Interview:吉田直紀インタビュー(2/2)
吉田直紀:ビッグバン直後の宇宙に最初にできた星、ファーストスターの姿をコンピュータ・シミュレーションによって明らかにした。太古の宇宙が目前に繰り広げられているかのごときヴィヴィッドかつ精密な画像、若々しく斬新な手法で導かれた果てしないロマンはNHKの特集番組等で紹介され、一般視聴者に広く衝撃を与えた。東京大学大学院理学系研究科教授(兼)国際高等研究所 カブリ数物連携宇宙研究機構主任研究員。理学博士(ミュンヘン大学)、応用数学修士(スウェーデン王立工科大学大学院)、工学修士(東京大学)。第13回日本学術振興会賞受賞。子供たちを啓蒙し、宇宙少年を育てる活動にも力を注ぐ。
数年前、NHKの特集番組でファーストスターを観たときの衝撃は言葉に尽くせない。ずっと心の片隅にあり、満を持してのインタビュー企画である。文学金魚でなぜ科学を、と思う向きはご一読ください。世界観を構築する原理を求める創作者にとって、文壇ゴシップなどよりも宇宙の最初の星の方がずっと近しい。とりわけ近年は望遠鏡が発達し、吉田直紀先生のシミュレーションが現実に検証されつつある。これほど興奮することはない。ただ、録音からはなぜか漏れていたが、「もし仮に自分が間違っていたとしても、それでいいんだ」とぽつんとおっしゃった科学者の真骨頂が、なにしろ格好よかった。
文学金魚編集部
■迂回して本質を探るということ■
小原 ファーストスターも多様な形で生まれたとおっしゃいましたが、それは地球のカンブリア紀の生命の大爆発でも同じですね。学問や芸術に限りませんが、全体のバランスとして多様性はとても重要です。ただ多様性が生まれるにはやはり原初的なものが必要ですよね。
吉田 太陽系に天の川銀河がありますが、じゃあ天の川銀河がどうやってできたのかをずーっと遡ってゆくと、一個の星から始まるんです。一個の星からバラバラっと十個くらいできたのかもしれませんが。そこからだんだん増えていって、今のように数千億くらいの系が出来上がった。
小原 あまり言うと宗教みたいになっちゃいますが、宇宙のことに興味のある人は、やっぱり根源的なことに興味があるんじゃないですか。
吉田 わたしはけっこうヴィジュアル系で、子供の頃に天体の画像を見て、これはなんだろうなっていうのがすごく気になったんです。そういった最初の好奇心が研究者になった動機の一つでしょうね。子供の頃の気持ちは今も持っていますが、最初から天文学に進んだわけでもないし、気がついたら宇宙のことを研究して生活している人になっていました(笑)。
小原 わたしは子供の頃、本を読むのが異様に早くて量も多かったです。じゃあ文学部に進めばいいじゃないかとなるんですが、理数系に興味がありました。最初から文学の道をまっすぐ行った人を見ていると、なんか違うなぁと思うこともあります。もちろん理系の人といっしょにいると、やっぱり人種が違うと思ったりするんですが(笑)。たぶんですが、文学における興味の対象は専門の人と同じなんですが、別の方法論を身につけてアプローチしたかったんじゃないかと思います。
吉田 どう対象にアプローチするのか、迫るのかという問題は、方法論が違えばぜんぜん違う物事の側面を見せてくれることがあります。
小原 東海大学で文芸創作科の授業を担当していて、学生が文学のテキストをいい加減に読むと、めちゃくちゃ怒る。だって数式のプラスとマイナスを取り違えたら自分が悪いと思うのに、文学テキストは好きに読んでいいと思ってる。「文学をなめるな。正確に読め、書いてないことは読むな」って叱るんです。正確な読み方はテキストクリティックと言いますが、これを口を酸っぱくして言うと、今度は辞書を引いて単語の意味をいちいち調べてくる(笑)。いやそうじゃなくて、常識の範囲で無理なく、無矛盾的にテキストをスルリと正確に読み解くことなんです。学生には、無理のある読解と無理のない読解との判別が難しいようなんですが。想像力を働かせると言っても、無理があると感じたら、そこで立ち止まって考え直さなきゃならない。こういうテキストクリティック的な読み方は、わたしは理科系的なものだと思うんです。文学だからということで、世の中には恣意的な批評が溢れていますが、テキストクリティック的な読み方をした方がむしろ新しい読解が出てきます。
■理科系的読み書きについて■
