Interview:マルク・カエージャスインタビュー(2/2)
マルク・カエージャス:作家、劇作家。1974年バルセロナ生まれ。ロンドン、サンパウロ、カラカス、ボゴタ、ブエノスアイレスなどの都市を住み渡り、ノマド作家として主にサイトスペシフィックな演劇作品を発表。カントリーハウスの廃屋で、世界中の道で、あるいは街の1地区の4箇所を巡りながら作品を上演し、特にボルヘス、ヴァルザー、D・F・ウォレスの文学作品を引用した演劇作品で知られる。ボラーニョの『2666』第一章を劇作化した『批評家たちも泣くことがある』で初めて職業作家たちを俳優に起用、世界各都市で公演。劇場作品には『作家の胃袋』(CCCBバルセロナ現代文化センター)『すべて明かされるわけじゃない』(Caixa Forum)など。西語圏の多数の媒体に定期的に寄稿。著書には『カルセローナ(Melusina出版、2011年)』『カラカオス(同2015年)』『ドロゴタ(Planeta出版、2017年)』他。3月に谷口ジローの漫画『散歩もの』を演劇に翻案するため来日、東京をリサーチした。
『ロベルト・ヴァルザーの散歩』はヴァルザーの小説『散歩』を演劇に起こしたものだが、アルゼンチン人作家演じるヴァルザーは世界各地の街を練り歩き、小説内と同じ思考で、時代錯誤なセリフを現代の街中の人々へ投げかける。その観客は、図らずも観客にさせられた通りすがりの人々だ。彼らは意図せず文学作品内に在る。ここでは作品の方から彼らを捕える。本が読まれぬ時代、作家は新しい形の〝文学体験〟を、アート作品めいた演劇で探っている。現代、『文学する』方法は無限にあり、必ずしも読書体験だけでない方が自然だ。このインタビューを読むことだってもちろん、『文学する』ことになり得るかもしれない。
青山YURI子
■谷口ジローの漫画作品『散歩もの』を元にした作品について■
青山 では、カミナンテ(散歩もの)について聞かせてください。もうかなりのカミーノ(道)を歩いたのですか?(マルクさんは、谷口ジローの漫画『散歩もの』を演劇に翻案する作品を計画している。そのリサーチを行うために今回来日した)。
カエージャス えっと、はい、いくらかの道は。それが、ここのところ天気が悪くて道を歩くのに都合が悪いんです。雨が降っていたり。
青山 昨日はとても寒かったですしね。
カエージャス ああ、昨日はひどかった。出かけようとしたんですが、できませんでした。歩くのに最適な天気ではないです。でも、ロベルト・ウァルザーは雨が降ってようが、雪が降ってようが、外に歩きに出てましたけど。
青山 彼はスイス人です。
カエージャス そうだね。
青山 どのようにリサーチを進めているのですか?。
カエージャス ここ(本を見ながら)に、すごく興味を持ったルートがあって。具体的な場所はあまり重要ではないんですが。上演も、違う都市でするかもしれません。谷口は東京で遊歩者だけれども、僕は違う都市で遊歩者になるかもしれない。僕がするのは、この漫画からインスピレーションを受けた精神を維持しながら、街を歩くことです。
青山 どうやって作品に変える予定でいるのですか? 脚本を書いているのですか?。
カエージャス 脚本というよりは、アイディアやシーンを用意します。
青山 漫画の場面は、そのまま劇に移すのですか? 例えばここにある道を探したり。
カエージャス いえ。この道はまだ見つけていないよ。どこにあるのかも知らないし。でも先日、とても似たような場面に出くわしたんだ。とても谷口的な経験だった。突然、足元でパンダのついたタイルに出会った。歩いていて、それに気づいて、写真を撮りました。本で同じものを見たわけじゃなくて、無意識的に谷口のスピリットがパンダを見つけさせたのです。「一体どうして! 誰がこんなところにパンダの付いたタイルを作ったんだ!」と驚きました。自分が谷口の登場人物になったようでした。だからテーマはそういうところにあります。ただ歩き、いつもは見過ごすことに、よく注意を払う。
