世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
十二、ふたりの世界
エレベーターで昇るような目の覚め方だった。五階や六階ではなく、五十階や六十階まで一気に上がっていくあの感じ。昇りきったら力は要らない。何をしなくてもパチッと目が開く。ふと視線を感じて横を見るとナオが見つめていた。隣で寝てくれていたらしい。
「おはよ」
これは現実だ、現実の朝なんだ、と確認させてくれる声。いかにもナオっぽい声。妙に嬉しくなって、強く抱き寄せて首筋に舌を這わせる。
「ちょっと、具合大丈夫なの?」
「ちゃんと眠れなかっただろ、ごめんな」
元気な時よりは眠れたはずよ、と笑いながら熱を測ってくれるナオ。三十七度二分。まだ少し高い。身体はかなり楽なんだけどな。時計を見る。午前十時。さすがに今日は仕事に行かないと。二度寝をする前にそろそろ起きなくちゃ。軽くナオの頭を撫で、ベッドから抜け出す。
「トイレ?」
「いや仕事行こうかな、と思って」
「ダメだよ、バカ」
「でも……」
「無理してすぐぶり返したらどうすんのよ」
本音を言えば、渡りに舟だ。ベッドの中から店に電話をかけて引き続き病欠だと告げる。ナオはそんな俺の様子をちゃんと見届けてから、台所で料理を作り始めた。
「ねえ、サンドイッチで大丈夫? それともおじやみたいなのがいい?」
「いや、サンドイッチがいい」
「了解。ごめんね、パンがちょっと余っちゃってて」
夜とはまったく違う後ろ姿。ふと「このまま一緒に暮らせたらいいな」なんてよぎっちまう。もう何年も付き合っている恋人みたいだ。
……違うだろ、ただ単に勢いで寝ただけだろ。
試しに自分をたしなめてみる。こんなこと、今まで何度もあったじゃないか。
でもこのままナオの家を出たら、また「マスカレード」で軽口を叩き合うだけの関係に戻りそうで、それはとても寂しい予想だった。身体がダメな時って、やっぱり精神も弱ってんだな。
手を伸ばしナオの煙草を取る。ベッドに腰掛けて火を点けると、その音に気付いたナオが「ダメ! 具合悪いんだから」と駆け寄って、俺の手から煙草を奪い取っていった。
数時間後、ナオが仕事へ行くタイミングで一緒に家を出た。熱は更に下がり、もう一回しとけばよかったなあと後悔するくらいには回復している。そしてナオの左手にはヘルメット。
「今日、スクーターで行くから」
「スクーター?」
「うん。天気がいい時は出来るだけ乗ってるの。ずっと放っておいたのに乗るのって怖いじゃない?」
そろそろ九月。蒸し暑さは真夏と変わらないが、夕方になる前の空は寂しい色をしている。マンションの外壁はレンガ色。夜遅くに来て一歩も外に出なかったから、初めてこんな色なんだと知った。理由は分からないが、勝手に白いマンションのような気がしていた。お待たせ、と駐車場からナオがスクーターを引いて出てくる。
「ごめんね、ヘルメットもう一個あれば駅まで送れたんだけど」
ううん、と言った俺の頭に浮かんだのは右田氏。彼はこの家に来たことがあるのだろうか。ナオの手料理を食べたり、このスクーターに乗ったりしたのだろうか。まだ、俺たちの間にはクリアにすべき事柄が残っている。もし今までどおりに戻りたいなら、クリアにする必要はない。散らかしっぱなしでオーケーだ。
「あのさ」
青いスクーターにまたがったナオが振り向く。面白いほど言葉がつっかかる。
「ん?」
昨日今日会った女だったら簡単に「付き合おっか」と切り出せるんだろう。宅配のピザの味や、歯が当たった時の音や、下着の感触や、ダークラムの匂いや、入れたときの激情や、アイスノンや、体温計や、青い蝶がとても懐かしい。数秒沈黙。もたもたしてたから、ナオに先を越された。
