『エグザイル/絆』 放・逐 Exiled 2006年(香港 中国)
監督:ジョニー・トー
脚本:セット・カムイェン、イップ・ティンシン
キャスト:
アンソニー・ウォン
フランシス・ン
ニック・チョン
ジョシー・ホー
ロイ・チョン
ラム・シュ
上映時間:109分
■香港ノワールとは?■
漆黒の闇、退廃的な色彩、強面のギャング、銃から噴き出る煙といった〝ノワール的なもの〟(フィルム・ノワールに頻繁に見られる視覚表現形式)を思わせる視覚的アトモスフィアで、宿命から逃れることのできない男たちのセンチメンタルな歓びと哀愁を表現した本作『エグザイル/絆』は、「香港ノワール」のテキストを継承し深化させているという点で極めて重要な作品である。だが「香港ノワール」とは何だろうか、という疑問が大凡浮かぶと思われるので、作品論に入る前に、「香港ノワール」から論を展開したいと思う。
そもそも「香港ノワール」というジャンル用語は、香港ギャングたちの熱い絆と宿命の哀しさを荒唐無稽なガン・アクションで見せた『男たちの挽歌』A Better Tomorrow(86)が日本で大ヒットした際に広まった宣伝的な呼び方であった。しかし、それがいつの間にか日本で自明性を帯びたジャンル用語として普及するようになったのが事の始まりである。
日本だけで使われている奇妙なジャンル用語「香港ノワール」は、暗黒映画とも言われるフィルム・ノワールから「ノワール(noir 闇)」を頂戴していることもあって、「闇社会」を扱っているという点でフィルム・ノワールとの近似性を保っている。
そのため香港ノワールは、麻薬やマフィアが横行する香港を舞台に、犯罪組織といった闇(ノワール)社会から抜け出すことのできない犯罪者たち(主にギャング、殺し屋)や刑事たち(必ず複数形であることが重要である)を主人公とし、悲観的で退廃的、それでいてダンディズムに溢れた世界観を大きな特徴としていると言えよう。
また香港という退廃的都市空間がフィルム・ノワール的とも言える運命論的悲観主義を助長させていたことも重要である。それでいてアメリカのフィルム・ノワールに頻繁に登場するファム・ファタール(性的な魅力で男を破滅へと導く悪女)が描かれることは少なく、仁義を重んじた男同士の友情と裏切りが色濃く描かれるのがほとんどだ。こうした「ファム・ファタールの不在」と「男同士の仁義的あるいは兄弟としての絆」を強調するのは、フレンチ・ノワール(フランス製の暗黒映画)からの影響、または日本のヤクザ映画からの影響であることはよく知られている。
さらにサム・ペキンパー映画のような暴力的な銃撃戦やスローモーション、そして互いに向き合いながら銃を突きつけるというような絶望的状況での睨みあいを描くことが多いのも一つの特徴だ。こうした視覚的形式の継承は香港ノワールの先駆的作品『男たちの挽歌』を監督したジョン・ウーの演出を引き継いだものとして読み取ることができるだろう。
このように「国外脱出願望と運命論的ペシミズム」、「ファム・ファタールの不在」、「フレンチ・ノワールの影響として見なされる仁義と義理を貫く男たちの絆」、「銃撃戦に見る西部劇の引用」といった要素を持ち、闇社会に生きる犯罪者たちと刑事たちの絆をガン・アクションと絡める香港ノワールは、トランスナショナルな混成性を持ったポストモダン的ジャンルであると見なされている。そうした現状がある中で、新世代香港ノワールの旗手ジョニー・トー監督の『エグザイル/絆』の価値を熟考してみたいと思う。主に視覚表現やイコノグラフィーの視点から。
■「ノワール」と「イノセント」■
前述したノワール的アトモスフィア(ロー・キーによる漆黒の明暗。退廃的なミザンセーヌ)で彩りながら、香港ノワールというサイクルが『男たちの挽歌』(86)から継承してきた〝西部劇的なアクション〟を魅せるオープニングが傑作だ。
オープニング。二人組の男がウーという男を訪ねる。ウーは不在。その後すぐにもう一組、二人の男がウーという男を訪ねる。閉め出された男2人をカメラは俯瞰ショットで映し出し、先ほどの男たちとは全く別の思惑をもった男たちであることが視覚的に表現されていた。葉巻を吸っていることから、彼らがギャング同士であることがイメージされる。ただ一方はウーを殺す目的で、一方はウーの暗殺を阻止するためにいることが彼らの台詞と態度から読み取れる。
ワイド・スクリーンで映し出された彼らの立ち位置は、臨戦態勢であることを強調したものであり、一触即発の関係であることが視覚的に表現されていた。そして女の視線と青い車、スローモーションで展開する睨みあい、何事もないかのように荷物を運ぶウー、銃を取り出す彼らの間合い、途切れることのないサウンドトラックによって緊張感が高められていく。
一切の台詞なしに、彼らは狭い部屋の中で銃を構え、暗黙の了解の最中、男三人は銃の弾の数を互いに合わせる。こうした静かなる決闘の準備は、彼らが仁義を通した真っ当なヤクザ達であることを視覚的に表現するだけでなく、台詞を排除することで静かに積み上げられてきた緊迫感を一切崩さずに怒涛の銃撃戦へと持っていく緊迫感の継続として重要な役割を持っているから秀逸だ。