吉田 それはよくわかります。理系でも論文は文章なんです。学生の論文でも、図や数式は問題ないですが、ほかの人の論文の読み方がすごくいい加減なものがたくさんあります。そんなこと、ひとつも書いてないだろうっていうような読みがある。そういう人は、論文を書くときもいい加減な文章になります。なんとなくこうだろうなぁと思って書いている。
小原 文学テキストを読むときは、家を買う時の契約書だと思って読め、と指導したりします(笑)。
吉田 いい例えですね。特に論文は、一つ一つが情報伝達のためのツールなので、いい加減な文章はダメです。正確な読解は正確な文章を書くのに必要です。計算は正確にやりますが、その結果の読解がズレてたりする。だけどそういう正確な文章の読み方書き方は、理系の勉強の中にあまり入ってないんです。文章は、徒弟制じゃないですが、なんとなく師匠的な文章が頭の中にあって、それを真似すればいいって感じになっている。でも師匠の文章がいい加減だと、弟子の文章だってそうなっちゃいます。
小原 アメリカの大学には、文章を論理的に構成するテクニカル・ライティング講座がありますが、日本にも必要だと思います。日本の国語教育は、僕やわたしが何を思ったのかを表現する情操教育が主流ですが、それだけでは不十分です。論理的文章は、理系でも文系でも通用すると思います。会社に入ってプレゼン資料すら作れない学生が多いわけですから。
吉田 必要だと思います。
小原 今日は東大におうかがいしているので思い出しましたが、柄谷行人さんという、一九八〇年代頃に文学批評の世界を席巻した批評家がいらっしゃいます。高校生や大学生が柄谷さんの批評を読むと、難しいので自分が悪いと思ってしまう。自分がバカだからわかんないんだと。ですが柄谷さんのロジックには無理がある。途中で「たとえば」と例を挙げて、そこからロジックが別の方向に流れて本題に戻って来なくなる。「たとえば」の積み重ねでロジックがズレてとんでもない結論に達してしまう。これを柄谷マジックと言いますが、手品には種があります(笑)。上野千鶴子さんというフェミニスト批評家の文章もそうですね。ある雑誌に書評を書いたんですが、それは彼女のロジックの審級の混同を指摘したものでした。抽象的な「女性性」を指す言葉と、「あの女性」という具体的存在を指す言葉は審級が違いますが、それをごっちゃにしている。書評では、彼女の文章の中の「女性」に印を付けて、これは属性としての女性性、これは具体的女性存在、と仕分けして審級の混同を指摘しました。雑誌の編集部からは、手厳しすぎると泣きが入りましたが(笑)。そこから本が出るご予定だったので。
吉田 飛躍のある文章は、部分部分は面白い。刺激的なこともあります。だけど論理的文章の読み書き技術は必要です。われわれの業界ですと、大学院に上がって来た頃から本格的に論文なんかの文章を書くようになるんですが、基礎的な論理文章技術は、もう少し若い段階で習得した方がいいんじゃないかと思います。二十代も半ばになると、文章の書き方というか書き癖が、ある程度固まっちゃっていることがあるんですね。高校生、大学生くらいでやっておかないと、なかなかすんなり身につかないところがある。
小原 迂回してきた人は本能的に、従来的なジャンルでは教えてない方法論などのトレーニングを積もうという意識があったのだと思います。
吉田 後になってみると、ああ、あれが役に立ってるなぁと思うことはあります。でもその真っ最中は、効率の悪い作業そのものです。
小原 方法論、対象への迫り方を変えると、ジャンルを越境することもできるんじゃないでしょうか。ジャンルの越境といっても道を外れてゆくという意味ではなく、たいていは非常に根源的な何かに迫るためですね。原理的な何かに迫りたいから、最も有効なアプローチ方法を探して試行錯誤しているような。
■ジャンルの越境と本質探求について■
吉田 そういう試行錯誤をしていると、事実上、本流的なものには入っていけなくなりますけどね(笑)。仕方なく違うことをやらざるを得ないという面もある。
小原 何が本流か、何が傍流なのかは業界の人にとっては一定のコンセンサスがあるんでしょうが、外の世界から見ると、自分たちにとって原理的なものが本流になると思います。天文学で言うと宇宙が発生した時に最初にできた星ですね。だからNHKが取材に来る。ただビッグバンになるとちょっと宗教っぽくなってしまう。死んだらどうなるといった問いかけに近くなってしまうかも(笑)。
