一条さやかは姉で刑事のあやかのたってのお願いで、渋谷のラブホテル街のど真ん中にある種山教授の家を訪ねる。そこはラブホテル風の建物だが奇妙な博物館で、種山教授は奇妙に高い知性の持ち主で、さやかは姉が担当する奇妙な事件に巻き込まれ・・・。
純文学からホラー小説、文明批評も手がけるマルチジャンル作家による、かる~くて重いラノベ小説!
by 遠藤徹
(六)象の背中(四)
「どうして思ったんです。無念だなんて」
「うん、賭けだったんですけどね。全体的な印象かな。いろんな絵を組み合わせてみて出てきた印象がそういわせたんですよ」
出たあ、結合術だ。賭けってところがちょっとひやひやもんだけど、いずれにせよ、みごとに成功させて見せたわけね。なかなかやるじゃない、もじゃのくせに。
というわけで、もうそこに渋面はなかった。
一流のマッサージ師に、渾身のエネルギーをこめてもみほぐしてもらった後の人のように、長老はほどけていた。とろけていた。まろやかな風味だった。
娘の霊と再会できたこと、その娘の意志を聴けたことが、老人を激しくそして豪快に癒していたのだ。ごめんね、だましちゃって。でもほんとだから、わたしたちがその無念とやらきっと晴らして見せまするからね、おじいちゃん。
「日本から来られたお二方、どうか聞いてください」
長老は、ゆっくりと話し始めた。手には金属でできた小さな楽器を持っていた。両手のそれを軽くぶつけると、ぴぃぃぃぃぃんという感じの心地の良い音が当たりに響き渡った。
といっても、ご存じのようにわたしにはタイ語もカレン族の言葉もわかんないのです。ですから、以下は、種山とバボエ君の通訳を経て理解した内容を、わたしが会話として再現したものだとお心得ください。
「確かにこの村には、五年ほど前から日本人が来るようになった。最初に来たのはカズだった」
和也さんだ。すぐにぴんときた。
「カズは、重い荷物をしょってここへやってきた。象使いになりたいから、弟子にしてほしいというのだった。だから、パコディを師匠にしてあげた。パコディは象使いの息子だから、象の扱いがとてもうまい。まだ十歳にもならないパコディが師匠だということに、カズは少し不満そうだった。それでも一生懸命に象の扱いを習おうとしていた」
ほらね、つながった。やっぱり象だ。象こそが、和也さんの目的だったんだわ。
「でも、その後間もない内に、もう一人の日本人が現れた。ハルだった。これにはわたしたちも少し驚いたものだった。立て続けに二人も異邦人が、それも同じ国の人間が別々に現れたのだから」
「で、ハルさんってのはどういう人だったんです?」
問うたのはむろん種山。でも、それを聞きたかったのはわたしも同じだから、わたしの問いでもあった。
長老はにっこりとほほ笑んだ。
「いい男だった。ギターを抱えて現れて、実際名人だったね。陽気な歌声でいろいろな歌を歌ってくれた。わたしたちの知らないたくさんの歌を知っていた。わたしたちの村の歌も、すぐにギターの伴奏をつけて歌えるようになった」
なんでも、あてがわれた高床式の家に戻ってからも、ほとんど一晩中歌い続けていたのだということだった。よくそんなに声が続くなと問われると、「いや、歌うことがぼくの天命なんだと思うんです。歌う時ぼくはもっと大きなものにつながってると感じるんです」と答えて、素朴な村人たちを感心させたのだそうだ。長老のハルへの賞賛はなかなか終わらなかった。
「ハルはいつでも気さくだった。笑っていた。村の仕事も率先して手伝ってくれた。それに、なによりハルには医学の心得があった」
「医者だったんですか?」
「いや、違う。わたしは医学の心得といった」
長老は首を横に振った。
「たとえば、マラリアの予防接種を皆に無料でしてくれた。医者の手伝いをしていたことがあるからと言っていたな。新しい村を訪ねるときには、いつもこのワクチンを土産にしているのだと。自分はなんにでも興味があるのだと。でも、しょせん自分はただのヒッピーだと言っていた。ヒッピーとは何か?」
逆に問われてしまった。
「一九六〇年代にアメリカでおこった若者たちの反抗の季節と呼ばれる時代がありましてね。その流れのなかで・・・」
例の調子で種山が話し始めたのでわたしは慌てた。これはいかん。話が長くなってしまう。やむをえん、使うぞ、
秘技快刀乱麻!
