「僕が泣くのは痛みのためでなく / たった一人で生まれたため / 今まさに その意味を理解したため」
by 小原眞紀子
渡
窓を開ければ隣りがみえる
空に月がかかっていて
階段をおりるとどこまでも
くらい地底につながって
どうどうと轟音が響く
古いテキストが流れている
数多くの作家たちと
登場人物たちが身を投げた
川を渡ることができずに
僕はしかたなく
月を眺める
そこからきたという姫は
竹の節に似た小部屋で
いまも僕を待っている
鍵をあけて連れだしても
どうせ月へ帰るだろう
僕にのこされるのは
無理難題でしかない
空を飛べとか
壁をよじ登れとか
そうして君は
隣りの棟のカーテンの陰に
小声で歌ったり
猫をかまったり
かつての姫君が往き来した
夢の浮橋を
けっして渡ってこないのなら
僕もこの廊下の隅に
立ったまま向うをみている
泡
泡立つ酒をのんでみた晩
泡立つ酒をそそぐ女が
泡立つ時代を知らない男が
ヒトであるとは思えぬという
泡立つ時代に泡立って
左の端からはじけとび
地べたにまみれて身体がみえて
はじめてヒトであるという
泡立つ酒をのむ僕は
押してもひいてもただ泡をのむ
透明人間にチューブをつけて
泡で膨らませているだけだと
失敬千万なことをいう
泡立つ時代と
僕らの時代
いったい何が違うのか
僕は泡立つことはない
僕は弾けたことはない
なのに膨らんでるという
なのに萎んでもいるという
男なら万札振ってタクシーを呼び
女なら羽付き扇でアッシーを呼びつける
その意味のない勢いを
哀しみの実存を引きうける
それこそがヒトなのだと
僕が早めに切りあげて
勘定をすませると
ありがとうございます、とフツーにいう
千歳船橋まであるいて帰る
縞
西欧によくいる
神と対話したという人の本には
すべての感情はせんじつめれば
〈愛〉と〈それを失う不安〉とに集約されるとある
原理は単純な方が正しく
そのように説明した神は頭脳明晰である
そのような感情を与えたのも神である
日本で仏と対話したというのは聞かないが
カメラを手ほどきしてくれた先輩は
地表のすべてはとどのつまり
〈光〉と〈その欠落たる闇〉の縞シマであるという
シャッターを切るたび
それを確かめているようなものだ
縞というのは注意をひくもの
縞々というのは彼方からはじまり
手前で終わるからだと
あるときふいに気づいた
打ち寄せる波のごとく
繰り返す音楽のごとく
たえず話しかけ
振り向かせる
それ自体が
この地表におおきな影を落とす
僕らはそれをなんと呼ぶだろう
季節のめぐりか相場の上げ下げ
あるいは警察の取り締まりか
ともあれ僕はシャッターを切る
何をとらえるのか
とらえられるのかも知らずに
写真 星隆弘
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* 連作詩篇『ここから月まで』は毎月05日に更新されます。
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