吉田 ただアンチはダメですね。何かに反対するアンチになってばかりいると、大事なことを見逃してしまう。本流には本流であることの意味があることを知っておかなければなりません。天文学の世界でも、いわゆるマニアックなことばっかりする人がいるんです。新しいテーマだから、オリジナルだからという理由でね。
小原 文学でも確かに本流はどこで、どういうものなのかは理解しておく必要があります。純文学の世界では文芸誌の新人賞をもらって芥川賞で頂点に達するというのが一つの道筋なんですが、それを疑いもなくやると、どうなってしまうのかを理解しなければなりません。その後はけっこう大変なんですよ。つまり本流が揺らぎ始めている。でもネットで皆平等に作品を発表していればいいってものじゃない。ネットを含めた情報革命は確かに新しいんですが、本流を更新するような形で作用させなければ意味がないですね。
吉田 わたしも若い学生たちに、何かアドバイスをしなきゃならない時になると、メインの本流に飛び込めばとはなかなか言えない。自分のテーマがメインとズレてますからね。適当なこと言ってるような感じになってしまう(笑)。
小原 どんなジャンルでも、最初に新しいことをやった人の仕事はいつまでも色あせないと思います。単に新しいことをやっただけでなく、その後のジャンルの基盤になる原理がそこに凝縮されている。文学でいうと明治三十年代から大正初年代頃まですね。正岡子規、夏目漱石、森鷗外らが登場した時代です。子規と漱石の実質的な活動期間は十年ちょっとなんですが、その間に決定的な仕事をした。多様性を含んでいたという意味でも日本の近代文学の、カンブリア紀生命大爆発のようなものです。そこで近代日本文学の宇宙ができた。で、この宇宙は株価が上がるみたいに膨張するわけですが、ちょうどその時期に活躍した文学者はラッキーでした。芥川龍之介や谷崎潤一郎の、大正から昭和初期の時代に当たるわけですが、公平に言って、文学者としての実力から見ても谷崎がその頂点にいたでしょうね。ただその後は、戦後のジャーナリズムの大発展はありましたが、新しさという面では日本の現代文学はじょじょに衰退していっていると思います。今は底値かもしれませんが、底値と言われ続けて二十年近く経っていますから、ずいぶん長い低迷期です(笑)。
吉田 新しくて原理的な仕事って、狙ってできるものでもないですよね。研究は、本来は目的を定めてそこに至る過程を考えなきゃならないわけですが、その過程はなかなか一本道としては決められない時代だと思います。
■宇宙についての啓蒙活動について■
小原 先生は、宇宙に興味のある人向けの啓蒙活動もやっておられますね。
吉田 講演会はよくやっています。これは一般の大学生や高校生向けの講演会の資料です。本当に小さな子供たち向けの講演は、たまにプラネタリウムに行ってやったりしています。天文少年がいて、けっこう宇宙について詳しくて質問してきたりします。かわいいなぁと思ったりして(笑)。これは講演会でよく使うものですが、典型的に何もないところから引力だけでモノができる画像です。動画にするとわかりやすいんですが、何もないところからモヤモヤっとした星とか銀河が生まれてくる。ムービーは短く編集していますが、宇宙だと百億年くらいの時間がかかっています。じゃあ実際の宇宙がどうなっているのかというと、これは銀河が散らばっている画像です。最初のモヤモヤがこういう形で星の集まりになってゆくんですね。シミュレーションでも実際の宇宙の画像でもそうなんですが、画像を見比べてみると一目瞭然なんですね。いくら突飛な理論を考え出しても、画像が一番の証明になっているところがあります。そういう意味では、宇宙物理学は難しそうですが、極めて常識的な理解に基づく学問だと言えます。
これはビッグバンの画像です。宇宙の始まりで、どんどん宇宙が広がっています。ここが地球です。いろんな天体がありますが、ずーっと望遠鏡で遡ってゆきますと、だんだん何もなくなってゆく。ちっちゃな銀河しか見えなくなる。そこまではわかっています。それは五億年くらいの星ですが、それが実際に望遠鏡で見えればいいかなっていうのが今の研究の現状ですね。この先はグズグズで、宇宙全体がまだスープのような状態です。天体にもなっていない。それが宇宙の歴史なんですね。宇宙で何が起こっていたのかは、観測とシミュレーションで割と正確にわかるんです。
