Interview:野村万作インタビュー(2/3)
野村万作:昭和六年(1931年)東京生まれ。重要無形文化財各個指定保持者(人間国宝)。人間国宝・六世野村万蔵の次男で、兄は野村萬(七世野村万蔵)、弟に野村四郎(観世流シテ方能楽師で人間国宝)がいる。息子は野村萬斎。昭和二十五年(1950年)に二世万作を襲名。早稲田大学在学中から観世寿夫らと交わり、狂言役者の枠組みを超えて、武智鉄二演出の『月に憑かれたピエロ』など現代劇や前衛劇に多数出演する。狂言の普及と地位向上に努めたことで知られ、妥協を許さない真摯な芸風でも知られる。日本芸術院賞、紫綬褒章、旭日小綬章、文化功労者など受賞歴多数。著書に『太郎冠者を生きる』(白水社刊)がある。
狂言は基本的に能といっしょに上演されるが、内容がわかりやすいにも関わらず、能よりもその本質が理解されていない面がある。また野村万作氏は戦後一貫して狂言の地位と芸の向上に取り組んで来られたが、その軌跡はとても起伏に富んでいる。1960年代から70年代にかけての前衛舞台運動に積極的に関わった演劇人の一人でもあり、それらを吸収して芸を磨き上げて来られた。近年狂言は、能とは別に単独公演を行うほどポピュラリティーを得ているが、その立役者である万作氏に狂言の魅力、その難しさ、奥深さについてお話をおうかがいした。インタビュアーはラモーナ・ツァラヌ、鶴山裕司氏である。
文学金魚編集部
■芸の継承について■
鶴山 確かに出し物にも関係しますね。ご子息と芸についてお話されることはあるんでしょうか。
野村 あまりしませんね。しないで感じ取らせるということが多いです。『牛盗人』で申しますと、わたしはこの出し物の子役をずいぶんやったんです。その頃はまだおじいさんの五世野村万蔵と父の六世万蔵がいました。自分の台詞はよく覚えていますし、相手役の台詞も耳に残っています。
わたしが『牛盗人』の主役、シテを演じる年になったときは父に習いましたが、子役で出ていた頃の、シテの言い方や奉行の言い方が耳にこびりついているんです。そういう継承が、伝統芸能の世界独特のものとしてあります。歌舞伎の役者は出番のないときは袖から人の演技を観て、また舞台上でじっとしている時も、シテの踊りなんかを見て学び取っているんですね。
鶴山 お孫さんは指導なさるんですか。
野村 孫はこれから本格的に狂言を学ぶ年ですが、子供の頃は一部指導していました。ただわたしの主張では、若い頃はあの人にも習い、この人にも習いよりは、一人の先生に、その先生の純粋な芸をみっちり学び取る方がいいと思います。一本筋を通す方がいいというのがわたしの主張です。それが身についてから、いろいろな方の芸を学び取る方がいいと思います。
鶴山 その筋を通す役割は、おじいさんがいいんでしょうか、それとも父親の方が適任なんでしょうか。
野村 子供の頃はおじいさんがいいですね。なぜかというと、暖かく教えてくれます。父親になると、早く上達させたいものだから、すぐ手が出てしまったりするでしょう(笑)。そうすると稽古も辛くなってしまう。小学生くらいから、だんだん稽古は辛くなるものなんです。孫の裕基はこの春から大学生です。子供の頃はやらされていたけど、そのくらいの年から本格的に、自分の意志として狂言をやっていこうという気持ちになるものなんです。わたしがそうでしたから。
■観世寿夫について■
鶴山 ちょっと話がわき道にそれますが、戦後の伝統芸能の世界で観世寿夫さんは多大な貢献をなさったと思います。これは当代銕之丞さんにおうかがいした話ですが、寿夫さんがお亡くなりになった時に銕之丞さんは二十二歳で、お父様の八世銕之丞さんはいらっしゃいましたが、途方に暮れたという意味のことをおっしゃっていました。寿夫さんは大スターで、寿夫さんが舞台に出ると、観に来ている女性たちの目に少女マンガみたいに星が浮かんでいるような気がしたとおっしゃっていたんですね(笑)。寿夫さんは舞台の方ですから、御著書は『心より心に伝ふる花』くらいしかないですが、寿夫さんはどういう決定的な影響力をお持ちの方だったんでしょうか。人間的な魅力があるお方だったのかな。万作先生は密にお仕事をされたお一人ですから、是非お聞きしたいと思います。