そして赤ん坊の泣き声と女性の祈りが「イノセント(無垢)なもの」を表出させ、緊張と暴力を美的なものへと変換させていく。そうして火ぶたが切って落とされた瞬間、互いに銃を向けて発砲する様がスローモーションで魅せられ、銃口から吹き出す煙が、ノワール的な雰囲気を醸し出し、暗黒気質で非現実的な世界観を視覚的に構築していたように思える。サングラスをかけた暗殺者のワイルドなパフォーマンス性も魅惑的で、観客を一気に魅了し、羨望の眼差しで銃撃の結末を見つめさせてくれるから、もはや驚嘆の溜息しか出ない。
ところで西部劇の決闘シーンを踏襲しながらも、そこにノワール的なアトモスフィアを組み込み、赤ん坊というイノセントな存在を入れることで緊迫感をより一層盛り上げる演出は、『ハード・ボイルド/新・男たちの挽歌』Hard-Boiled 辣手神探(92)あるいは『アンタッチャブル』The Untouchables(87)の引用として見てとれる。だが現在ハリウッドで活躍するジョン・ウー監督が『M:I-2』Mission:Impossible 2(00)や『フェイス/オフ』Face/Off(97)など自作で鳩を頻繁に登場させることで知られているように、西部劇的なガン・アクションを魅せる香港ノワールにとって「鳩」や「赤ん坊」「子供」といったイノセントの存在は緊迫感を持続させるため、あるいは一発の銃弾を劇的なものにするために重要な表現要素として機能しているのかもしれない。
そういう意味では本作のオープニングないしラストの銃撃戦は、「ノワール的なもの」「イノセントなもの」「西部劇の決闘」を緊迫感の中で調和させた香港ノワール的かつ集大成的シーンであり、我々はそこに香港ノワールの過去と今を見ることができるだろう。
■運命論的ペシミズム■
だが本作の銃撃戦を魅力あるものにしているのは、前述した視覚表現や視覚的なイメージの表現だけではない。また、それは『アンタッチャブル』のような悪と善の二項対立的な争いでもないし、ダイナミズムに溢れた活劇でもないだろう。本作の銃撃戦を何よりも魅力的にしているのは、銃を放つ男たちの運命論的ペシミズムであり、不器用で愛情的な友情ではないだろうか。
ボスの命令で裏切り者の幼馴染を暗殺しなければいけないという危機的状況は、ギャングとしての宿命であり、逃れることのできない自己の性に他ならない。そこにはギャングとしての憂鬱さと悲観主義が漂い、マカオないし香港という閉鎖的犯罪都市が彼らの国外脱出願望を誇張させ、彼らの末路として運命的に用意されている悲惨な最期が、再び彼らの虚しくも輝かしい生きざまを助長させる。
さらに「幼馴染、あるいは彼の妻子を守る」という義理人情で交わした約束を守るため、彼らは危険な場所に足を踏み入れ、戦いの中で倒れることを望み、自らの運命的な人生を清算するから羨望的ではあるまいか。
そうしたギャングとしての務めを果たすために、己の人生や将来を犠牲にして挑む彼らの誇らしげで宿命的な姿は、既に述べた通り、メルヴィル的な破滅的主題、あるいはヤクザ映画的とも思われる。しかし前述した彼らの生き様と死に様は、至ってジョン・フォード的なものとして読むこともできるだろう。
例えば愛する乙女の幸せのために彼女とボーイフレンドを死守し、無条件でついていく子分と共に最期の戦いに挑む愛すべき悪漢を描いた『三悪人』(26)は、後の黒澤時代劇やヤクザ映画に吸収されているし、こうした運命論的で羨望的な悪人の活躍はジョン・ウーの香港ノワールにも確認できる。男たちの〝望んでいない戦い〟は、一宿一飯の恩義で善人を斬らなければいけない流れ者のヤクザの憂鬱よりもはるか前に描かれた主題であり、本作『エグザイル/絆』で見せた運命論的な儚さは、「香港ノワール的主題」でありながらも様々なジャンルとの近似性に溢れている。そこに本作の普遍的で越境的なトランスナショナル・シネマとしての魅力があるのではないだろうか。日本で「香港ノワール」という勝手な名称が流布し、一人歩きしている背景には、そうした香港ノワールの越境する主題があるからだと思われる。ジョン・ウーのハリウッド大作が、香港ノワールのような熱狂ぶりを獲得しないのも偏に上記の「男同士の仁義、絆」を劇中に取り入れていないことにあるのではないだろうか。
また本作はラストの証明写真において、この世に我々が存在していたことを残して死にたいという彼らの未練的な涙を象徴している。フォトグラフに映る痛ましいまでの笑顔は、彼らの美しい死にざまと生きざまをアイロニックに表現したものとしても読み取れるだろう。
そうした視覚表現や主題、イコノグラフにおいても「ノワール的なもの」を強調し、「西部劇的なもの」「イノセントなもの」といった要素を混成した本作は、香港ノワールの魅力を様々な表現性によって表出した作品であり、あらゆる解釈の場を我らに提供してくれている。ポストモダン的な香港ノワールのサイクルが変化しつつある今、香港ノワールの変容と発展あるいは退廃に目を見張るのは必須であり、本作は香港ノワールの過去と今と今後を知るうえのテキストとして十分な有効性を発揮するに違いない。男臭い映画と敬遠せず、ぜひご鑑賞あれ。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■