なぜ子供はうんこが好きなのだろう。うんこ関係でちょっといいものだったら、ロングセラー間違いなしなのだから、あらゆる物書き・絵描きは一度は考えるべきではなかろうか。どーしても手を汚したくない、という向きもあろうかと思うが、そこらの頭悪そうな女優だって、必然性があれば脱ぎます、ぐらいのことは言うのだ。知性を売りにする出版人なら必然性をひねり出せなくてどうする。
もちろん、うんこといえば、この文学金魚ほど勇気と理解をもってそれに対峙しているメディアはあるまい。大方の文芸誌・出版社がぜーったいに却下するであろう稀代のうんこ小説を100万アクセスに向けて放出しているのだから。警察に通報されたりしないのだろうかと心配になったが、猥褻というのは性の概念と結びついているもので、排泄は猥褻とは必ずしも一致しないらしい。
法的概念としては、一般に羞恥を覚えるようなことをうんぬんかんぬん、とあり、たとえば女性の排泄を覗いたり、撮影したりすれば犯罪にはなる。しかしそれももしかして、ただ性器や陰毛がいっしょに見えちゃうからに過ぎないのではないか、と議論と妄想は果てしなく続く。
すなわち性器がまだ機能せず、陰毛もない子供にとっては、うんこは羞恥の対象ではない。小学校のトイレで男の子がうんこするといじめられるのは、コンパートメントに入ってずぼんを下ろすという女性的な仕草のためであって、やはり性差の概念が纏わりつくことで排泄は忌まれるのだ。
異性への目覚めがまだない子供にとって、魅力的なのは自我の延長にあるもの、つまり自身と似たものだ。子供がうんこをそれほど好きなのは、結局のところ子供とはうんこのようなもの、それにかなり似たものだということだろう。それを覆い隠しているのは子供ではなく、親のエゴだ。社会に対しては覆い隠されるものの、家の中ではそれはしばしば剥き出しになる。
家の中しか知らない子供は、自分がうんこのようなものであり、うんこのように扱われていると感じている。親の尻からひりだされ、親は自身の排泄物をまじまじと眺めるように子供を愛で、しかし都合が悪くなると押しやられる。なんの役割もなく、それゆえたいてい居場所がない。
本書は結構な人気であるらしいけれど、うんこ本として最高傑作か、というと疑義がある。まず何より主人公(?)は犬のうんこである。これは許しがたいすり替えであり、ここはどうしても人糞でなくてはなるまい。そして旅に出たうんこは畑の肥料となることで居場所を見い出す。これも本質を見誤っている。肥料となるぐらいのことをアイデンティティにしてしまっては困る。
想像してほしい。もしこれが人糞だったら、それもあなたの糞だったら、自ら仲間を求めて肥溜めに入り込み、野菜に撒かれて満足するなど情けなくも耐えがたくはないか。それは我が子が安い便利な最底辺の労働力として消費され、しかもそれを喜ぶという屈辱にひとしい。徹底して無用のものである、その高貴と香気がうんこだろうが。
金井純
■ サトシンさんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■