野村 それは話すのが大変難しいですね。複雑です。そうですねぇ・・・まず天性の優れた素質を持っていた方です。美声で姿もよかった。寸法も、ちょっと高めだったけど、そんなに大きな人じゃなかった。とてもいい役者でした。観世華雪という方がおじいさんで、その方を尊敬していました。その一方で、おじいさんと同時代の橋岡久太郎という名人も尊敬していました。その上、宝生流の野口兼資という名人も尊敬していた。それが同時進行していました。寿夫さんが三十代から四十代の頃は、ご自分が持っている美質を時には壊して、尊敬する名人たちの芸を摂取していったんです。そこが偉いんです。
江戸時代は庶民の演劇的な楽しみといえば歌舞伎でしたね。能、狂言は武士の楽しみであり、教養でした。それが明治維新になり、明治から大正にかけての能は、少しお芝居がかった方向に傾いていったんです。それに反発したというか、あくまで伝統を守ろうとしたのが宝生流という流儀なんです。寿夫さんはその宝生流の名人の野口兼資さんにグググッと惹かれていったんですが、寿夫さんが亡くなる時も、ベッドの枕の下に野口兼資の写真を置いていたくらい尊敬していた。野口兼資がいいとなると、寿夫さんは天性持っていた声まで壊してしまう。「あ、あ、あ、あ、あ、あ」と、引っかかったような声で謡うようになった。
わたしは深沢七郎さん原作の狂言『楢山節考』を上演しているんですが、少し前に『楢山節考』をテーマにした楽劇学会にゲストとして呼ばれました。そこで狂言は喜劇だけども美しくなくてはいけない、まず美しく、そして面白く、可笑しくなくてはいけないんだいうことを皆さんに話しました。可笑しさが最初ではダメなんです。可笑しさは最後でいい。私は今、そういうふうに芸というものを考えているんですが、そういった考えには寿夫さんの影響があるのかもしれません。武智鉄二さん演出の『月に憑かれたピエロ』はわたしと寿夫さんともう一人の方でやりましたが、寿夫さんと何度も稽古しました。あれを観た寿夫さんと同い年のある能楽師の方が、あの劇は仮面劇ですから、「どっちが万作でどっちが寿夫だかわからなかった」とおっしゃった。寿夫さんはわたしより六歳年上ですから、わたしとしては嬉しかったですね。能と狂言の違いはありますが、寿夫さんといっしょに舞台を作っていった中で、わたしの中に彼の影響があるんだろうと思います。
寿夫さんはダンスも上手かったですよ。あの人の特徴は、元々純なものを身体の中に持っていて、いろんなものの影響をストレートに受けるんです。その影響に素直に生きていった。それを象徴しているのが女性です。
鶴山 それは女性の影響を受けるということですか。
野村 ものすごく受けます。もう昔のお話ですからお話していいでしょうけど、寿夫さんはまず伝統芸術の会のメンバーだった方と結婚なさった。心理学者の南博さんのお弟子さんだった布施浩子さんです。その方と別れて、『月に憑かれたピエロ』の衣装を担当していた福島秀子さんという前衛画家と結婚なさった。それから女優の関弘子さんと結婚しました。すべて仕事から発展しての結婚です。『月に憑かれたピエロ』でわたしはいっしょに仕事してますから、寿夫さんが福島さんに惹かれてゆくのをそばで見ていました。
その頃の寿夫さんは演劇への興味があまりなかったです。わたしが演劇の話をすると、「お前、演劇演劇って言い過ぎるよ」という感じでした。寿夫さんの弟の榮夫さんと八世銕之丞さんは歌舞伎が大好きでしたが、寿夫さんが歌舞伎について話しているのを聞いたことがない。『月に憑かれたピエロ』の頃はそれがきっかけでもう前衛に夢中でした。
それが一段落すると、『わざおぎのふるさと』などをやっていた青年座の関弘子さんに仕事を頼まれたのがきっかけで、お付き合いするようになる。関さんは寿夫さんにお能を習ってもいましたね。その頃わたしは「冥の会」という、ギリシャ悲劇などを上演する会を寿夫さんといっしょにやってましたから、そこでも寿夫さんが関さんを通して演劇に惹かれてゆく様子を見ているんです(笑)。
鶴山 それはなかなか大変そうです(笑)。
野村 寿夫さんがお亡くなりになったのは五十三歳ですね。若いですよねぇ。彼が亡くなってからもう四十年近く経つわけですが、もし彼が生きていたら、今はどんなお能を舞っていたのかなぁって時々考えます。
