となって宇宙の秘密を問い続けていたらしい。原書は読んだことがないが、僕の好きな作家のほとんどがブルーノの思想に影響を受けていた。
「アイデアが宇宙にあるものすべてを作っている。知性によって人間はアイデアを知ることができるから、人間には宇宙の本質を知ることができるという論ですね。記憶術と知識論を宇宙論と結びつける図もあって、なかなか面白い本ですよ」
思わず学生時代に戻ったような感覚を覚えた。
「この本はどうやって手に入れたんですか。世界に何冊もないでしょう」
「わたしの父親の本なの。父の親友から預かった本なんです。父親は学者で地図製作者だったから、若い頃は世界中を飛び回っていたのね」
クララさんは淀みなく話した。時空堂の開店理由より、本の由来を話す方が楽しそうだった。「どうぞ続けてください」と言うと、僕はアームチェアに腰掛けた。
「戦前はどの国も大変だったけど、特にドイツに占領された国は厳しかったの。この本の持ち主はワルシャワに住んでいた父の親友で、古本屋を開いてたの。一九三三年にベルリンで焚書があって、ナチスが禁書指定した本を持っているだけで逮捕され、罰せられるようになったのね。父は親友を訪ねて、禁書でも貴重な本なら、僕が国外に持ち出して預かってあげると言ったの。父も本好きだったんです」
本棚に囲まれたお店で二人は話したわ。ちょうどこのお店みたいに、天井まで本棚がしつらえられていて、高い所に登るための梯子があって、ちょうどわたしたちみたいにテーブルを挟んで、向かい合って。
「気持ちだけもらっておくよ。君を危険にさらすわけにはいかないしね」
「心配ない。僕だって自分の身くらい守れるから」
親友は椅子に深く腰掛け、テーブルに肘をついてじっと父を見た。絶望しているような目だったと父は言ったわ。ふと立ち上がり、本棚から一冊の本を引き抜いて手渡した。
「この本は禁書じゃないよ。禁止される理由もない。だけどあいつらは、何をするかわからない。これをしばらく預かってくれないか」
それがブルーノの本。この本よ。ワルシャワの、父の親友の古本屋さんが、一番大事にしていた本。
その日は遅くまで、お酒を飲みながら二人は話したの。会話は弾まなかった。だって、世界の出来事を話し、いつ焼かれるかわからない本に囲まれていたんですもの。それが父が親友に会った最後の夜になったの。
ワルシャワは侵略され、ポーランド国民の歴史が消されるように、図書館や書店は燃やされてしまった。世界に一冊しかないような、貴重な本も焼かれてしまった。戦後になって父はワルシャワを訪ねたけど、お店はもうなかった。親友の行方もわからなかった。
父がラテン語の勉強を始めて、ブラックレターという書体の読み方を学んだのは、この本を読むためだったと思うわ。本当に読んだんだから。本を開いて翻訳しながら、わたしに内容を教えてくれたのよ。
僕の目の前に少女が座っていた。髪を三つ編みに編み、真剣な目で見つめていた。何かにじっと聞き入っていた。
「今のはなんなんですか!」
ハッとして僕は言った。椅子から飛び上がりそうだった。クララさんは元のお婆さんに戻っていた。
「何って、昔話よ」
クララさんが掛け時計を見た。目で追うと、驚いたことに深夜十二時を回っていた。
「ああこんな時間まで。閉店時間、とっくに過ぎてるじゃないですか、すみません」
「いえ、わたしが昔話を始めたのが悪いのよ。でもシンデレラの物語を信じれば、お話は十二時前には終わらせなきゃなりませんよね」とクララさんは笑った。
(中編 了)
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*『時空堂』(全3回)は毎月20日にアップされます。
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