世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
八、波は穏やか
バーバラのいとこ違い、それが忰山田進、通称餃子耳の正体だった。イトコチガイ? と訊いた俺に安太は「色気狂い、って聞こえるよね。完璧に初耳ワード。ええとね、バーバラのいとこの子どもなんだって」と紹興酒を飲み干した。甕出し七年、一升六千円。台湾から帰国してすぐ台湾料理の店に来なくても、と思うが俺の金ではないから黙っている。
ここは道玄坂にある高級料理店。トラブル解決の御礼で連れてきてもらった。なぜだか安太は羽振りがいい。金の出所を訊きたかったが、それは注文した九千円のコースを全部食い終わってからにしよう。飯の最中に金の話はしたくない。
「本当に今回はありがとう。助かった」
「その後、何にもないの?」
おかげさまで、と軽く笑った後、少し声を潜めて安太は核心に触れた。
「で、どんな手を使ったの?」
そうだなあ、とすぐに答えなかったのは勿体ぶったわけではない。何から話していいのか分からなかったからだ。
「もしかして、結構かかった? お金」
すぐに浮かんだのはミンちゃんとの夜。鶯谷でのコミコミ二万円だが、あれは直接関係ないし、そもそも右田氏本人が金はいらないと言っている。つまりは経費ゼロ。ただ、それも何となく違うような気がしたので、「別に大した額じゃなかったから」と一応濁しておいた。
ちなみに「忰山田」という苗字はやはり珍しく、全国でも数世帯、しかもほとんどが群馬県内だという。
「ちゃんとした家なんだろ?」
「どうして?」
「バーバラの雰囲気で何となく」
地方の名士って感じかな、と安太はまた紹興酒を飲み干した。本当に旨いから、と勧めてくれるのは有難いが、俺は断ってビールを頼んだ。元々味があまり好きではない。
そういえば、まだ台湾逃避行の詳細を聞いていなかった。「面白かった?」と訊くと、安太はいきなりあの夜の話を始める。俺が電話をかけて「忰山田進」の名前を伝えた夜だ。あの後が大変だったという。
「そりゃ、自分の色気狂いが脅迫してるんだから焦るだろ」
「イトコチガイね。まあ、それもそうだけど、メインはそっちじゃなくてさ」
バーバラが取り乱したのは、色気狂い、ではなくイトコチガイがそんな行為に及んだ原因――つまり、四年前に安太が当時二十二歳のモエカ嬢とコンビニ店内であれやこれやしていた件にあった。そんな破廉恥なことをして、というわけだ。四年も前の話だし、そもそも自分だって色々あるくせに、というのは品性下劣な連中の身勝手な論理らしい。
「だから台湾最後の夜は散々だったってわけ」
「電話、かけなきゃよかった?」
「いや、早いに越したことないから感謝してるよ。だからお土産も買ってきたんだ」
定番中の定番、何のひねりもないパイナップルケーキ二十四個入りだったが、まあ役に立ったならそれでいい。餃子耳のイトコチガイは、即親族から呼び出されて厳重に注意を受けたらしい。相手は一応半半グレ、そんなの効き目あるのかよ。そんな俺の表情を読み取った安太によれば、毎月相当額の仕送りを貰っているらしい。確かにライフラインを断ち切ってまで、安太に嫌がらせをするのは割が悪い。
「お土産、サンキュー。で、バーバラとは仲直りしたの」
「いや、一応関係解消ということで」
え、と顔を上げた俺に安太は微笑む。「いいのいいの、縁があればまた連絡くるでしょ」
その素っ気ない言い方に閃くものがあった。多分、合ってる。
「もしかして、手切れ金……」
「惜しい惜しい。貰ったのは慰謝料。色気狂いが迷惑かけたからって」
イトコチガイね、と言い直すのも馬鹿馬鹿しい。御馳走されている手前、文句も言えやしない。表情から察するに、結構な額だったような気がする。今日の会計もざっと三万円。羨ましさがないわけではない。そもそも誰のおかげで、という気持ちもある。だから帰り際、「大金星」で見たフライヤーのことをストレートにぶつけてみた。