小原 宇宙生成前のことはわからないけど、生成後のことはかなり正確にわかると。
吉田 たとえばこれは実際にくじら座にある星なんですが、この星は百三十億歳くらいです。この星がしゃべることができるなら、いろんなことがわかるはずです(笑)。でもそれは無理なので、われわれは分光観測をやるわけです。星がどういう成分でできているのかを調べるんです。そうすると宇宙の始まりの頃の実際がわかってくる。なんの変哲もない星に見えますが、調べると考古学みたいにいろんなことがわかってくる。
小原 宇宙の星の中に、宇宙が生まれてすぐくらいに出来た古い星もまざっているということですね。このくじら座の星が発した昔の光が、ようやく地球で見えると。
吉田 こっちの星はだいたい千光年くらいですね。
小原 じゃあくじら座のこの星が千光年前に発した光が今見えているけど、百三十億光年前に発した光も遡れば見える。
吉田 この星の古さは、それを構成するモノからもわかります。スペクトラム分析するとわかる。最初の方は鉄と炭素がちょっぴりあるくらいです。太陽のように後に生まれた星はいろんなモノから構成されますが、古い星は単純なんです。ピュアな感じです。
小原 後からいろいろ混ざってくるんですか。
吉田 くじら座の星に関しては、何も混じらなかったようです。そのままの姿でずっと来ている。
小原 古くて遠い所にある星を観測すれば、宇宙の発生の現場に近づけるということですね。
■何をどこまで知りたいのかについて■
吉田 普通の感覚では、遠くにある星のことなんてわかんないと思われるでしょうが、けっこう克明にわかります。近い星だと光が通り過ぎちゃって今のことしかわかんないけど、遠くにある星は今光が届いているので昔のことがわかる。百三十億光年の光が観測できれば、百三十億年前のことがわかる。だから望遠鏡が発達すれば、もっといろいろなことがわかる。従来の、ずーっと星を観測する天文学も重要なんです。
これは、今知られている限りで宇宙の一番遠くにある星の画像です。二〇二〇年代になると、どんどん新しい望遠鏡が出てくるんです。宇宙から望遠鏡で観測しますし、ハワイ島にも大きな望遠鏡が出来ます。電波を使ったり、X線、重力波、ニュートリノを使った観測も行われます。ですから後二十年くらいは次々に新しい観測データが出てくるはずなので、楽しみです。まだまだやることがある。五十年先にどうなっているのかはわかりませんけどね。ただ現代の観測は、一国の予算ではまかないきれなくて、国際協力が必要な規模になっています。地球上に一つといった観測方法が主流になっていますね。経済的な限界も近づいているわけで、五十年先にはまた違う観測方法を考えなきゃならなくなっているかもしれません。
まあ先のことはわかりにくいですね。どんな学問もそうですが、特に偉い先生はやり尽くしたと思っているところがあるんです。謎はまだあるんですが、基本的なことはだいたいわかったと思っている。だからそれをブレーク・スルーしていかなくちゃならない。
小原 微視的な物理学と巨視的な物理学が結びついて研究が進んでいるということもあるでしょう。質量が粒子であるというような。
吉田 微視的なものは素粒子物理学と言うんですが、宇宙の観測からその情報が得られることがあります。その逆に素粒子物理学から出てきたことで宇宙のことを考えたりします。そういったことは、物理学科の中にいると、自然起こってくることですね。
小原 わたしなんかが受験した頃と比べると、そういった学問のシャッフルというか、従来は無縁と考えられていた学問が結びついて新しい学科が増えていますね。まったく一緒になることはないですが、文系と理系の融合も進んではいます。
吉田 われわれは理学部なので、基本的には基礎研究ということになります。ただ天文学はとにかくお金がかかりますから、最終的には文系的なと言ってはちょっと変かもしれませんが、人間の根源的な欲求にもリンクしてくると思います。天文学をどんどん進めていって、最終的に何を知りたいんですか、ということになる。そこまでいくと、人間の本源的な欲望に近い議論になってきて、わたしたちのように数式を書いている人間には最終的な方向性は決められないかもしれません。ここしばらくは地球に一個だけの望遠鏡を作ったりして学問は進みますが、その先になると、最終的に「何をどこまで知りたいのか?」が学問の方向性を決めるかもしれません。天文学は何百年も歴史があるわけで、ほっといても細々とした研究の営みは続くと思いますが。