彼の作品には、行動の自由があるんだ。ここの章では、ほとんどテキストは書かれていないんだけど、彼は突然プールに入りたいと思う。それでどうするか? 柵をよじ登って、プールサイド側に行く。プールに入る。それだけ。他には誰もいない。プールは閉まっている。プールから出て、服を着る。そして家へ帰る。全て、とても冷静に。
僕にとっては、ここにある自由こそが重要なんだ。同じ場面を作ろうと思っているわけじゃない。
■繊細なシチュエーションから生まれるもの■
カエージャス 谷口の本の中の状況は、どれも小さなことだけど、普段あまりしないことだ。どれも小さな喜びのある場面。インスピレーションは、そういう日常のささいなところにある。このような場面を、隣に本として持ち運べるのは愉快だ。他の章では、彼は突然歩きはじめ、誰かの後をつけ始める。つけられている方も気づき、一緒に歩き始める。
青山 何も言わずに。
カエージャス そう、何も言わずに。彼は、横に歩くもう一人もカミナンテ(遊歩者)だと気づく。これはとても繊細なことだ。誰かの後をつけることはその人にとって迷惑になるかもしれない。なんでついてきてるんだ? 探偵か? と。しかし突然、それを面白いと思う人も出てくる。言葉を使わずに、じゃあ一緒にいこうか、と。道では期待してなかった人との出会いもある。次の日にはその人はもういない。これは、ある場所でメカニズムを生ませることなんだ。
ホセ・ルイス・ゲリン*1という映画監督から影響を受けた考えがあって、そこではシチュエーションの中にメカニズムを作ることが話されている。シーンの中にメカニズムが生まれるのではなくて、シチュエーションの中にこそ何かが仕掛けられるんだ。文脈が生まれる。何かを作るとき、70、80パーセントはあなたがコントロールするけど、残り20パーセントは余地として残しておく。そこに現実が介入できるように。あなたはフィクションを生むけれど、それは外に開かれたフィクションだ。そこでフィクションは現実の柵から出てこようとする。時々その柵は、別の柵より面白いケースがある。最終的には、作品のコントロールを弱めることが重要だ。脆弱な状況に身を置くこと。何が起こるのか分からない状況に。でも、何かが起こるというのは分かっている。なので、これから来るものが何だろうが起こってくれ、という気持ちで、それを楽しむ。何が起こるか分からない方が、違った方法の創造に出会うことができる。
谷口の作品はどれもとても繊細なシチュエーションがある。例えばほら、ここでは(本を見ながら)家に帰るけど鍵が見当たらない。だからまた外に出て、一晩中歩く。道で飲み物を買う。ついには眠くなって、屋上で寝てしまう。
(ページをめくりながら)ここでは、日除けを買いに外出する。日除けを担ぎながら、町中を歩く。汗をかきながら。雨が降ってきて、濡れる。家に帰る。日除けを窓に設置する。
■劇場作品と非劇場作品■
青山 これ(『散歩もの』)は他の作品のように、不特定な場所で上演するのですよね?。
カエージャス はい。作品は、10人ほどの役者を事前に募集して、決まった場所で待ち合わせる予定だよ。
青山 何か準備はするのですか?。
カエージャス 脚本は作らない。だけどアイディアはある。どこからどこまで歩くか、とか、何分かかるのか計算したり、地図のようなものを作る。あとはヒントになるユーチューブのビデオを保存していったり、アイディアになる写真を撮ったり。
青山 この谷口の作品をバルセロナでやることも考えていますか?。
カエージャス はい。違った複数の都市でこの『散歩者』をやるのもいいかもしれない。
青山 道や廃屋など、様々な場所で作品を発表されてますが、カイシャフォーラムやCCCBのような芸術機関でも上演していますよね。劇場で発表するのと、道で発表するのと、違いは何ですか?。
カエージャス 芸術機関では、フォーマットなどもっと決まりがあります。カイシャフォーラムでは『ギリシアの武器』という、雑誌を全要素そのまま演劇に置き換える試みの作品をした。劇場には200人の事前にチケットを買った観客がいたよ。まあでも、とにかくやりました。芸術監督や、照明技師、ビデオアーティストなどと話し合いながら作りました。小さい作品があり、大きい作品がある。フォーマットのことだけど。