「今度、やるんだって? 展覧会」
「ん? ……ああ、まあね。断れなくって、つい」
「もう出来てるの? 絵」
「いや、台湾行ってたからまだ全然。これから頑張って間に合わせるよ」
本当に描いてて、ちょっとがっかりしたよ――。
それくらいかましてやろうと思っていた。でも言わなかったのは、「タクシーで帰ろう」と提案してくれたからだ。ありがたい。電車で帰るのは面倒だが、それ以上に今夜は蒸し暑い。
タクシーの後部座席に並んで座った俺たちに会話はない。俺が尋ねたことはひとつだけ。「今年の夏、暑くなるのかな?」
みたいですねえ、と答えたのは初老の運転手だった。
多いと思っていた二十四個のパイナップルケーキだったが、結局半月で食べ終わってしまった。長かったような短かったような二週間、俺は黙々と働いていた。理由は単純。餃子耳、もといイトコチガイの件で疲れていたし、気付けば金がなかった。しばらく集中して稼いでおこうと、絵を急ピッチで仕上げている安太には連絡をしなかったし、フラフラと外で呑むこともなかった。家でも禁酒。半端に呑むと全部ダメになるからだ。
ナオにも会わなかったが、右田氏には電話をした。無事解決という結果を伝えたが、「ああ、よかったですね」と妙に素っ気ない。ミンちゃんのことも聞きたかったが叶わなかった。肩すかし。その後、彼女の番号にかけてみたが、留守電になるばかりで本人が出ることはなかった。
そしてあの日のタクシーの運転手の予言どおり、今年の夏は暑くなりそうだった。まだ六月下旬なのに汗ばむ日が多い。もしかしたら、普段より身体を酷使したからそう感じるのかもしれない。
古着屋「フォー・シーズン」が休みの日に、日払いのバイトを入れたのは手元に金がなかったから。給料は翌月にならなければ振り込まれない。学生時代から日雇いといえば工事現場。今回、業務内容は清掃が多くて楽だったが、参ったのはその場所だ。中央線阿佐ケ谷駅徒歩五分。実家にずいぶん近かった。
もちろん親に連絡などするはずもないが、妹にだけはメールを入れておいた。
この間はサフランライスをありがとう/ちゃんとカレーは作ったので心配なく/ここ最近、阿佐ヶ谷の近くで働いているので、タイミング合ったら夕飯でもどう?
あれ以来、妹は家に来ていない……はずだ。鍵を渡しているから、本当のところは分からない。案外俺が働いている時、あの家でのんびりしているのかもしれない。
妹の冴子とは三歳離れている。
昔からずっと仲は良かった。理由は簡単、あいつが可愛らしいからだ。外見も中身も可愛い女の子は、周囲から可愛がられて育つ。父からも母からも友人からも、当然兄からもだ。
高校生の頃、親のスネを齧りながら粋がっていた時でも冴子とは普通に話が出来た。当時の出来事でひとつ忘れられないことがある。
クラブで以前揉めた他の高校の連中に見つかって、俺はこっぴどくやられた。一対三。しかもトイレの中で。最悪だ。
店員には気付かれなかったので学校にばれる心配はなかったが、服は汚れて血も出ている。早く帰りたかったが、厄介なのは両親だった。どうにかうまく自分の部屋に戻りたいけれど、家の構造上、それは無理。頼みの綱は冴子しかいない。
あいつは中学生でまだ携帯を持ってなかったから、午前一時、クラブの前にしゃがみこみ、祈るような気持ちで家に電話をかけた。もし親が出たら切ればいい。その時はまた次の手を考えるしかない。結果、冴子が出た。しかもワンコール。思わず冷たい道路に寝そべり、天を仰ぎながら感謝した。もちろん神に、ではなくよくできた妹に。
着替えを用意してもらい、血の付いた服は次の日にこっそり洗濯してもらった。耳の裏の傷の手当ても頼んだ。幸い目立つ場所に怪我はなかった。後からワンコールの理由を訊いたら、「ただの偶然だよ、お兄ちゃん、運いいね」って笑っていたが、あれは多分嘘だ。あいつは俺からの連絡を待っていたのだと思う。