「ちょっと待って、先生。わたしが代わりに説明します。つまりヒッピーってのは、ラブ&ピースです。ラブ&ピースな人たちのことですよ、長老。はい、バボエ君訳してちょうだい」
わたしの説明を聞いて、長老はにっこり笑った。ほらごらんなさいな種山先生。わたしの説明しっかり伝わりましてよ。
「よくわかった、娘さん。確かにハルはよくそう口にしていた。自分は、人生を幸せに過ごせればそれでいいんだと。そして、自分が幸せというのは、皆が幸せという意味なのだとね。ほんとうに楽しい男だった。だから、村の子供たちも娘たちもすぐにハルになついた」
「あれれ」
とそれを聞いたわたし。ハルのことになると妙に饒舌な長老だけど、肝心の人の話がおいてけぼりでは?
「じゃあ、カズさんは? カズさんはどうだったの? バボエお願い、聞いてみて」
「承知の助でしょう」
バボエはうなずくと長老に問うてくれた。すると、長老は少し眉間にしわを寄せて、
「なんといえばいいのか、確かに背格好はよく似ていたよ。同じ日本人だからかな。だけど印象はまったく違ってた。そうだな、ハルが太陽だとすれば、カズは月のような男だったんだ。ハルがやってこなければ、それなりに歓迎もされただろうけれど、なにしろ太陽がでてしまったら月はかすむしかないからね」
「うわあ、目立たなかったんだ」
「うん、少し暗い感じがあったからね。なにかわだかまりを抱えているという感じだった。・・・ただ、釣りはうまかったな」
長老は、釣りざおを川に投げ入れる真似をした。
「釣り、ですか?」
これは種山の合いの手。
長老は、手に持った金属をぴぃぃぃぃぃん打ち鳴らしながら答えた。
「そうだよ。この村にはそもそも釣りざおがなかった。わたしたちには釣りをする習慣がなかったからだ。すると、カズは自分で切り出してきた竹の棒を使って釣りざおをこしらえた。それで、裏の池にいる魚を上手に釣ってみせたものだった。その技術に関してだけは、ハルもかなわなかった」
「へえ、いつそんな技術を身につけたんでしょうね」
「なんでも、子供のころから好きだったらしい。それに一時は、海沿いに暮らして漁師の仕事を手伝ったこともあると言っていた」
「で、ハルさんとカズとはどうだったの。うまくいってたの?」
これはわたしよ。聞いたのはわたし。
「だと思う。少なくともカズはハルのことをとても気に入っていた。というより、ハルを好きにならない人間はいないだろうからね。とにかく、生きることを楽しめる男だった。誰とでも心おきなく接し、笑い、歌い、そして踊ったからね」
生粋のヒッピーのイメージが思い浮かんだ。ただ生きること、生きることを楽しむこと、人を愛することだけを大切にしているような人間。そんなハルとカズとは、時期はずれることも一致することもあったけれど、二年間ほどの間長期滞在を繰り返したのだという。
「誰もが気に入るということは、ウライさんも」
とそこまで種山が問いかけたところで、長老がうなり声を上げた。
「そうなんだよ」
苦しげだった。
「わたしの自慢の娘だった。幼いころから優しくて、明るくて、そして頭がよかった。それが、バンコクの大学から戻ってからはずいぶんと落ち込んでいたんだ。学問なんかしなければよかったとまで悔んでいた。そうすれば、世界のことも、タイの現状も、何も知らずに生きて行けたのにと」
「まじめな人だったんですね」
「でもそんなウライが、突然輝きだしたのだ」
胸の奥に秘めていた感情を初めてお蔵出ししているせいだろう、長老の息が若干苦しげになった。
「あの太陽に照らされたからだ」
「つまり、ハルさんですね」
「そうだ。ウライは、ハルを好きになってしまったんだよ。たぶん、生まれて初めての恋だったのだと思う」
なんだかどんどん和也さんの立場がなくなっていく感じだった。おいしいところを全部持っていかれてるって感じだった。言ってみれば、ウィッチウィードに寄生されたトウモロコシってとこだろうか。ああでもそれは、ハルさんに失礼か。それに、トウモロコシにたとえられた和也さんにも失礼かな。