これはライブ・ジャーナリズムと言って、雑誌をライブで上演してみたらどんなものができるか?という試みだった。昨今、パリやニューヨークで、このライブ・ジャーナリズムは流行っているんだ。
■ハイブリッド作品の鍵は編集にある■
青山 これまで紹介してくださった作品はどれもハイブリッドな作品ですが・・・。
カエージャス 境界を破るのは好きです。ジャンル間の境界。
青山 そのために文学やアートは存在しているのですよね?。
カエージャス もちろん。そうでなければつまらない。アーティストはあっちでまとまって、作家はこっち、音楽家はそっち、という風じゃつまらない。
青山 ここ(文学金魚のコンセプト)にも書いてあることですよね?。
カエージャス はい。それを聞いたとき、面白いと思いました。結局創作プロセスは多面的です。だから敷居を外さなきゃならない。この世界にはすでにたくさんの境界があります。その境界を少し壊さなきゃならない。だって人工的なのだから。世界にはあまりにも多くの境界があって、国境もそうだし、社会的な壁もそうだし、経済的な壁もある。それなのに、芸術にも境を作るなんて、とても悲しいことだ。
書くことひとつにも、実にさまざまな方法がある。例えば、ジョルジュ・ペレック*2のような。日本で訳されているのか分かりませんが、いつもペレックを心の片隅に浮かべるべきです。
青山 ベネズエラでの滞在経験をまとめた『カラカオス』という本では、エッセイ、文化人類学風テキスト、書簡文学、旅行記、戯曲、日記、詩、の形式を使って書かれたのですよね?。
カエージャス はい。上手くいく、いかないに関わらず、これが私の提案です。
青山 ハイブリッドな作品を作る際に、マルクさんの方法論などはあるんですか?。
カエージャス DJをするようなものです。DJのような作家になることです。様々なことから取ってきて、新しいものにまとめる。編集だ。編集のコンセプトはとても面白いものだと思うけど、どうかな? 音楽を作るのに近い。映画を勉強していた時から、映画の鍵はモンタージュにあると明確に分かっていた。とても基本的なことだ。人々は撮影をしたり、俳優を動かしたりすることが大切だというかもしれない。でもそれは違う。映画が作られるのは、編集室だと思う。ハリウッドでは、監督ではなくプロデューサーが編集を担うので、既視感のあるようなものになる。
同じように、本を作る時の鍵も、編集の段階にある。書く、訂正する、書く。モンタージュ文学のような種類の文学作品が好きです。僕が本を書く時、編集者はとても力を貸してくれる。後ろにあったものを前に持ってきたり。どのように見せるかによって、読者の経験は変わる。演劇でもそうだけど、編集が鍵だ。これが僕の方法論だと思う。小さな異なったパーツがたくさんあり、後で音楽をつける。包括的な一つのアイディアがある。
『ボルヘスの家で食べる』の一場面。お互いの祖父の名を取った筆名で共同で作品執筆も行っていたボルヘスとビオイ・カセレスは、よく互いの家を行き来して夕食をとっていた。食事会から帰り、カセレスは日記に、「今日はボルヘスの家で食べた。」と綴り、その日の会話など記録した。この二人の友情にオマージュした作品。
■映画の話■
青山 影響を受けた映画人は誰ですか?。
カエージャス いつも興味を持ってきたのはアントニオーニ*3。『愛の不毛』三部作。『夜』『情事』。ジャック・ニコルソンとマリア・シュナイダーの『さすらいの二人』。最初の30分はバルセロナが舞台になっている。2、30分、70年代のバルセロナが写っていて面白い。後は、現代ではジム・ジャームッシュ*4。それとさっき言った、ホセ・ルイス・ゲリン。スペイン系のアルゼンチン人だけど、素晴らしい。 他にはジョン・カサヴェテス*5。
でも僕はアーティスト、フランシス・アリス*6のようなアーティストも好きなんだ。
青山 氷?。
カエージャス そう、氷。その作品は、僕にとってすごく重要な作品だった。作品制作のヒントになった。あとはソフィーカル。あとティーノ・セガル。ドイツ人アーティストで、とても面白い現実への介入をしていて……。
青山 スペイン人で誰かいますか?