大学進学が決まった翌日から物件を探して、念願の一人暮らしの準備を始めた。引越し用の資金は、もちろん親持ち。味はしないが栄養たっぷりの親のスネ。
最初は遠くの知らない街を考えていたけど、結局実家から歩いて二十分くらいの場所に決めた。地下鉄丸ノ内線南阿佐ヶ谷駅の近くのワンルームマンション。どうして実家の近くにしたの、と周りからは不思議がられて、その度に「色々便利だから」と答えていた。でも、本当の理由は違う。高校進学目前の冴子が「近くにしなよ」と言ったからそれに従った。
「どうせあまり家には帰らないんでしょ? 私が綺麗にしといてあげるからさ、近くにしなよ。ちゃんと掃除しとかないと虫とか出るよ」
返す言葉はなかった。俺は小さい頃から虫が大の苦手だ。
あいつの予想どおり、大学に入ってから生活のリズムは更に乱れ、家に帰らない日も増えてきた。そうそう、安太に会ったのもその頃だ。
実際に冴子は何だかんだ理由をつけては家に来た。高校からの帰り道、阿佐ヶ谷駅の改札を出て左に曲がれば自分の家。右に曲がれば兄の家。まるで別荘ができたみたい、と笑っていた。俺の家で何をするかといえば、お互い好き勝手にただ本を読むだけだ。
俺にはこれといった趣味がない。音楽は詳しくないし、映画は嫌いだし、スポーツはまあまあ。所謂「趣味・特にナシ」。ただそんな俺でも、本だけはまあまあ読む。読書家なんて柄ではないが、小さい頃から本を読んでいると退屈しない。あまり内容を覚えてないから、もしかしたら活字を目で追うのが好きなだけかもしれない。俺は日本のしか読まないが、冴子は向こうのばっかりだ。
当時も合鍵を渡しておいたから、夜遊びをして始発で帰るとよく料理が作ってあった。実家にいる頃から、あいつの料理は食べ慣れている。
冴子は大学に入ってからも、変わらず近所の別荘、即ち俺の家にやって来た。あいつは昔からボンクラ兄貴と違って勉強ができた。運動もまあまあできた。ギリギリ文武両道。そういえば俺の卒論は、ほとんどあいつに書いてもらった。
「お前さ、社会勉強だと思ってさ、もうちょっと遊んだ方がいいんじゃないか?」
「何言ってんの。お兄ちゃんが私の分まで遊んでくれてるからいいのよ」
こんなやり取りを何度交わしただろう。
俺は大学を卒業してフリーターになった。そう言えば聞こえはいいが、ちゃんと就職しなかっただけだ。その日暮らしにも満たない。ただ生きていただけ。相変わらず生活は乱れっぱなし。その頃からあいつが酒に付き合ってくれるようになった。
社会勉強の一環だから、と知っている店に連れて行く夜もある。決まってあいつの評判は上々だ。「兄貴と違っていい妹さんじゃないの」とか、「本当に綺麗な顔をした子ね」とか、「しっかりしてるから、妹じゃなくてお姉さんに見えるぞ」とか。そうやって褒められるのが嬉しくて、できれば何軒でも呑み歩きたかったけど、あいつは違った。
「早く帰って家でゆっくり呑もうよ。お兄ちゃんもさ、部屋なら好きな時にすぐ寝れるでしょ」
家で呑む時の光景はすぐ浮かぶ。あいつは壁に寄り掛かって、砂糖水みたいな缶入りのカクテルばかり呑んでいた。どう見ても呑み過ぎている時は、俺が自宅まで送ってやった。
ある日、いつものように始発で帰ると壁に写真が一枚だけ貼ってあった。つぶれて眠りこけている俺と、その隣で舌を出しておどけている冴子。あの写真、どうしたかな。たしかこの家に越した時に持ってきたはずだけど。
働きづくめの二週間が終わっても、冴子からメールの返事はなかった。気にならないわけではなかったが、あいつももう二十六歳。立派なオトナだ。勤務先は本屋。最近はなかなか本が売れないから……、違う。思い出した。去年の暮れ、あいつは退職していたんだ。正月におせちの残りを持ってきてくれた時、天気の話をするみたいに「そういえば、やめちゃったんだよね」と微笑んでいた。四年前に就職が決まった時、「お前くらいの頭があれば、もっとデカいところに勤められただろう」と言って、「お兄ちゃん、就活したことないでしょ」とたしなめられたことを思い出す。たった四年前なのに遠い昔のようだ。