「明日の夜も会わない?」
驚いた。いや、もちろん嬉しかったけど、それよりも先に驚いてしまった。
「ああ、うん、大丈夫。また連絡するよ」
平気な素振りで返事をして、小さくなる青いスクーターを見送りながら考えてみる。そうか、別に改まって告白なんかしなくてもいいんだ。今みたいに「明日の夜会わない?」「うん」というやり取りが、何度も何度も積み重なればそれでいい。
――本当は見たくないものを見なければいけないのは辛い。
ああ、そのとおりだ。そして俺は辛いのは大嫌いだ。そうやって三十年間、やって来たんだ。今だってそう。本当はナオを呼び止めて、「付き合おっか」と切り出すつもりだった。でも、「いや、今ケン坊と付き合ってるから」とあっさりフラれるのが嫌だから、結局もたもたして何も言えなかった。
分かってる。本当は見たくないものを見なければいけないのは辛いって、こういうことだろう? じゃあ、その辛さを引き受けたらどんな見返りがあるのか教えてくれ。
ダメだ、やめとこう。自問自答を無駄だとは思わないが、病み上がりの今はパスした方がいい。やればやるほど心細くなるだけだ。俺はまだ二十九歳。こんなに卑怯な及び腰で、この先何十年もやっていけるわけがない。いつか痛い目を見るだろう。それが分かるから不安で心細い。
スマホで地図を確認しながら、見慣れない住宅地を歩いている。体調はほぼ元に戻ったみたいだ。自販機で買ったコーラが妙に旨い。あっという間に五〇〇ミリを呑み干した。それでもまだ足りない。顔をしかめて何度かゲップをした後、ふと安太を思い出す。いや、ちょっと違う。こういう時に浮かぶ顔が他にないだけだ。でも、どこかで期待している。安太ならこの心細さをどうにかしてくれそうだ。自分より卑怯なヤツに会えば、少しは気も紛れるだろう。
たしか最後に会ったのは、三軒茶屋のバーで美味しいモヒートを呑んだ夜。あの日は店を出てから一緒に世田谷線に乗り、俺は安太の家に行くことなく先に降りた。そしてあの次の日、冴子が家に来て失踪を手伝ってくれと言い出したんだ。妹が狂言失踪中だなんて誰にも言うつもりはなかったが、やっぱり王様の耳はロバの耳。腹に何かを抱えたままいるのは、身体に悪いような気がする。もし打ち明けるなら、相手はナオではない。安太がいい。
狛江駅のホームには学生たちがたくさんいた。男女半々。はしゃぐ姿を見ながらスマホを取り出す。安太に電話をしてみよう。次の電車が来るまであと五分。五分あれば余裕で打ち明けられる。
「妹がさ、失踪しちゃったんだよね。しかも狂言だぜ、狂言。まあ俺は兄貴としてサポートしてるんだけどさ」
これでいい。安太の答えや感想なんか聞きたくもない。ただ時間があれば、一杯付き合ってくれると有難い。大丈夫、病み上がりだから長くはならない。
電話をかけた。反対側のホームから電車が出発する。それに乗っている友達を笑わそうと、こっち側のホームを全力疾走してみせる坊主頭の学生。呼び出し音が七回鳴ったところで留守電に切り替わり、やっぱり俺は安堵した。
翌日、仕事が終わったナオと待ち合わせをして下北で食事をした。意外とヘルシーなんだから、と有無を言わさず焼肉屋に連れて行かれる。一年前くらいに出来たチェーン店。客は若い奴等が多い。あまり腹は減っていなかったが、焼肉屋なら自分のペースで食べられる。
「またタン塩いくの?」
「うん、他のはいいや」
「ま、病み上がりだからいいか。好きなだけ食べて。明日の朝はトーストとサラダでいい? ていうか今日泊まれるの?」
「大丈夫。明日、仕事だからちょっと早く出るけど」
「ごめんね、無理させて」
