世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
十三、脳は揺れている
ナオは服を脱いだ。
焼けた肌が徐々に露わになり、見慣れた裸が現れた。いつも指の腹で触れている乳房や、わざと乱暴に噛んで引っ張る毛や、ちらっと見え隠れする青い蝶。見慣れているはずなのにどこか遠い裸をじっと眺めていた。ナオはゆっくりと歩み寄り、ぼんやり立っている俺のシャツを丁寧に脱がす。抵抗する気はない。されるがまま壁に押し付けられる。冷たい。すぐ鳥肌が立った。ナオはそんな上半身をスローな動きでぎゅうっと抱きしめる。
(ホンマさんとあなたは仲がとてもいいので、あなたの妹とホンマさんが一緒に食事をしているのはそんなに変なことではないのかもしれないけれど、その時の二人の雰囲気は知り合い以上のものだったので、さっきあなたにそのことを伝えようかどうか迷ってしまった)
そんな内容を耳元でゆっくりと囁くナオ。子供を寝かしつけるように肩をポンポンとしてくれたので、俺の苛立ちは一線を越さなくなっている。頭のいい女だな、と感謝した。俺はこれ以上取り乱したくなかったし、そんな姿を見られたくもなかった。
分かっている。ついさっき俺が発した刺々しい言葉のせいで、この部屋の空気はひどい有様だ。なんで安太だと言い切れるのか、とナオを怒鳴りつけてしまった。
「あいつのこと、そんなに知らないだろ?」
あれは口論のテンションではない。声が裏返っていたかもしれない。それほど動揺していた。でもボロボロではない。冴子のことを突っつかない程度には冷静だった。
「たった今写真で見たばかりなのに、どうして妹だって決めつけるんだよ」
そんな風に言わなかったのは、更に取り乱しそうだったから。俺とナオ、ふたりの世界は案外脆い。安太が現れただけでもう潰れそうだ。とてもじゃないけど、冴子のスペースまで確保できない。
(あなたはホンマさんと妹がそういう関係、つまり恋人同士だったりしたらどう思うのか)
耳元の囁きは、まるで俺を叱っているみたいだ。そんな言葉、聞きたくない。俺はガキみたいにイヤイヤをして、ナオの腕から逃れた。
「二人とも子どもじゃないんだから、本人たちの自由だって言いたいんだろ」
俺の声にはまだ熱が籠っていて、ナオはどうにか鎮めようと再び抱きしめる。ナオの乳房が俺の胸に押し付けられ微妙に歪んだ。いつもの匂いがする。喩えることが難しいナオの匂い。思わず欲情しそうになり、実際身体は反応しちまった。それに気を取られているうち、また苛立ちは治まってくる。
(当人たちの自由、ということであなたは納得できないだろうし、それは当然だと思う。同じ立場なら私も戸惑うだろう。私の思い違いという可能性もあるのだから、分かりうる範囲で二人がどういう関係なのかを考えてみてほしい)
耳元の囁きの芯の部分だけを噛みながら、ずっとナオの乳房だけを見ていた。今、大切なのは落ち着くことだ。熱い状態のまま処理できることなんて何もない。
「ちょっと待ってて。ちゃんと考える」
間抜けな声だったが、ナオはエライエライと首筋を撫でてくれた。俺は多分褒められて伸びるタイプだ。
「何度も悪いんだけどさ、それ、本当にあいつだったんだよな?」
「うん。だってホンマさんって、昔から変わらないじゃん」
予想外の答えだった。安太は昔から変わってないのか。あまり感じたことはないが、言われれば確かにそんな気がする。ダメだ。こうやって少しずつ揺らいでしまう。結局俺だって安太のこと、何も知らないんだ。
あの三軒茶屋で美味しいモヒートを呑んだ夜を思い出す。最後に会ったあの夜、安太はバーであまり喋らなかった。展覧会の打ち上げなんだろうと俺は気にしなかった。帰り際、世田谷線に乗る前に安太は何か言いたげな顔をしていた。俺が珍しく一軒だけであっさり帰るからあんな表情をしているんだと思っていたが、そうではなかったのか。あの時、安太は何かを俺に伝えようとしていたのか――。
