「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
ぽとり。
飴玉のような、大きなしずくが落ちた。
終電も過ぎた駅の構内は暗く、前日の雨のせいで湿気ばかりが目立っていた。
靄だらけで、他に人影は見当たらない。
音のない線路が横たわった景色が冷たい。
ぽとり、ぽとり。
今度はふたつ、落ちた。
紗江子が数え始めてから落ちた飴玉の数はこれで20個になった。
長時間座りっぱなしだったおかげで、ベンチにお尻がくっつきかけている。
いや、もう手遅れかも。
一生をベンチつきのお尻と過ごす生活、なんて想像するだけで恐ろしい。
冷たい夜に冷たい駅、冷たいベンチ。
冷たさとは現実のことだ。
現実はいつも紗江子を囲んでいた。
ぽとり。
21個目の飴玉。
紗江子は夜空を見上げた。
星はどこにも見当たらなかった。
――ほら。
彼は満点の星空を指差した。
「星と星が手を繋いでる」
「ばかじゃないの」と、紗江子は返すことにする。
彼が住むアパートのベランダで涼んでいたときのことだった。
手すりにはビールの缶がふたつ、置かれていた。
「よくそんなセリフ、恥ずかしげもなく言えるよね」
薄手のシャツが少し肌寒いと感じるくらいの気温だったから、秋口のことだったかもしれない。
いいんだよ、と彼は言った。
「世の中はカン違いで出来ているんだから」
「初耳だ」
だろう? と得意げに彼はうなずく。
「俺のじいさんが教えてくれたんだ。カン違いだらけの世の中では月にウサギが住んでいて、鳩は驚くたびに豆鉄砲を喰らって、星たちは手と手をつないで言語をつくる。銀河には今夜も鉄道が走っている」
小休止、とばかりにビールを一口飲む彼につられて、紗江子も缶を傾けた。
炭酸がすっかり抜けていて、苦味だけしかないそれに顔をしかめる。
「あなたの空想好きはお祖父さん譲りってことね」
「だって」
だって?
「もしもずっとカン違いしたままでいれるのであれば、幸せなんじゃないかな」
そうかもね、と紗江子。
「でもあたしは銀河を走る鉄道がカン違いじゃないって知っちゃってるし」
嫌いなのよね、あの話。
えーと。
「『銀河鉄道の夜』?」
そう、それ。
紗江子は手すりにもたれかかった。
冷たいくらいに現実的な手すりだった。
「素敵な話なんじゃないかな」
僕はけっこう好きなんだけど、と呟く彼を無視して紗江子は続けた。
「小学校の頃に国語の先生が朗読したの。クラスの皆はそのときだけは大人しくしてた。その先生の授業とっても退屈で、普段はうるさいはずの教室がカムパネルラが出てくると途端に静かになるの。隣の席の子にちょっかいを出しても知らんぷり。銀河鉄道に興味の欠片ももてなかったあたしは、なんだか仲間外れにされた気がした」
「だから嫌いなの?」
かもね、と紗江子は正直にうなずいた。
嘘をつく気分ではなかった。
「あの話、最後がとてもさびしいじゃない?」
「かもね」
今度は彼がうなずく。
ビールをもう一口。
「さびしい話は嫌い?」
うーん。
缶をほぼ垂直に傾ける。
最後の苦味だ。
「あんまり好きじゃないかな」
口に出すことでなおさら強く感じた。
現実的なビールに現実的な手すり。
いつだって現実は紗江子を囲んでいる。
現実とはさびしい物語なのだ。
その事実を彼女は知っている。
「あの銀河鉄道はカン違いなんかじゃないの。現実と同じくらいさびしいんだもの」
彼は黙って、それからひとつくしゃみをした。
「中、入ろう」
彼女の提案に彼は首を振った。
「やだ」
「子どもみたいなこと言わないの」
紗江子は彼のシャツを引っ張ったが、びくとも動かなかった。
「風邪引くってば」
「いいよ」
売り言葉に買い言葉、彼はときどきひどく幼い行動をとるのだ。
*
「よくない」
無人の駅に紗江子の声が響いた。
迎えに来てくれるはずだった彼から連絡が途絶えて2時間。
彼の車がやってくる様子はまだない。
携帯電話の電池はとっくに切れていた。
――もうそろそろかな。
世の中にそれこそ星の数ほど存在する「別れ」話とやらに飲み込まれるのも。
いや、もしかしたら別れですらないかもしれない。
勝手にこっちが出会ったと思っているだけなのかもしれない。
世の中はカン違いで出来ているのだから。
紗江子はもう少し待つことにした。
それが果たして彼のことなのか、銀河鉄道のことなのか、紗江子にはわからなかった。
ぽとり。
22個目の飴玉は、彼女の頬を伝って落ちた。
おわり
(第38回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月5日と17日に更新されます。
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