エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第四章 新入り
号令は大狂乱に呑み込まれた、遠近よりなりふりかまわず湧き出ずる人間たち、皆一斉に戸口に殺到した、手に手に匙を握り、我先にと他を押しのける。Bは取り乱すことなく、尻に敷いていた藁布団の下から自分のスプーンを引き抜くと、「おまえのは下でもらえるはずだけどもらったら隠しとけよパクられるから」――それからブラガードさんに声を掛けた、彼は朝の散歩にも参加していなかったし、食欲のような低次の問題に浮き足立つような真似は彼の気位が断じて許さない、俺たち三人はあとから戸口の浮かれ騒ぐ人だかりに加わった。俺はさして腹が減っていたわけでもなかったこともあって大部屋の住人たちの瞬く間の変貌を目の当たりにし心を打たれずはいられなかった。かの妖女キルケーが男に仕掛けていた呪いの獣物変化だってこれには及ぶまい。獣のそれというほかない戦慄きを湛えた顔の群れからは俺が知り合った変わった連中の面だってまず見分けられない。看守の一喝がもたらした変身にはただただ唖然とする以上のものがあった、人間業とは思われぬ、ぞくぞくと鳥肌立つものがあった。欲動に沸騰した目玉の、ねじれ上がった唇の抑えきれない下卑たにやつきの、流されたりしがみついたりしながらへいこら縋りつく畜生に成り果てた体たらくの、その美しき恍惚境とでもいうようなものに俺は参ってしまった。己が運命の調停人の前に集いし奴原その数三十余は、おぞましいほど本性剥きだしで、鳴りをひそめ、ぎっしりかたまった欲望の混沌と化した。夥しくもなめらかに結集した溌剌たるひとでなし。この獰猛で殺伐たる奇跡、あるいは邪悪なる飢餓の錬金術の見事な顕示につくづく見入っていると、個性なるものの最後の名残さえいまにも消尽し、ばくばくと波打つ鼓動の次の一拍のうちにすべてが御破算になってしまうような気がした。
牛頭が吼える。
『全員いるか』
人の言葉でなにごとかきんきんと叫び返す。牛頭は蔑むような目つきで、喚き立てる三十の顔の今にも喰らいついてきそうなのを見回した――巻きゲートルも、リボルバー銃も残さず平らげんばかりだ。牛頭(ごず)の号令が下る。
『出ろ、階下だ』
のたうち、押し合い、圧し合い、喚き合い、俺たちはちょぼちょぼと戸口をくぐりぬけた。馬鹿馬鹿しくもあり。空恐ろしくもあり。俺はなんだかどんちゃん騒ぎに乗じて解きようがないほどぐるぐる巻きにした包帯網をかいくぐった勇敢なるばい菌のような気分だった。Bは隣にいた。目と鼻の先でオーギュストさんの声が抗議している。殿を務めるのはブラガード伯爵。
廊下に出たところでふうーっとめいっぱい息を吐いた。階段よりも幅広の廊下だからやっと息が継げる、そして辺りを見回した。Bが耳元でわめいた。
「見ろよあのオランダ人とベルギー人の連中。食い物のことになるといつも一番乗りだ」
なるほど。風呂屋のジョンとハリィとポンポンがこの馬鹿げた行進の先鋒だった。ところがフリッツも連中の背後にぴったりついている、しかも先鋒をぐいぐい押し上げていた。オーギュストさんの子供みたいな叫び声が聞こえた。
『ひとりひとりが落ち着いて歩けばすんなりと着くんだ。やめろやめろ!』
すると忽然と喚き声が鳴り止んだ。押し合い圧し合いがすうっとまとまった。規則正しく縦隊を組んで進んだ。Bが言った。
「監督官だ」
廊下の突き当たり、炊事場の窓の向かいに、階段がある。その下から三段目に(前に後ろにとゆらゆらしながら、痩せた両手を後ろ手に組んで周期的にぴくつかせながら、フランス軍帽屍体のように生気のない額に目深に傾けてかぶることでその目びさしが垂れ下がった眉毛の下からのぞく落ち窪んでしなびた目を隠すようにしながら、その雄鶏のごとくふんぞり返った胴体はしみひとつ無く仕上がったてらてらの軍服に通し、つやつやの巻きゲートルと、磨き上げたぴかぴかの戦功十字章を光らせながら)――かの剣士殿のお出ましだ。見違えるような武者振りに俺はたまらず吹き出した。しかもその立ち姿がフランス軍を閲兵するナポレオンに似てるからおかしくって。
縦隊の第一列がまず監督官の脇を通り過ぎた。そのまま戸口を抜けて外に出るんだと思った、俺が風呂場から中庭に出たときみたいにさ、ところが列は右にかくっと折れ曲がったかと思うとまたかくっと左に折れた、それで短い通路があるのがわかった、ほとんど階段の影に隠れていて見えなかったんだ。すぐに俺も剣士殿の脇を通り過ぎて通路に入った。次の瞬間には部屋に入っていた、かぎりなく正方形で、一面に柱が列をなしている。部屋に入りきったところで縦隊の進行が行き詰まった。この渋滞の原因はすぐに判明する即ち一人一人順番にテーブルの前で料理人からパンをひとつ受け取っていたというわけだ。Bと俺の番が来てテーブルの前に立つとパンの配給係は朗らかに微笑んでBにひとつ頷いてみせた、そして大きいやつを選らんでさっとBの手に押し付けた様はなにかいけないことをしているような感じだった。Bが俺のことを紹介すると、またにこっとして俺にも贔屓をしてくれた。
「あの人は俺のことをドイツ人だと思ってるんだ」とBが小声でこそっと打ち明けた。「おまえのこともな」そして聞こえる声で、料理人に「俺の友達にはスプーンもいります。今朝着いたばかりなもんでまだもらってないんです」
そこでパン配給台の紳士は俺に向かって、「窓まで行って私の言いつけでスプーンを取りに来たと言えばひとつもらえるよ」――そこで俺は行列を抜け出し、炊事場の窓まで行って、中にいたごろつき顔に頼んだ。
『スプーンひとつ、くださいな』
ごろつき顔は、かすれた裏声で鼻歌を歌っていたところだったが、つっけんどんというほどでもないけど鋭く訊き返してきた。
『なんだ新入りか』
ええ、昨夜遅くに着きましたと答えた。
(第23回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『伽藍』は毎月17日に更新されます。
■ e・e・カミングズの本 ■
■ 金魚屋の本 ■