小原 太陽系の惑星の、実際的な活用とかを打ち出せば、予算がつくかもしれませんが、百三十億光年先の星を観測しても、移住するわけにもいきませんしねぇ(笑)。知りたいという根源的欲求が強くなければ、予算はつかないかもしれませんね。
吉田 研究者はあれも知りたい、これも知りたい、これもあれも重要だと言うわけですが、後何十年かすると、重要性のポイントを絞らなくちゃならなくなるでしょうね。この望遠鏡なんかは、一個一千億円以上です。十カ国以上の共同出資です。最先端の天文学と言っても、宇宙の一番奥を見たいのか、もっとクッキリとした画像が欲しいのかで望遠鏡の作り方も変わってくるんです。
小原 でも宇宙の始まりを見なくていい、知らなくてもいいということにはならないと思いますよ。そもそも百三十億光年先を見たいということは、損得の概念を越えているんじゃないでしょうか(笑)。宗教という言葉は誤解を招くので、なるべく使わないようにしているんですが、夏目漱石がイギリス留学などで英文学と日本文学、東洋文学の違いに悩んだのは、結局のところは宗教観の違いじゃないかと思います。ヨーロッパ文学と同じ質の小説を書こうとしても、日本語では書けなかった。言語が違うと発想の構造が違うから同じ質のものにならない。宗教という言葉を使わないようにすると、それは始源の問題だと思うんですね。われわれはどこから来てどこに行くのかという問題だと言ってもいい。どこに行くのかはいずれわかりますが、どこから来たのかは始源まで遡って問わなければわからない。宗教は各民族が自らの始源を問い始めたことで生まれたとも言えるわけですが、現代になっても宗教的紛争は治まらないどころかますます激化しています。人間は自らの始源を問うために生きていると言える面もあるわけで、それを敷衍してゆくと宇宙の発生の問題にまで行きます。だから宇宙開闢を研究する学問は、なくなったりしないと思うんですが。
吉田 今考えている宇宙観が、どこかの時点で大きく変わることもあると思います。地球は宇宙の中ではすごく局所的で小さな存在です。そこにいる人たちが、宇宙全体のことを知らなくたってぜんぜん困らないわけです。たとえば物理的な限界があって、われわれには冥王星のことまでしかわかりませんといわれても、「ああそうなんだ」で済む話です。でも実際には百三十億光年先まで見えている。それは考えてみれば不思議な話だと思います。でもそれは、われわれが見える範囲がそこまでだと考えているからという限定の話かもしれません。宇宙の果てを見るには何十メートルの望遠鏡が必要で、もし人間がアリくらいのサイズだったら無理だったと思います。これは考えてみればとっても都合のいい話です(笑)。もしかするとわたしたちは、今望遠鏡で見える範囲を宇宙の果てだと思っているだけかもしれません。
■ビジュアルの力について■
小原 宇宙がいくつもあるとか、あちこちでビッグバンが起きているとかいう説はありますものね。先生は一般向けの啓蒙活動もなさっていますが、研究に多少でも影響を与えるとお感じになる点はありますか。
吉田 年間十数回は高校生、大学生や一般人向けに講演を行っていますが、その際にはストーリーとして伝わるようにお話したいとは思っています。専門家ではない人たちにもわかってもらえるようなある具体的なストーリーですね。われわれは何千何百何十光年とか測定したりするわけですが、一般の人はそういったことを正確に知る必要がない。宇宙の成り立ちを具体的にたどれればいいと思うんです。
小原 それは重要なことかもしれません。ファーストスターにしても、見たいとみんなが思わなければ予算がつかないかも(笑)。山中教授の研究などですと、医学にも貢献しますから一般受けもいいんですが、そういう実業に結びつく研究ばかりだと、研究が停滞してしまいますしね。
吉田 ホントの最先端の研究は、何に役立つかわからないから最先端だという面があります。癌の研究に役立つと言えば、すぐお金は集まるわけで、いいなぁと思ったりします(笑)。
ダークマターで形作られた宇宙(シミュレーション)
(http://www.nhk-ed.co.jp/case/cosmo/20170228)
