エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第四章 新入り
『コーヒー飲まねえの?』
しゃがれた声色で唄いあげられた脅迫的な問いに撃ち抜かれるように俺は叩き起こされた。体の半分が藁布団からはみ出した寝相のまま、不意に見上げた先には赤い房飾りのようなまつ毛をしばたたく少年のにきび顔があった。ベルギー軍の軍服姿の少年が俺の枕元で身をかがめていた。片手にはねっとりとした液体を三分目まで注いだ大きなバケツ。俺は語気荒くうったえた。『とんでもない、もらうよ』そして敷布団に突っ伏した。
『コップはどうした?』とにきび顔が抜き撃ちに問う。
『どうしたってなにが』と返事をしつつも、一体全体なんの話をしているのかまだ見当がつかなかった。
「イギリス人か?」
「アメリカ人だ」
その瞬間に不思議にも物陰からスズのコップが現れてあっという間にバケツの中身が注がれ、この給仕が済むと房飾りの少年は「あんたの親友がいるぜ」と言い捨て、いなくなった。
俺は自分の頭が完全にイカれちまったんだと思った。
コップはそばに置かれていた。俺はそれに飛びつくことなく、力の入らない片肘を下にして痛む体を起こし茫然とあたりを眺め回した。俺の目はじっとりと湿った空気、身も凍るような感触の暗闇を搔きわける暗中模索をつづけたが、はっきりしたのはそこかしこに声こだまする人類の色鮮やかなつぎはぎ状態に置かれていることだけだった。俺の耳が聞き分けたのは英語と、低地ドイツ語やベルギー語っぽい言葉、オランダ語、ポーランド語、あとはたぶんロシア語もまざっていたと思う。
この混沌ぶりに恐れおののきながら、俺はコップを手探りした。コップはだいぶ冷めていた。中身は、がぶがぶといっきに飲み干してしまったけれど、ぬるいなんてものじゃなかった。味のほうも味気ないというか、ほとんど苦いだけで、舌にからみつく、濃厚な、反吐が出そうなものだった。そんな殺人的な一杯でも腹に納めてしまうや否や死にたくないという気持ちが蘇ってくる、ちょうど自殺者が致死量の毒を飲んだ後で心変わりするようなものだ。吐き出すなんてもったいないと思った。俺は身を起こした。周りを見渡した。
鼻が曲がるような物憂い空気を残して暗闇は忽ちのうちに消え失せた。俺が敷布団を敷いて座っているのは部屋のような空間の端っこだった、柱が一面に立ち並んでいる、教会の境内のような感じがした。部屋の途方もない奥行きにはとっくに気がついていた。俺の下の敷布団はさながら浮島だ、それをぐるりと取り囲んで、四分の一インチから十フィートまで(つまりそのあたりまでがはっきり見分けられる範囲に等しい)距離感は様々ながらぎょっとするほど同一の景色がしんと広がっている。血に染まったものもあった。
黄ばんだ泡を中心に据えた青味がかった外皮に覆われているものもあった。背後からぺっぺっと唾を飛ばしながらやってきた大男が仲間たちと合流した。俺は立ち上がることにした。
そのとき、部屋の向こう端に、異様なハゲワシのような影がどこからともなくさっと飛び出すのを見たような気がした。それがしゃがれ声で『水汲み用意!』と叫びながら俺めがけて駆け込んできたかと思えば――すぐ手前で立ち止まり、見たところ俺のと同じような藁布団のうえにかがみこんで、その布団の持ち主らしいものの足をぐいっと引っ張り、体を揺さぶり、今度はその次と、これを六ヶ所でくり返した。この部屋には数えきれないほどの藁布団が敷き詰められていて、枕元に一足分の隙間があるきりの横並びで俺の位置から三方の壁際までびっしり並んでいるのに、あのハゲワシはどうして六ヶ所にしか立ち止まらなかったのだろう。それぞれの敷布団の上では粗末な人間もどきが、耳元まで毛布にくるまり、寝転がって俺のと同じコップを口にし部屋のなか高く遠くへと唾を吐いた。眠りこける肉体の発散するどんよりした異臭が三方向から波のように迫ってきた。部屋の向こう端に勃発した錯乱状態のような騒ぎのうちに俺はハゲタカの姿を見失っていた。六つの強力な爆薬に点火しにきたようなものだった。一分と止むことのない狂騒でも盛大な排便の度毎にはぴたっと静まり返った、その排便者がどこのどいつかは暗がりによって入念に秘匿されてわからない、数知れない誰それにとってはかえってそれがおもしろくてたまらない。