もうどこかで働いているのか?/臨時収入があったから、何か美味いものでも食べよう
嘘までついてもう一度あいつにメールをしたのは、何となく引っかかるものがあったから。臨時収入なんてない。予定どおり現場で働いた分を、その日払いで貰えただけだ。
それでも連絡は来なかった。心配していないわけではないが、実家暮らしだからまあ大丈夫だろう。だったらと、久々安太に連絡をしたかったが、あの「異種交配」という展覧会の期間中だったので、それが終わるまで待つことにした。よく分からないが、今この時期が安太にとって正念場なんだろう。そこに触れるのは避けたかった。うまくいえないが、俺がただがっかりするだけのような気がする。
さあ、大袈裟にいえば八方塞がり、ドラマチックに盛り上げるなら四面楚歌だ。こうなると足が向くのは自然とホーム・グラウンドになる。まさかここもダメじゃないだろうなあ、とナオが働いているはずの「マスカレード」のドアを開けた。仕事帰りの午後六時、ナオは「おお」と目元だけで微かに驚いてくれた。これでいい。余は満足、ってヤツだ。
「どうしたの? 何か久しぶり」
「うん、貧乏暇ナシだから仕方ない」
「でも来てくれたってことは夏のボーナス?」
「だったらもっと色っぽい店に行くよ」
最近御無沙汰だった馬鹿話を肴にハイネケンを飲む。右田氏のことが気にならないわけではなかったが、何かあればナオから切り出すだろうと、あえて何も訊かなかった。そう、会わないなら会わないでいい。どんなに遠くにいても、極論死んでいても構わない。
半月振りのアルコールは予想外に効いた。ナオの「顔、赤くなってるよ」という言葉に甘え、ハイネケンをお代わりする。
「なあ、臨時収入あったからさ、近々旨いものでも食べにいかない?」
アルコールの威力は絶大だ。普段なら妙に躊躇するはずの、そんな言葉だってするりと出る。
「じゃあ、暑くなる前に連れてってもらおうかな。今年の夏はかなり暑いらしいからさ。私、暑いのだけはムリ」
そんな言葉を肴に二杯目を飲み干し、何も考えずに「大金星」へと向かった。揃っていたのはいつものメンバー。「生きてたのか」「足があるか確認しろよ」「そうだ、これは幽霊かもしれないぞ」等々乾杯代わりの洗礼を受けながら、徐々に溶け込んでいく。俺が顔を出すまでの話題は……「異種交配」。安太が参加している、現在開催中の展覧会だ。
「いやあ、今さっき行ってきたよ。あいつがどうこうじゃなくて、ウチもほら、ビラを置いている責任感があるからさ」
喋るワダテツの横顔を見ながら、俺はそっとウーロン茶を頼んだ。これ以上は悪酔いする。
「まあ、そりゃ見たよ。あいつの絵。何とかって小説をモチーフにしてどうのこうのってヤツ」
本当に正念場だったみたいだ。連絡しなくて正解だ。ここをくぐり抜けた後、また御馳走してもらおう。あの感じなら手切れ金、じゃなくて慰謝料、まだ残ってるはずだ。
「正直よく分からなかったけど、でもイヤじゃなかったよ。まあ、ある意味エライっていうかシアワセっていうか……」
頃合いを見つつ、トイレに行く振りをして店を出た。今夜もまた蒸し暑い。そういえば日本の南海上で台風が発生したと、朝のニュースでやっていた。
ここ最近、色々なことが中途半端で肩すかしだ。一見、波は穏やかだが、それを信用できない気配はある。
できれば何事も起こりませんように――。
そう祈りながら見慣れた商店街を歩く。久々とはいってもハイネケン二杯。とっくに酔いは醒めていた。
(第08回 了)
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