鶴山 ものすごく古典的な様式美に赴かれたんじゃないでしょうか。僕はW・B・イェイツ原作の能『鷹の井戸』を観世榮夫さんが舞われたのを拝見しましたが、榮夫さんはだいぶ前衛の方に行かれたでしょう。でも前衛のままでは済まないような気がします。伝統芸の方は、いずれどこかで前衛を見切っちゃう形になったような気がします。
野村 『鷹の井戸』を横道萬里雄さんが改作した『鷹姫』を、寿夫さんが舞っていますね。そのあと寿夫さんは、早稲田小劇場の鈴木忠志さんといっしょに仕事するようになるんです。それも寿夫さんの変化の一つです。さきほどお話した冥の会は、同人組織でやっていました。寿夫さんと榮夫さん静夫さん兄弟と、わたしら兄弟、宝生閑さんとかが伝統芸能の世界から参加していました。新劇からは山岡久乃、関弘子さんらが参加しておられた。十回くらいいろんな芝居をやったんですが、冥の会をやろうって言い出したのは寿夫さんで、そろそろやめようって言い出すのも寿夫さんなんですね。なぜやめるのかというと、すぐそこから鈴木忠志さん演出で、岩波ホールで上演された『トロイアの女』という前衛演劇の次なるステップになるんです。だから寿夫さんは変わり身も早いんです。そうやって自分を磨いてゆく。寿夫さんはいいところに生まれた御曹子の、一つの独特の姿じゃないでしょうか(笑)。
■演出と台本について■
鶴山 それはとてもよくわかります(笑)。鈴木さんの早稲田小劇場は唐十郎さん脚本の代表作『少女仮面』などを上演していますから、一九六〇年代から七〇年代頃が、前衛演劇のピークの時期だったかもしれませんね。先生は民藝の宇野重吉さんともお仕事をしておられますね。
野村 木下順二さん脚本の『子午線の祀り』を演出なさったのが宇野重吉さんで、わたしも出演しました。その時の宇野さんの演出上の言葉とか、説明とか、若い役者に対する注文とかが、とても勉強になった。わたしは伝統芸能の方から参加しているので、あまり注文をつけたりなさらなかったです。「ここはなるべく自然体でおっしゃってください」「あまり朗唱しすぎないでください」とかくらいでした。ところが若い役者さんたちに対する注文は違っていた。木下さんの『子午線の祀り』には現代文と古文が入り交じっているんです。宇野さんは「古文をしゃべる時に、意味がわかんないまま言ってもしょうがないだろう。一度現代語にして言ってみて、それから古文で言いなさい」と俳優たちに指導していました。それはとてもいいことだなと思いました。
われわれ能、狂言の人間は、親なり師匠なりから、意味がわからないうちに口伝えで台詞を習います。だから意味がわからないまましゃべることが平気でできちゃうんです(笑)。この頃になってそれじゃあダメだなぁと思います。先ほど話しに出た『牛盗人』でも難しい言葉がたくさん出てきます。主人公の藤吾三郎が、牛を盗んだ罪を正当化する時に、釈迦の弟子で親の供養のために牛を盗んだ人の話をして、「殺生偸盗邪淫妄語飲酒戒」とか難しい言葉をしゃべります。それを意味もわからず言ったのではしょうがないから、一生懸命その意味を考えました。そういうことのきっかけになったのは、宇野さんを始めとする演出家の影響ですね。能、狂言の世界には演出家はいません。先生から口伝えで教わりますが、誰も台詞の意味なんて教えてくれない。わたしもこの年になって、意味は自分でつかみ取らなきゃダメだなと、やっと思うようになりました(笑)。
鶴山 日本古典文学全集の解説などでは、狂言の世界では江戸初期に成立した六義本が最も古い台本で、もっと古い狂言本に天正本がありますが、狂言の筋しか書いてないということになります。先生の野村家では、本などは見ないで芸は口移しで伝承されてゆくのでしょうか。
野村 子供の頃、字が読めない頃は口移しです。字が読めるようになっても子供の頃はまだ口移しです。そのあとは本を見ながら習ったりします。さきほど台詞の意味を理解することは大事だと言いましたが、これは難しいところでしてね。矛盾するようですが、伝統芸能では、そういうことはだいぶ年を取ってからやった方がいい面があると思います。能、狂言では先生から台詞の意味の説明は一切なくて、「こうやれ。違う、もう一回」といった形で指導されます。観世寿夫さんが尊敬した野口兼資さんも「もっと柔らかく」とか、そういう言い方しかなさらなかったようです。でもこれはこれでいい面があるんです。