改まって何かを話すわけではない。肉を食べて「おいしいね」と言い合い、スマホで仕入れたニュースを相手に教え、互いにうろ覚えの昔話を披露して笑っているだけ。バーバラも右田氏も安太も、俺たちの話には登場しない。もちろん冴子もだ。まだあいつのことは誰にも話していないが、ナオに話すのは違うような気がする。実はあれから二回、安太に電話をかけたが出なかった。向こうからかけ直してくる気配もない。
絶対焦がしちゃうんだよね、と言いながらナオは野菜の焼き加減を確認している。その姿を見ながら、二人きりなんだなと思った。少なくとも今、俺たちの間には誰もいない。バーバラも右田氏も安太もいない。腕を伸ばせばすぐ抱き合える。二人きりの世界だ。
もう一軒どこかに寄ろうと話していたが、結局店を決めないまま焼肉屋を出てしまったので、そのままタクシーでナオの家に移動した。店では中ジョッキを四杯。最近呑んでいなかったからか、結構効いている。それでも呑み足りなければ、途中でコンビニに寄ればいい。
道が空いていたのか、ずいぶん早くナオの家の前に着いた。レンガ色のマンションの外壁、エレベーターが停まる時の大袈裟な音、あまり趣味がいいとは言えない緑色の通路。まだ二回目なのに、妙に懐かしい。
食べたばかりじゃん、と互いに笑いながら風呂場でした。している最中に「付き合ってほしい」と告げた。すんなり言えたのは、中ジョッキ四杯のおかげだろうか。それとも一緒に風呂に入っていたからだろうか。多分、どっちでもない。そういうタイミングだったというだけだ。
ナオは真顔になり、思わず萎えてしまったのを指で触りながら「よろしくね」と俯きながら呟いた。そして顔を上げて笑顔を見せる。心底ほっとした。照れ臭かったので、ふざけたふりをしながら何度も何度もキスをする。
発見だった。本当は見たくないものを見なければいけない辛さを引き受けたら、こんなに嬉しいことが待ってたりするのか。そいつは知らなかった。初耳だ。
でも――、と頭の片隅では思っている。
でも、別に安心したわけではない。いつだって確実に嬉しいことが待っているわけじゃないんだろう? 今回はたまたまなんだろう?
シャワーの飛沫に顔をしかめているナオと、その腕に留まる青い蝶を交互に見ながら俺は自分に言い聞かした。
絶対に油断するな、油断したら寝首を掻かれるぞ。寝首を掻くのはナオじゃない。そいつがどんな奴なのか、性別も、名前も、姿格好も知らないが、目の前のナオじゃないことは分かる。今はそれで充分だ。
俺たちは週三くらいのペースで会うようになった。
場所は下北。二人とも仕事が終わった後に会うので、一軒どこかで食事をしてからタクシーでナオの家へ、というのがいつものコース。もちろん俺の家の方が近かったが、誰かを家に入れるのはどこか抵抗があったし、ナオも何も言わなかった。
冴子のことを忘れていた訳ではないが、ナオと付き合うようになってからは深く考え込んだり、苛立ったりはしなくなった。失踪期間は三ヶ月と言っていたが、それが伸びたとしてもきっと俺は怒らないだろう。今ならそう確信できる。
クラブの便所でナオとぐちょぐちょやったあの夜以来、冴子から連絡はない。親からもないところを見ると、あいつの目論見は正しかったようだ。今頃親は俺のことを、女の家からなかなか帰ってこない馬鹿野郎だと思い込んでいる。まあ、週の半分はナオの家に泊まっているから、あながち間違いじゃないか。
いつもナオの家に泊まった次の日は寝不足気味だったが、仕事に支障が出るほどではない。ナオは前から興味があったからと料理の本をちょくちょく買ってきては色々と作るようになり、俺は体重が少し増えた。
今日、仕事の帰りに待ち合わせて行ったのは、ナオのリクエストで神楽坂の中華料理店。雑誌に載っていた店らしい。麻婆豆腐が好みの味で思わずおかわりをした。