小原 ただ先生の研究は一般人の興味を掻き立てるわけで、その最大の武器になるのはやっぱりビジュアルでしょうね。ビジュアルには、実はたくさんの情報が詰まっていると思います。あるビジュアルが人を引きつけるのは、見て面白いからというだけでなく、本質的な何かが伝わっているからだという面もあります。わたしは文学金魚の新人賞の選考にも関わっていますが、文学金魚新人賞では原稿に写真を付けるように求めています。別に美男美女を求めているわけではなく、写真の面構えを見ると何かがわかったような気がする。文学の評価は相対的ですから、技術的に九十八点の小説が、技術は二十点で可能性が九十点の小説より優れているとは言い切れません。そこからどう売っていくか、世の中に作品を出してゆくのかを考えたときに、作家の面構えも含めてストーリーが見えるか見えないかがけっこう重要になってくると思います。
吉田 評価を定量化するのは難しいですね。いくら数字が正確でも、全体として面白くない論文というものはあります(笑)。直感に訴えてくるものがあるかどうかは意外と重要かもしれません。もちろん時代に合わなかったからという理由で、重要な論文が読まれなかったりするという悲劇も起こったりするわけですが。特に天文学では想像に頼る部分が大きいですからね。宇宙の画像は撮ることができますが、その成り立ちを考えるのは、一種の想像なんです。シミュレーションを行う際にも、想像を助けたり補完したりする機能は欠かせません。こうなるんだという想像がなければ、研究に方向性は生まれませんから。コンピュータでシミュレーションして、自分の思うとおりということもありますし、へぇと驚く結果が出ることもある。またこんなわけないな、という結果になったりもする。そういう時は変数なんかを考え直さなければならないかもしれません。人間が作り出すものですから、シミュレーションが絶対的に正しいとも言い切れないんです。最終的に、自分の考えたこと、想像したことが、観測や実験結果と無矛盾でなければならない。
■クリエイティビティについて■
小原 ちょっと前にSTAP細胞を巡る小保方さんの論文騒動がありましたが、科学の世界でも、あんなに論文って揺れるもんなんだと驚きましたもの。
吉田 やはりグレーゾーンって大きいんです。そこで想像力を働かせるのは必ずしも悪いことじゃない。ただ結論に至る部分を自分で作ってしまってはいけないんです。見間違えたとかいうのは、しょうがない部分があります。
小原 材料を自分で作っちゃったとしても、結論が間違っていたかどうかはまた別の問題ですよね。そこが難しい。
吉田 よく結論ありきの研究はいけませんと言うんですが、それは言い過ぎです。こうなってるんだろうなという見通しがあって、そこにいろんな証拠を集めて研究してゆくという方法もあります。最初からプレーンに研究を始めるということ自体、そもそもあり得ない。そんなことやっても単なるレポートになってしまう。研究や論文は、あるステートメントがあって、それを補完し証明しているものでなくてはならないんです。
小原 ちょっと前にお話した柄谷行人さんや上野千鶴子さんの論文は、最初に結論ありきなんですが、そこに至る論理が、理系の人なら絶対にやらないような審級の混同で構成されています。それでいいんだったらどんな結論でも通ってしまう。実際今の文芸批評は創作化していて、論理の審級を混同してもいいという通念がまかり通っています。柄谷さんや上野さんの罪は深いかもしれません(笑)。ただ直感は大事です。ケプラーが弟子にある問題について聞かれて、たぶんこうなると、証明もしないで答えだけ示したそうです。数年かけて弟子が研究したら、その通りになったという話がありますから。
吉田 そういう直感は大事ですね。論理はないんですが、わかる人にはわかるというところは確かにあります。そういうクリエイティビティを否定してしまうと、研究は進まないでしょうね。
小原 直感があって、それをいかに証明してゆくのかもクリエイティビティですね。
吉田 結論というか、あるステートメントを言い出した人と、証明する人は別であってもいいんです。言い出す人はたくさんいますから。その中で正しいステートメントを見つけ出して、それを証明してゆくのも研究のあり方です。
小原 今日はお忙しいところありがとうございました。
(2017/11/06)
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