ナオの指が俺の髪を梳いている。自分の鼓動とナオの鼓動の区別がつかない。いつ頃ナオは二人を見かけたんだろう。なあ、と声をかける。
「一緒に来たっていうのは、具体的にいつ頃?」
俺の声は自分でも分かるほど落ち着いていた。もう熱は籠っていない。
(たしか私が途中で店を切り上げて、一緒にクラブへ行った日の少し前だと思う。あの日より後なら、きっとあなたに伝えているはず。ホンマさんと仲がとてもいいのは知っているのだから)
ということは、安太の展覧会が終わって、冴子から失踪を手伝ってほしいと頼まれた頃だ。その二つには何か関係があるのだろうか? 分からない。今はどれだけ考えても無駄だ。もっと他に訊くことがある。
「ふたりとも酒呑んでた?」
(そういう細かいことは正確に憶えていないけれども、私が知り合い以上の関係だと考えたのだから、多分どちらもお酒を呑んでいたと思う)
楽しそうに食事をしたり、酒を呑んだりしている安太と冴子の姿を想像したら、目の裏とこめかみの辺りが痛くなった。まるで俺が頭に描いた映像を覗き見ていたように、ナオは俺の肩に手を載せて再びポンポンと叩く。子守唄のリズムだ。怒っちゃだめよ、怒っちゃだめよ、怒っちゃだめよ、怒っちゃだめよ。そう聞こえる柔らかいリズム。
やっぱりその時期に二人は知り合ったのだろうか。それとももっと前から知っていたのだろうか。もしかしたら、安太の部屋に女を連れ込んでぐちょぐちょやっていた頃、すでに知り合っていたのだろうか? 分からない。
恐ろしい映像が一瞬見えた。テレビの放送事故のような生々しくて不快な映像。
「勘弁してくれよ」
思わず声に出た。ナオは病人をそうするように俺を布団へ寝かせ、隣に横たわって再びゆっくりと抱きしめてくれた。
(あなたは妹の失踪とホンマさんの存在は何か関係があると思っているんでしょう)
俺は頷いた。また恐ろしい映像が見える。さっきとは違って放送事故なんかじゃない。ちゃんとした正規の映像だ。冴子が安太の木造アパートの階段を昇っている映像。俺が何度も安太と上り下りした階段。赤茶けた汚い手摺りで、段と段の幅が狭すぎて危なっかしいあの階段。
軽く吐き気がした。気持ち悪い。ナオは身体をよじらせて乳房を俺の口元に近付けた。誘われるまま唇で挟む。
(あなたの考えが正しいかどうかは分からない。今、それを調べたりする方法はないのだから、今夜はゆっくりと休んで明日また考えたり悩んだりしましょう。もし私に出来ることがあれば、何でも言ってほしい)
俺はそういう意味の声を聞きながら眠りに落ちた。夢など見ないことを祈りながら、ただただ落ちていった。
ナオが料理をしている気配で目が覚めた。時間は八時過ぎで、俺は上半身裸。昨日はあのまま眠っちまったんだ。
夢を見なかったのは有難かったが、かといって状況は変わらない。この胸にわだかまる不快感は昨夜のままだ。てっきりナオの部屋だと思っていたが、蛍光灯の形で自分の部屋だと気付く。そうか、初めてナオを連れてきたんだったな。水が飲みたくてベッドを出ると、台所に立っていたナオが振り返った。
「ごめん、勝手に借りてるよ」
「何も材料なかっただろ」
「うん、だからさっきそこのコンビニで買ってきた」
冷蔵庫を開けてペットボトルの水を取り出す。納豆、卵、豆腐が追加されている。もう少しで出来るから待っててね、というナオに礼を言ってベッドに戻った。
頭の中で予定を確認する。今日は仕事だ。本当だったらドタキャンしてナオとどこかへ遊びに行きたい。昨日の続きを考える前に全てを忘れて楽しんでしまいたい。けど、こんな調子じゃ無理だろうな。きっと中途半端になってしまう。