「ねえ大丈夫? 結構量あったよ?」
「俺、まだ全然いけるわ」
「じゃ、私も美味しいのが作れるように練習しとかなきゃだね。麻婆豆腐」
そんな他愛もない会話をしながら二皿目を待っている時、冴子から久しぶりにメールが入った。
お兄ちゃん、元気?/失踪して一ヶ月ちょっとが過ぎました/私は楽しく安全にやってるんで安心してください
また気が抜けるような内容だ。大事なことが何ひとつ書いてない。でも苛立たなかった。目の前にはナオがいる。だからもういいんだ。
「なあ、ちょっと聞いてくれるか?」
コップに残ったビールを一息で呑み、ナオに冴子のことを全部話した。紅葉の掌から狂言失踪まで、全部。
「何だか妬けるなぁ」
これが話を聞き終えたナオの第一声。俺は俺で打ち明けたら何だか気持ちが落ち着いた。王様の耳はロバの耳。やっぱり腹に何かを抱えたままいるのは身体に悪いみたいだ。それともう一つ、打ち明けた勢いでナオに頼んでみる。冴子が失踪した本当の理由を一緒に考えてもらいたかった。ハイお待たせいたしました、と店のオバサンが麻婆豆腐を持ってくる。いい匂いだ。まずはこれを食べちまおう。
「うーん、何て言ったらいいのかな……。あのね……」
その年齢の兄妹がそんなに仲がいいのは珍しい、と様々な言い回しでナオは伝えてくれた。でも俺が知りたい失踪の理由についてはダメ。「想像もつかないなあ」と言ったきりだった。
結構二人とも呑んだくせに、わざわざ下北まで戻って一杯だけバーで呑んだ。俺は店を出てから、これから家に来ないかと誘った。驚いた顔で「いいの?」と聞き返すナオの手を握り、タクシーに乗り込む。もういいんだ、と俺は声に出さずに呟いた。冴子のことを打ち明けた以上、ナオを家に呼ばない理由はないような気がする。
タクシーに乗っている時から物珍しそうに景色を見ていたナオは、部屋に入ってもあれこれ見回していた。歯を磨いている俺に、質問を浴びせ続けるナオ。
この本全部読んだの?
洗濯機は外に置いてあるの?
収納はこれだけ?
家賃は?
日当たりは?
背を向けたまま、歯ブラシをくわえてモゴモゴと答えている俺に「この写真は?」という質問。振り返ると、いつか冴子が壁に貼っていった写真を指さしている。酔いつぶれて寝てる俺と、その隣でおどけているあいつのツーショットだ。うがいを済まして「さっき話した妹」と答える。
「あのさ……」
焦ってるような不安がっているような、とにかく妙な表情に変わるナオ。足元から嫌な空気が立ち昇ってる。多分、悪い話だ。
「何だよ、言えよ」
自分でもドキッとするほど棘のある声になっちまった。
「思い違いかもしれないんだけどさ……」
首からかけたタオルで唇の廻りを拭う。きっと俺は今、とても怖い顔をしている。
「少し前、うちの店に来たよ」
何だ、そんなことか。一気に緊張が解ける。冴子は子どもじゃない。もう大人だ。喫茶店にいても全然おかしくない。
「何言ってんだよ、あいつだってマスカレードくらい行くだろう? 別にただの偶然じゃないか。もうあいつも二十六歳だぜ? ひとりでいろんな店に入ってもおかしくないって」
ちょっと早口だったが、なんとか言えた。でも、そんな薄っぺらな安心は、ナオの申し訳なさそうな一言ですぐに破れちまう。
「ごめん、違うのよ。聞いて」
「?」
「あのね、その時、ホンマさんも一緒だったのよ」
一気に胃が痛んだ。立ち昇っていた嫌な空気がふたりの世界に充満する。ホンマ、は安太の苗字じゃないか。
(第12回 了)
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