若い頃に頭でっかちで、意味で舞台を作ってしまってはいけないんです。意味を固定しちゃうと、芸もそこから発展しなくなってしまう。意味がわからないまま覚えたことを、後々になって理解して正してゆく、修正してゆく方がいいと思います。自分なりに意志を統一していって、台詞を柔らかく発声するといったイメージです。つまりある役をやる時に、かたくなにこの役はこう表現するというのではなくて、役の台詞を柔らかく吟味して、その役を好きになって、それを自分の声を通して観客に訴えかけるのがいいと思います。その演者と観客との交流の柔らかさが大変大事だと思っています。だから最初は先生の言う通りに習ったことを、きちんと折り目正しく学んでゆくのがいいと思います。
わたしがそういう訓練を受けたのは父親からですが、『牛盗人』の藤吾三郎の役の場合は、父親の三つ下に九世三宅藤九郎という叔父がいたんです。その叔父の演じ方と父の演じ方がだいぶ違っていた。父の演技は様式的で切れ味鋭かった。ある人は江戸前と言いました。ただ三宅藤九郎は写実派だったんです。わたしはどうやらこの二人の芸風を色濃く受け継いでいるようなんです。
わたしは父から狂言を習ったので、叔父さんの芸はあまり好きではなかった。はっきり言うと嫌いでした。でも二人とも亡くなってみると、狂言の演目が二五四曲もある中で、叔父さんの面白い狂言もあったと思えるようになってきたんです。もしかすると叔父さんの芸の質は、おじいさんの五世野村万蔵を受け継いだものだったかもしれない。そうすると、そこにだんだん一つの道ができてくるわけです。
わたしの父はあまり役を作るとか考えるとかいうことをしない人でした。天真爛漫といいますか、奔放に演じた人です。人間的にも洒落が好きだったり、人とのお付き合いもあっけらかんとしていました。わたしの知り合いの人が、父のことを「まっすぐな目線の人だった」と言いましたが、それは父にとってとてもいい言葉だと思っています。偉い人にへつらわないで、目下の人に威張らない人でした。だから狂言の代表的な人間の、太郎冠者を素敵に演じることができた。それは父の人間性が演じる役に出ていたということです。
それに対して叔父さんは、ものを作る、考える人だったんですね。それにもいい面がある。狂言の演目は様々ですから、父のようにパッと出てきて素で演じる方がいいものもあれば、叔父さんの『牛盗人』のように、一枚幕があって、心の中が見えないような演じ方をした方がいいものもある。『牛盗人』だけでなく、老婆や老人の役をやる時は、形を作ってやらないとダメなんです。そういう役をやる際には叔父は秀でていたと思います。それは二人が亡くなって、二人の芸風を同じ目で見るとわかってくることです。
鶴山 先生は二五四曲の狂言をだいたい演じておられますか。
野村 やってない曲もたくさんあります。もうこの年ですから、新しく台詞も覚えられませんし、演目を増やそうとは思いません(笑)。いま演じられる、そして年を重ねたからやれる曲を集中してやっていきたいと思います。
鶴山 先生は姿形が美しいですからね。
野村 わたしの父親が様式美をとても大事にした人なんです。父親は子供の頃、猫背って叱られていたんです。それに対して叔父はスルメって言われてた。背中が反っているような感じだったんです。わたしが物心ついた時には、父が猫背という感じはぜんぜんなかったですが、叔父さんの方は、ああスルメだなぁって思うようなところがありました。でもわたしは必ずしもスルメが美しいとは思わない。やっぱり表と内面がキレイに揃っている人が一番美しい。
鶴山 それはとても難しいことですね。
野村 難しいですね。能ではある時期、肩に詰め物をしていた時期があるんです。つまり肩を膨らませてちょっと首を短く見せて、面を普通の人間の顔のようにしたいという時代があった。さきほどお話が出た観世寿夫さんは、それをやらなかった。わたしの父に近い世代の人に、「寿夫ちゃん、肩入れた方がいいよ」と言われていたのを見たことがありますが、絶対やらない。彼は八頭身美人のような姿形を好みました。肩を落として顔だけ目立たせようとしました。それはそれで彼の美意識ですね。誰がやっても合うわけではないですが。
鶴山 寿夫さんは、写真などを拝見すると、確かになで肩に見えますね。
(2017/12/11 下編に続く)
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