それにしても昨日はナオに助けられっぱなしだった。感謝してもしきれない。怒った男を鎮めるのは、正しい理屈でも美味しい料理でもなく女の裸なんだ。もし、冴子と安太がそういう関係だったとしても、ナオさえいてくれれば、どん底までは落ち込まないだろう。
「もう支度出来たけど食べれる?」
「食べる食べる。何だか腹減っちゃって」
「昨日、あんなに食べたのに?」
「え、何食ったっけ?」
「麻婆豆腐、おかわりしてたでしょ」
そうだ。昨日は神楽坂の中華料理店に行ったんだ。たしかに麻婆豆腐は美味しかったけど、それを忘れさせてしまうほどの衝撃があった。まだ脳が揺れている。
御飯、納豆、豆腐の味噌汁、目玉焼き、という旅館みたいな朝食だった。食べ終わって一服しながらナオが後片付けする音を聞いている。
昨日のことが嘘のように落ち着いた気分だ。このまま二人で遊びに出かけてしまえば、全部なかったことになりそうな気がする。釣り堀にでも行ってのんびりしようか。帰りには焼肉にビール。それでいいじゃないか。
頭が良くて左腕に青い蝶を彫った女が朝食を作ってくれる。それでいいじゃないか。
でも、と宙を仰ぐ。やっぱりダメだ。あの言葉がしつこく蘇ってくる。
――本当は見たくないものを見なければいけないのは辛い。
まただ。また思い出しちまった。ナオが目の前に座る。
「さぁ、どうする?」
優しい顔してんだな、と今更ながら気付く。
「そうだな……」目の前で俺の言葉を待ってくれる人がいる。「今日はちゃんと働くよ」
よくできました、という感じでナオは微笑んだ。
「うん。働いてた方が気が紛れるよ」
そんな一言だったが気持ちは軽くなった。やっぱり俺は褒められて伸びるタイプだと思う。
俺が家を出るタイミングで、ナオは狛江に帰った。一度着替えてから「マスカレード」に行くらしい。あの件に関して改めて話すことはなかったが、直接連絡を取るかどうかは訊かれた。
「いや、別に考えてないけど」
「どっちにも?」
「うん。どっちにも」
そう言った俺の目を間近で見つめながら、「あのさ、早まったらダメよ」とナオは呟いた。きっと大丈夫だと思う。俺にそんな勇気はない。もし悪い予感が当たっちまったらどうするんだ。もちろん言葉にはしなかったがナオには伝わったらしく、そうそうそれでいいのよという感じで頷いてくれた。
俺は上半身裸、ナオは全裸のまま朝まで一つの布団で寝ていたが、別に何をすることもなかった。何て言うか、そういう気分には到底なれなかっただけだ。バイアグラのジェネリックはあるけれど、あれを使ってもダメだったような気がする。俺は意外とデリケートなのかもしれない。
別にやらしい気持ちにはならなかったが、明け方、薄闇の中で見た青い蝶は綺麗だった。神々しいなんて言うと大袈裟だけど、何か特別な力が宿っているように思えて心の中がしんと静まり返った。もう少し部屋の中が暗かったら、きっと拝んでいただろう。こうなればいいのに、という願望はない。何も起こらないでほしいと願っているだけだ。
働いてた方が気が紛れるよ、というナオの言葉は本当だった。そして都合よく今日の「フォー・シーズン」は忙しかった。安藤さんによると、雑誌の古着屋特集で取り上げられたらしい。前にもそれで客が増えた時期がある。
余計なことしやがって、と普段なら文句を言っているはずだが、今日に限っては大歓迎だ。余計なことを考えたくないので、ただ黙々と働いていた。そのせいか足腰が痛い。そんな俺を見て安藤さんは「具合でも悪いんですか?」と真顔で尋ねてきた。これも日頃の行いのせいだ。まあ仕方ない。今朝だってドタキャンして遊びに行こうかと考えていた。でも出勤して正解。気付けば閉店時間になっていた。
