「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
風習、という言葉からはどこか異国の情緒がある気がする。
その言葉がそこにあるだけで、僕は「ここではないどこか」に連れ去られてしまったような錯覚を憶える、いや実際に「ここではないどこか」に連れ去られた経験はないけど、でもそういう時が仮に自分に訪れたとして、その異国に触れた僕が感動とも恐怖とも言い難い不思議な気持ちになるとすれば、それは風習、という言葉のせいなのかもしれないと想像する。
斧枕、というものがある。
どの文献かは忘れてしまったけど、向田邦子さんの著作にて書かれていたところによると、冷たくて重たい斧を枕にして寝ると、夜の静寂を直に味わうことができて、より深く眠ることができるらしい。
ふと気づいた。
そういえば僕は斧というものを実際に目にしたことがない。現代に生きる若者的な意味でそれは「ふつう」のことなのだろうかと、すこし不安になる。
もしかしたら僕のあずかり知らないところで同級生のみんなは斧講習なるものを受けているのかもしれない。世界でいちばん、斧に詳しくないのは僕かもしれない。
なんていうか、僕にとって斧とは、スペシウム光線と同じようなものなのだ。スペシウム光線が何かわからない人だって世の中にはたくさんいると信じている。それと似ているだけにすぎない。そう思って僕は自分を励ますことにしている。
だからスペシウム光線が何かわからない人も、安心していいと思う。
斧を知らない僕が言えば、ちょっぴり説得力があるような気はする。
2003年、ぜんぶで21ステージあるツール・ド・フランスという自転車レースの第13ステージにて、カルロス・サストレというスペイン人がステージ優勝を果たした。
ゴール直前、その日自分が優勝すると確信した彼はポケットに忍ばせておいたおしゃぶりを口にくわえ、世界中のジャーナリストが撮影用フラッシュを焚く中で(実際にはまだ日暮れ前の時間帯でのゴールだったから、フラッシュは焚かれていなかったかもしれない)、そのままガッツポーズをした。
当時、彼には生まれたばかりの子どもがいて、その喜びと祝福も兼ねてのガッツポーズだった。
それ以来、自転車選手が子どもの誕生を祝う表現として、おしゃぶりの代わりに自分の親指を口にくわえてゴールする風習が生まれた。
5年後、サストレは同大会にて最も名誉とされる個人総合優勝を果たすことになる。この風習が今も多くの選手に受け継がれているのは、彼に対する敬意の表れなのかもしれない。
スペシウム光線。
よし。
松岡正剛氏の著作『フラジャイル』で紹介された、ある写真家さんの言葉を思い出す。
「土だけを撮るのは意外にむつかしいんです。近づきすぎると泥になるし、引きすぎると畑になる」
風習と似ている。
それには境目がない。先に書いた斧枕にしても、記憶では北海道にある村だったような気はするが「はい、ここからここまでは斧枕の範囲内です」というはっきりとした範囲はたぶん、ない。不思議な曖昧さがそこにある。
スペシウム光線。
よし。
いつか僕もスペシウム光線を打ちたいと思っている。
それを打てるようになったそのときこそ、僕は「ここではないどこか」へたどり着けるような気がする。
スペシウム光線。
よし。
おわり
(第39回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月5日と17日に更新されます。
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