「で、カズは、どうだったんです。その件に関して?」
「それはもう火を見るよりも明らかだった」
と応えると同時に、長老は金属の楽器を烈しく打ち鳴らした。
ぴぃぃぃぃぃぃん。
きっと魔除け的な意味がある楽器なのだろうと、わたしは勝手に推測した。実際、その音が響くと、部屋中の空気が澄み渡るような気がしたのだ。
「カズはウライに惚れていた。でもウライはハルに惚れていた。そして、カズはハルが好きだった。だから、ハルがウライに惚れられていることを受け入れた。自分はすぐに身を引いた。そして、象の訓練に打ち込んだ」
うわっ、なんか漱石の『こころ』チック。かわいそうな人だったんだね。和也さん。なんていうか花のない感じ? ライバルっていうより、もう最初っから全然かなわないって感じじゃないの、これじゃあ。
「でも、ウライは死んだ。なぜだかわからない、なぜだか」
ふいに長老の顔が歪み、いまにも泣きだしそうな感じになった。ほんとこの人たち感情がわかりやす過ぎるわ。
「なんだったんですか、その、死因は」
こういうときに、無神経な人間がいると助かったりするわけだ。ずばりと聞いてしまうから。にしても種山先生、それはちょっとぶしつけっていうか。
「象だよ」
長老が答えた。
「象に踏まれて死んだんだ」
「なんですって」
「いつもはおとなしい象のモーヒッカが、突然暴れだした。モーヒッカはウライがかわいがっていた象だった。その日も、モーヒッカに乗って、散歩に出かけようとしたところだった。突然モーヒッカの様子がおかしくなった。眼の脇から白い涙をあふれさせながら、モーヒッカは暴れ狂った。耐えきれなくなって背中から落ちたウライを踏みつけた。いくどもいくども踏んだ。村のみんなも、カズとハルも飛び出してきて止めようとしたけれど、モーヒッカは暴れ続けた。ハルが、麻酔弾を撃った。何発も何発も撃った。それでやっとモーヒッカは止まった。モーヒッカは眠っただけだった。けれど、ウライは二度と起き上がることはなかった」
それ以上は話せなくなった長老を気遣って、わたしたちは小屋を辞した。種山もあまりのことに言葉を失ったかのようで、いつもの饒舌は影をひそめていた。高床式の部屋に戻ってからも、しばらくは心臓の高鳴りがおさまらなかった。
翌日わたしたちは再度の聞き取りを試みて、そのまま村を辞した。
その日の収穫は大したことはなかった。ウライの死がすべてを終わらせてしまったのだった。意気消沈した二人は、それぞれに村を去った。ハルはウライの死の翌朝、ごく一部の村人にだけ別れを告げて村を去った。自分がこなければこんなことにはならなかったのに、とひどく落ち込んでいたという。それを知ったカズもまた、大慌てでその後を追って村を出て行ったのだという。
ひとつだけ有力な情報があるにはあった。ハルが最近またこの村を訪ねてきたのだというのだ。
「でも、ハルはもう昔のハルではなかった。スーツを着て、皮のカバンを下げた別世界の人間になっていた」
「つまり、太陽のような人ではなくなっていた、と?」
そう問うたのは種山であった。
「そう。いくぶんむかしの面影は残っていたものの、すっかり文明の中で暮らしている人間の顔になっていた。だから、最初は別人かと思ったほどだった」
長老はそんな風に教えてくれた。ハルは、ウライの墓に参って、たった一晩泊まっただけで村を去っていったのだという。
「土産はたくさん持ってきてくれた。あなたたちをインスタントラーメンで毎食歓迎できるのはそのおかげだ」
なるほど、ハルさん、稼いでるんでしょうし、今度来るときはもうすこし辛さひかえめのやつを土産にしてください。わたしは心底から願った。できれば、ラ王とかがいいです。
(第18回 了)
* 『ムネモシュネの地図』は毎月13日に更新されます。
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『ムネモシュネの地図』は毎月13日に更新されます。
■ 遠藤徹さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■