はっきりとは見えないが横臥したまま意味不明な各国語でめいめいに俺のことを噂している連中の間では俺は注目の的らしい。気がつけば全ての柱(俺が昨晩なにも知らずに藁布団をその足元に投げ出した柱もその内に含まれるわけだけど)の傍には巨大なバケツが置いてあって、小便が縁からあふれて周りに大きく不揃いな水たまりを作っていた。俺の藁布団は一番近くの水たまりにあやうく浸るところだった。驚くほど遠くのほうで、男と思われるものが、寝床を起き出てバケツを自分の布団の最寄りの位置まで近づける試みを何度かの挑戦の末に成功させた。十人の目には見えない横臥者が六種類の言語でいっせいに彼を怒鳴りつけた。
突然肘もとの暗がりから男振りのいい人影が姿を現した。彼の多少ぎこちなくて澄んだ眼差しに俺は馬鹿みたいににっこり笑い返した。彼は愛想のいい声で言った。
「なあアンタ、ここにいる親友が、あんたに会いたがっているぜ」
膨れ上がった喜びが総身を駆け抜け、痛みや麻痺を狩り出してしまったおかげで、筋肉が小躍りし、神経が永遠の休日に安らいでぞくぞくした。
Bは野営用の簡易ベッドの上に横たわり、エスキモー族のように鼻と目だけを出して毛布にくるまっていた。
「よお、カミングズ」と彼はにっこりした。「ここにはバンダービルト提督の親友でセザンヌの知り合いだって男がいるんだ」
俺はBのことを若干品定めするように見つめていた。とくに気が触れたとかいうわけではなさそうだ、興奮して頭がのぼせているだけで、それはたぶん俺のびっくり箱ばりの登場の場面のせいだろう。彼は続けた。「英語を話すやつも、ロシア語も、アラビア語を話すやつもいる。最高の連中がそろっているんだぜ! クレーユには行ってみたかい。あそこじゃ毎晩ネズミと戦ったよ。一匹一匹がでかいんだ。俺を食おうとしやがって。そんでクレーユを発ってパリに行くだろう? そのあいだはずっと憲兵が三人つきっきりで俺が逃げられないように固めてたのに、結局三人とも寝てやがんの」
俺自身まだ夢の中なんじゃないかとそら恐ろしくなった。「はっきり言ってくれよ」と哀願した。「まじでここだけの話、俺は夢を見ているのかな、じゃなきゃここは狂人病棟なのか」
Bは笑って、答えた。「二日前に到着した時は俺もそう思った。この場所が見えてきたあたりでは女の子がたくさん窓から手を振って応援してくれたんだ。中に入った瞬間おかしな格好をした変態が駆け寄ってきて俺は頭がイカれてんだと思った、俺に向かって叫ぶんだよ『スープが遅すぎる!』ってさ――ここはフランスのオルヌ県にあるラ・フェルテ・マセ選別収容所だよ、素敵な連中がみんなスパイ容疑で捕まっているんだ。フランス語ならかじってるのが二三人いるよ、それがつまりあの『スープ』なんだけど!」
俺は言った、「うそだろ、マルセイユなら地中海沿いのどこかだろうと思ってたのに、それにここは憲兵の詰所でもないのかよ」
「なにここもマーセィだよ。ちんけな町なんだ、どいつもこいつもクスクスニタニタするんだよおまえが囚人だとわかるとね。俺にもそうだった」
「俺たちもスパイってわけ?」
「当然だろ!」とBははしゃいで言った。「ようこそ悪人! こうしてぶちこまれてみるとさ。衛生分隊とか、A氏とか、あいつの手下どもとか、腐りきった赤・お役所従事社なんかのことを考えるたびに、いつも笑いが込み上げてくるよ。カミングズ、言っておくけどここは世界一素敵なところだぜ」
(第15回 了)
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■ e・e・カミングズの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■