カエージャス ええっと…ジョルディ・コロメル*7。カタラン人のインスタレーションを作るアーティストだ。ノマディズムをテーマに作品を作ってる。ユートピア社会のようなものも。
■カタルーニャの旅人作家■
青山 カタルーニャ人は少し日本人にも通じるところがあるというか、「州内に最高の教育があり、良い暮らしがあり、そこでなんでも揃う。外に出る必要がない」と考えている人々が多い印象です。カタルーニャ人作家を好んだり、同郷人から積極的に学ぼうとするような。しかしビラマタスは国内に批評的な視点を持っていますし、あなたも国外で長く暮らし、外側からの視点で故郷を見つめた『カルセローナ』 や『外国人、家へ帰れ』という作品を作っています。
バルセロナはいつもいい天気で、美味しい食べものがあり・・・と人々は繰り返しますよね? ここには全てがあり、故郷を愛することが重要で、外には出る必要がない・・・と。
カエージャス うーん。バルセロナは一時流行になった都市で、今ではその流行りも廃れた土地です。オリンピックの後に流行りました。人々にある種の誇りがあるのも事実ですが。
青山 私が言いたかったのは、そういう人々に比べてあなたやビラマタスはとても国際的なカタラン人だということです。
カエージャス 確かにナショナリスタはいますが、私たち、例えば私は、長く外で暮らしてきています。それでも定期的にバルセロナには戻りますが。そこは私のホームベースですし、家族がいますし、わたしはバルセロナ出身です。自分が違う場所出身です、などと嘘をつくことはできません。
でも同時に、これまで様々な場所を、少しずつしゃぶるように、手で触れるようにして、住んできました。エンリケビラマタスも同じです。パリに住んだりして、いつも故郷にいたわけではない。彼はとても受容的な人です。でも最終的に私たちにとって重要なことは、スペイン語文化の文脈に身を置くことです。スペイン語で書かれる文化圏のことです。この言語文化圏の豊かさにあやかりたい。確かに、スペイン語で書くならあなたはカタルーニャ人作家ではない、という限定的な考えの人もいますが、僕はスペイン語がもたらしてくれる文化的な豊かさにあやかたいと思っています。
青山 カタルーニャでは、ビラマタスやあなたのような国際的なカタラン作家は珍しいですか。
カエージャス うーん。結構、いますよ。例えばジョルディ・カリオン。彼の作品、エッセイは日本でも訳される予定があると聞いています。彼も旅人作家で・・・あと、誰がいたっけ。
青山 あなたたち旅人作家は、故郷に対してとても客観的な視点を持っています。それが言いたかったのです。
カエージャス はい、批評精神はあると思う。もっと他にもいるよ。
批評精神に溢れた『外人よ、家に帰れ』(詳細は下記作品まとめへ)
■マルクさんの創作言語■
青山 『カルセローナ』という作品は、このテーマに関係していますね。
カエージャス この作品は、外国人の視点を保ちながら自分の町を見る練習だった。僕はいつも外国人であることに関心を払ってきた。感情的にその土地と繋がった外国人。カラカス、ボゴタ、サンパウロ、長年僕が住んできた街では、どれだけ住んでも、いつも僕は外国人だった。街に馴染んで、その街をよく知っている外国人。バルセロナに戻って『カルセローナ』を書き始めた時も、そのまま外国人でいたかった。つまり、一定の距離を持って土地と接し、故郷を見つめる。その距離こそが、僕に言語をもたらすんだ。スペイン語で、そして時々はカタラン語で書くけど、その距離を保つためにものを書くんだ。
青山 カタルーニャ語で作品を書くことはないんですか?。
カエージャス ほとんどないよ。もちろん母国語なので書けますが、スペイン語で書くことが僕の決断です。おそらくこれまでの多くの読書経験がスペイン語のものであったし、参照してきた文学はラテンアメリカのものです。スペイン語圏が僕の守備範囲、行動範囲になっている。カタラン語を尊重するし、カタラン語で読みます。でも、僕は書くためにスペイン語を選択した。事実、それがとても上手く機能している。ゆえにスペイン語が僕の創作言語です。
青山 スペイン語で書くとき、始めにカタラン語で考えますか?。
カエージャス いいや。前はそうだったけど、今は違う。おかしなことですが、長年交際してきた女性たちがカタラン人でなかったことも関係しているかもしれません。一番心理的に影響を受けてきた言葉がスペイン語だったのです。バルセロナに戻るときは、カタラン語で考えるかもしれませんが。結局、家族内や身近な友人内で使われる言葉ですし。でも一旦そこを出るとスペイン語で考え始めます。