帰りの清掃をしながら気付いたことがある。最近安藤さんの服装が変わった。前はパンツスタイルが多かったが、スカートやワンピースの割合がぐんと増えた。今日も丈の長いデニムのスカートを履いている。そういえば髪も伸ばしているようだ。ああいうのが店長の好みなのかもしれない。
帰りがけ、少し迷ったが「マスカレード」には寄らなかった。店の近くを通りながら、今日は寄らないとメールで告げるのは変な感じだ。ナオからの「気をつけて帰ってね」という返信を読みながら、「大金星」に足を向ける。どうやら今日も盛況だ。
いらっしゃいませ、と出迎えてくれたバイトのマドカちゃんに大瓶とポテトサラダを頼みながら、安太の姿を探すが見当たらない。奥に陣取っているいつもの顔触れに最近来るかと訊いたが、誰も見かけた人はいなかった。店主のキンさんも「いやあ、最近見てないよ」と言う。そうですかあ、と答えた俺を「なんか用があるのか?」「連絡先知ってんだろう?」「駒場のコンビニなら確実だぞ」とみんな普段どおりに構ってくれる。これはこれで心地いい。
ポテトサラダを半分たいらげ大瓶を一本空けた頃、ナオが言っていた「ホンマさんって、昔から変わらないじゃん」という言葉を思い出し、みんなに訊いてみた。軽めの市場調査。そういや確かにそうかもしれないなあ、という焼き鳥屋のコウさんに周りも同調する。なるほど、どうやら安太は昔と変わらないらしい。ナオの感覚は間違っていなかった。あとでちゃんと報告してやろう。
ワダテツの「だってストレスまったく無さそうだもんなあ」という言葉にみんな笑い、「ストレス無いヤツは老けないし、とにかく長生きするんだぞ」と誰かが付け足した。あいつは世に憚るタイプだな、とオチをつけたのはキンさんだ。
その後はだらだらと二本目の大瓶を呑み、残りのポテトサラダにドボドボとソースを垂らした。遅れてやってきたトミちゃんは「次の公演のポスター、帰りに貼っていっていい?」とマドカちゃんに訊いている。見かけない顔の若い男は、さっきから真剣な表情でスマホのゲームに夢中だ。店内はいい具合にだらしない。俺ももう少し呑めば酔っ払う。昨日の夜、突然目の前に現れたあの件も忘れられそうだ。
ふとスマホが震えた。短いバイブレーションはメールだ。多分ナオからだろう。どうしよう。会いたい気持ちはあるが、会えばきっとあの件と向き合うことになる。それは避けたい。俺は気付かない振りをしてトミちゃんに話しかけた。
「次の公演っていつ?」
「あと二週間くらいかな」
トミちゃんはチケットを買ってとねだるようなことはしない。呑んでる時まで営業したくないわよ、とよく言っている。俺は一度も観に行ったことはないが、みんな一度はチケットを買っているらしい。
「次はどんな役やるの?」
何気なく訊いた俺にすっと近付き、「私、見ちゃった」とトミちゃんが囁く。え? と問い返すより早く「マスカレード」と続けた。どうやらナオと一緒に歩いているのを見られたらしい。
「大丈夫大丈夫、私、口堅いんだから。っていうか、別に隠してないの? オープン?」
少し考えてから「オープンなんだけど、もう少し待って」と言うと、「了解了解」とトミちゃんは元の位置に戻った。自分で言ったくせに、何をどうして待つのかははっきりしない。ただ、あの件をどうにかしない限り落ち着かないのは確かだ。
次は何を頼もうかな、と残りのビールに手を伸ばした瞬間、またスマホが震えた。長いバイブレーションは電話だ。ナオのヤツ、緊急かな。急いで画面を確認すると「右田」の二文字。一瞬、誰か分からなかったのも、多分あの件のせいだ。まだ脳は揺れているらしい。
(第13回 了)
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