青山 じゃあ本の中で言葉遊びをするときも、始めから直接スペイン語のフレーズが思い浮かぶのですね?。
カエージャス そうです。久しくそうです。
青山 あなたの『ドロゴタ(Drogotá)』という作品を読み始めたのですが、言葉遊びのページから始まりますよね。ボゴタをもじった、ドロゴタという架空の土地の定義が3ページに渡って書き連ねられています。『カラカオス(Caracaos)』という本でも、カラカオスの定義から始まります。実験的ですね。
カエージャス 本を書き始める一つの方法です。
■スペイン文学界の作家たち■
青山 最後に、スペイン語圏の作家たちの話を聞かせてください。
カエージャス 彼らについて? 何を話せばいいっていうの?。
青山 日本では情報が少ないし、あなたが知っているスペイン作家の人物像を教えてほしいんです。
カエージャス 月に一回出ている新聞の文化欄のページがあるから、そこにアクセスすればいいよ。一月に三人の作家について書いている。ヴァレンティン*8という作家の本が最近出た。ランブラス通りにある美術館のディレクターなんだけど、たくさん出版物があって・・・。
青山 でも、あなたが知っている作家たちの、普段の様子が知りたくて。例えばですけど、実際に会うエンリケ・ビラマタスはどんな人なんですか。ハビエル・マリアス*9は? そういうことを教えてください。
カエージャス はい。もちろん、バーにいけば行き合うこともあります。結局バルセロナは小さな街で、文化的な場所にいけば、彼らに会います。でも世代も違うし、20歳以上年上ともなると、相手は70いくつかわけで・・・。でも、確かに、ビラマタスが『パリは終わらない』で書いているような、バーに行って神話的な存在になっている作家、そうではない作家に会って、二言三言交わすことはあります。でも僕はあちこち住む場所を変えているし、外にいたり、中にいたりで、人々には「今あなたはどこに住んでいるの? ここですか、どこか違う場所ですか」と聞かれるのが定番になっているぐらいですから。「どこに住んでいるの?」が一番よく聞かれる質問です(笑)。
青山 今回は「東京に住んでいます」ですね(笑)。
カエージャス そうそう。
青山 エンリケ・ビラマタスの『ポータブル文学小史』はもちろん読んだのですよね?。
カエージャス はい、はい。
青山 あなたのオドラデクには会いましたか?。
カエージャス まだ見つかっていません。探している最中です。東京にいるかどうか…。
青山 あなたは多くの国の多くの都市を旅してますから、とっくに見つけたと思ってました。
カエージャス まだ見つけてないよ。でも、まだ諦めてはいない。別日、ジャズバーで見つけそうになったし、渋谷の『ライオン』でもすれ違った気がする。
青山 『ライオン』に行ったのですか?学校みたいに机がたくさん並んでいるところですか?
カエージャス そう。知ってますか? クラシック音楽がかかる『ライオン』です。背後からマイクで声が流れます。これはもう完全にパフォーマンス作品です。事実、僕はこれを『散歩もの』のパフォーマンス作品に取り入れました。詳細は秘密ですが(笑)。
(2018/03/22 了)
スタジオでの写真撮影 鶴山裕司
【註】インタビューに出てくる作家たち
*1 ホセ・ルイス・ゲリン(José Luis Guerín)):一九六〇年生のバルセロナ出身の映画監督、脚本家。作品に『シルビアのいる街で』など。
*2 ジョルジュ・ペレック(Georges Perec):実験文学集団「ウリポ」にも参加していたフランスの小説家。
*3 ミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni):イタリアの映画監督。
*4 ジム・ジャームッシュ(Jim Jarmusch):アメリカの映画監督。
*5 ジョン・カサヴェテス(John Cassavetes):アメリカの映画監督、俳優。
*6 フランシス・アリス(Francis Alÿs):ベルギー出身、メキシコ在住の現代アーティスト。道で氷を押していく映像作品(Sometimes Making Something Leads to Nothing)などが有名。
*7 ジョルディ・コロメル(Jordi Colomer):マルクさんの親友。バルセロナ生のマルチメディアアーティスト。
*8 ヴァレンティン・ローマ(Valentín Roma):バルセロナ生の作家、美術家。多数の展示を企画している。La Virreina Centre de la Imatge(昔の宮殿を使用した美術館)のディレクター。
*9 ハビエル・マリアス(Javier Marías):スペインの小説家。邦訳作品は3つ。
【インタビューに出てくる作品リスト】
■上編■
1 好きなことは禁じられたこと、モラルに反すること、太ること全般 Todo lo que me gusta es ilegal, inmoral o engorda
現代のような情報過多な時代が到来してもなお、世界には中世並みの遠方文化への誤信が未だ根強く存在する。古くから西洋は東洋を誤解し、東洋もまた西洋を誤解・創作してきたが、ここではカタルーニャで未だに女体盛りが日本の日常だと信じられている場面が取り上げられる。異文化によって過度にフィクション化された現実を、実際に視覚化した(カタルーニャでは、ハムを大きな肌色のまな板の上に乗せて出される習慣がある)。
2 夕食会 La Cena
マイアミのアートギャラリーで上演された初期作品。
3 批評家たちも泣くことがある Los críticos también lloran
ボラーニョ『2666』第1部『批評家たちの部』を演劇に翻案。初めて作家を俳優として起用した作品。ボゴタを皮切りにメリダ、バルセロナ、マドリード、ストックホルム、サンパウロ、リオデジャネイロ他で公演。旅を共にし、徐々に批評家たちへと変貌しゆく作家5名を見るのは興味深かったという。
テラスに集まる”批評家”たち。
4 ボルヘス家で食べる Come en casa Borges
ボルヘスとビオイ・カセレスは互いの曽祖父の苗字を組み合わせた筆名でミステリー小説を書いただけでなく、よく互いの家に夕食を食べに行き来していた。毎日日記を綴っていたビオイ・カセレスは、夕食会から帰宅するたび、「XX年X月X日 ボルヘスの家で食べる」と日記を締めくくった。ボルヘス死後、カセレスはその日記を出版する。この、マルクさん曰く〝極めて信頼できる、友による日記形式のボルヘスのバイオグラフィー〟を演劇化し、両者の友情にオマージュを捧げた。舞台上に出現したボルヘスを論じる架空の文学会議には、批評家や研究者の代わりに、より直接的にボルヘスの影響を受けてきた職業作家陣を配置して偉大な作家のテキスト(マルクさんがあらかじめ各役者に分配)を自由に解釈させ自らの言葉で語らせた。
5 不快な作家たちへの短いインタビュー Entrevistas breves con escritores repulsivos
デヴィッド・フォスター・ウォレスの小説を引用し、現実に怯える、不快感を募らせた人間たちを、そのような人種であるだろう作家が演じる。
「デヴィッド・フォスター・ウォレスは、フィクション作品は世界の本質的な孤独との対話のためにあると考えていた。この作品を作りながら、良い文学作品の役割は精神的に落ち着かない人々に平穏を与え、平穏ある人々を混乱に陥れることだと気づいた。」
6 カルセローナ Carcelona
故郷に帰ってきて、制限を感じる。5年の留守の後、作家にとって故郷バルセロナはブニュエル『皆殺しの天使』のように見えない制限のかかった場所だと感じられた。その〝制限〟の正体を突き止めるため、本書を書いた。カルセローナは、カルセル(刑務所)+バルセローナを合わせた造語。
7 インコが鳩を倒す El Perico tumba la paloma
コカインについての演劇。コカインの消費、効果、与えられた様々な名前、白い粉の周りに立ち上る想像の世界、コカの木、コカにまつわる神話、儀式、魔術、ドラッグ取り締まり、ドラッグを禁じる世界との対立、コカの木の禁止。それでも抜け道を見つける。一体、どこにコカインは隠されるのか。なぜ、隠すのか。を、すべて演劇シーンに持ち込んだ作品。
コカインを素材にドローイングやパフォーマンス作品を作る元麻薬密売人のアーティストを劇場に迎え、上演。
舞台上でパフォーマンスする元麻薬密売人。
8 外人よ 家へ帰れ Guiris Go Home
道で酔い潰れる観光客の声が夜半に響く。モデルニスモタイルに散らばるビール瓶の欠片。明らかに〝僕たち〟ではなく、観光客にWelcomeな商店、広告。毎日ひたすら鮮やかなパエージャを作らされる店員。サグラダファミリアへの道を尋ねられる地元民を見て、ここには一つ劇を作るだけのテーマと素材があると思った、という。観光業界への風刺劇。
9 ロベルト・ヴァルザーの散歩 El paseo de Robert Walser
スイス人作家ロベルト・ヴァルザーの文学作品『散歩』を、サイトスペシフィックな演劇として上演したもの。公演は6年続き、今でも世界のランダムな街にアルゼンチン人作家扮するヴァルザーが出没している。今年5月上旬にはメキシコ、下旬にはマジョルカ島に現れたらしい。
街の人を巻き込みながら上演される様子
10 ドロゴタ Drogotá
ドローガ(薬物)溢れるボゴタに焦点を当てた、ドキュメンタリー文学作品。ドラッグとドラッグ都市を、こんなにも文学的に論じていいのか⁉ と思わず胸のうちで反芻する。古今東西(西洋多め)の文学引用句が各ドラッグ問題と(無理やり⁉ に見えないのが作家の技量)結びつけられ、あらゆるドラッグ(まわりの人々)のエピソードが、極めて文学的な日常の中で語られる。ドロゴタの喧騒の中、作家は毎日あらゆる人物に会い、食事をし、文学談義を交わし、彼女には家が狭くなるのがやっぱり嫌、と同棲ほやほや先から追い出される。ボラーニョ風のドラッグ都市案内書(のようなもの)。
■下編■
11 谷口ジローの漫画『散歩もの』を翻案した演劇作品
3月に東京でリサーチを行った進行中のプロジェクト。
インタビュー前日は雨で〝歩き〟には行けず。「しかし先日、パンダのタイルがいきなり僕の足元に現れたんだ! なんでこんなとこにパンダが⁉ まさに谷口ポエジーとの出会いだった」と興奮ぎみに話してくれた作家(そこは下町だから、おそらく上野のパンダだと思われる、何もシュールな状況ではない、とは言えず)。
12 ギリシアの武器 El arma griega
昨今ニューヨークやパリではライブ・ジャーナリズムという、動画やパフォーマンスでトピックを伝えるジャーナリズムが流行っているらしい。ここでは作家は、普段から寄稿しているAltaïrMagazineという旅行雑誌を、ライブ・シアターに置き換える試みを行った。このドキュメンタリー形式の演劇では、記事、ディレクターへの手紙、写真付きのルポルタージュ、現代美術の展示の紹介記事、など旅雑誌の全要素を忠実に演劇シーンに置き換えた。「雑誌を読むことは伝統的に孤独な作業だ。しかしこれなら皆と分かち合える経験となるし、観客と創作者の交流も意味する」と作家は言う。
13 カラカオス Caracaos
作家が4年間住んだベネズエラの首都カラカス。主観的に接したカラカスを、カオスなカラカス-カラカオスと名付け、読者に紹介した本。「僕の知っているのはカラカオスであって、カラカスではない。」そう感じられるのは、4年半住んでもアウトサイダーの目が残る〝外人〟だから。ここには、外国人である醍醐味が集結している。「なぜこんなに厄介な都市で、人生最良の日々が過ごせたのだろうか」。それを知るために書いたらしい。
カラカスのカオスを表現するため、本の構成も、エッセイ、文化人類学風テキスト、書簡文学、旅行記、戯曲、日記、詩などあらゆる文学形態を用い、よりカラカオスを表現しようとした。
■おまけ■
CCCBバルセロナ現代文化センター
ラバル地区にある現代文化センター。建物は大きい。本屋さんが良い。一度入り口になっているアーケードをくぐると、あまりにも広い中庭がドーンとあって、見つかりにくい隅の方にある地下に続くスロープを、クラシックなタイルを眺めながら下ると、またも広い空間がある。そこからエレベータを上がり、上がり、上がり、上がり、4階から1階まで展示が続いていたり。めちゃくちゃ業界関係者(映画・アート)の声がよく聞こえる。現代美術の展示多。マルクさんが上演していた劇場がどこにあるのかは知らない。
カイシャ・フォーラム(Caixa Forum)
スペインのUFJ銀行、のような銀行のLa Caixa財団が、古い織物工場を改築し美術館にした。エスパーニャ広場駅から、モンジュイックの噴水を横目に坂を登って徒歩8分。CCCBと並んで、いつも展示が良い! 近〜現代美術を扱う印象。織物工場として建てられた時にはモデルニスモ建築の巨匠プッチ・カダファルクが設計したが、二〇〇二年の改築時には磯崎新が設計に携わる。屋内はなぜかいつも静かな印象(建物が広いためか、あまり観光客が訪れないためか?)。
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■