エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第1章 聖地巡りへ
この刹那に運転手の帽子が吹き飛んだ。罰当たりな文句が彼の口を衝き、宙に舞った帽子が車の後方へと流れ去っていくのが見えた。俺自身もフィアットが急停止した弾みにつんのめり、いきおい飛び上がって ––––体が宙に投げ出されたと思いきや元の座席にどすんと着地、まったく心臓が止まるかと思った。スズ帽のリボルバーが、俺の体の動いた瞬間にホルスターを飛び出して、そのままするりと塒へ引き下がった。持ち主のほうはなにか嫌味たらしいことをぶつぶつ呟いた。運転手(第二十一分隊のアメリカ人だ)はひとりで帽子を取りに行けばよいものをわざわざ車ごと後退させた。俺もまるで四速から一気に逆回転に切り替えられたような気分だった。考えごとにふけって口は開かなかった。
運転再開 ––––遅れを取り戻そうと、飛ばしている。どうやらスズ帽は英語がわからないらしいと踏んだ運転手が小窓越しにおしゃべりをはじめた。
「おいおい、カミングズ、なにがどうなってんだ」
「なにがって」この磨きのかかった能天気ぶりには笑っちまった。
「パクられるようなことやらかしたんだろ」
「かもね」もったいぶった生返事をしながら、俺は自尊心が新たにわき起こってくるのを感じた。
「ま、お前じゃなきゃ、Bの野郎だな」
「さあ」俺はとぼけて、狂喜する胸の内を押し隠した。あれほど晴れ晴れと心が弾んだのは後にも先にもない。俺はそう、まさしく、囚人だったんだ! そう、ほんと、金輪際カタをつけてくれた神様に感謝いたします ––––もう衛生分隊とはおさらばなんだ! A氏とも、磨きがどうの礼儀がどうのという連日のお説教とも。気づけば俺は鼻歌を口ずさんでいた。運転手が口を挟んだ。
「スズ帽にフランス語でなんか聞いてたな。なんつってた」
「あっちのルノーに乗ってるやつはノヨンのサツの親分なんだとさ」俺は適当に返事した。
「マジかよ。しかしこのへんにしようや、にらまれちまうぜ」––––運転手が首を振ってそれとなくスズ帽に目をやると車があざやかにドリフトした。フィアットの幅いっぱいに揺さぶられたスズ帽のスズ帽ががちんと鳴った。
「鐘も鳴ったことだしな」と俺は運転手の腕前を褒め ––––それからスズ帽に向かって「負傷兵を乗せるのにうってつけでしょう」と愛想を述べた。返事はなかった。
於ノヨン。
俺たちは封建時代の牢屋のような気味の悪い建物に乗りつける。すると運転手には何時何分にどこそこへ行け、それまでの間はサツの親分殿と会食をする手筈だと伝えられる、なに居所は目と鼻の先だ ––––(俺がスズ帽を通訳しているんだ)–––– あとは、そうそう、こちらの名高いアメリカ紳士を招いて昼食をともにする光栄に浴するのは親分殿たっての御所望だそうだ。
「それって俺のことなのか」と運転手は馬鹿正直に聞き返した。
「もちろん」
Bと俺については一言もない。
さて、念には念をと、まずはスズ帽そのあと遅れて俺という順で、車を降りる。フィアットがゴトゴトと走り去っていく、アメリカ人紳士の名高い頭がにゅうっと一ヤードも車から突き出して後に残る俺たちをじろじろ眺めていたが名高い顔ときたら完全に狐につままれたように呆けているもんだから俺は吹き出しちまった。
『はらへったか』
太古の蛮族じみた物言いだった。囚われの身であること、それはわかってる、つまり何と言おうが何をしようが付け込まるばかりで何一つためにならない身の上だ。数瞬の間にあれこれ思い計ってはみたがどうしたって馬鹿正直に答えるほかはないと、意を決した。
「象一頭まるごといけますよ」
スズ帽は俺を炊事場の中まで連れ込んで、腰掛けひとつしかないところに座らせ、料理人に荒々しく言いつけた。
「フランス共和国の名においてこちらの大悪党に食い物をやれ」
そして俺は三ヶ月ぶりに飯を味わったんだ。
スズ帽もまず頭のスズ帽を脱いでからベルトを緩めて、俺の隣に腰掛け、大型の折りたたみナイフを開いて、飯にありついた。
もう決して無かったことにはできそうにないあの食事の最良の思い出のひとつは大柄で優しくてたくましいおかみさんのことだ、彼女は炊事場に駆け込んでくるなり俺を見て叫んだ。
「だれ?」
「アメリカ人だよ、おっかさん」フライドポテトをもぐもぐ食いながらスズ帽が答えた。
『なんでうちにいるわけ』おかみさんは俺の肩に手を置いた、実在している人間だとわかってひとまず落ち着いたようだった。
「なぜかは神様が御承知だろうさ」スズ帽は面白がっていた。「俺の知ったこっちゃあ–––– 」
『まあ、気の毒な子』と言うおかみさんはじつに美しい人だった。「あんたここの囚人になるわけね。ここの囚人たちにはね、母親代わりがいるの、わかる? それがあたし。囚人たちを愛して世話してあげてるのよ。いい、よく聞きなさいね、あんたの母親代わりになるのも、あたしよ」
俺はおじぎをし、彼女のために乾杯できるものはないかと見回した。スズ帽が目を光らせていた。大きな赤ワインのグラスに目が止まった。「いいぞ、やれ」そう言って、我が看守はにこりとした。俺はグラスを持ち上げた。
『すてきなおっかさんの健康を祝して』
––––このキザな振る舞いが料理人(小柄でてきぱき働くフランス人だ)には大いにうけて空っぽだった俺の皿に山盛りすくったポテトのおかわりを何杯もくれた。スズ帽も見咎めたりしなかった。
「そうだ、食って、飲んで、今後のためにたくわえときな」そう言うとスズ帽のナイフが白パンの風味豊かで分厚い塊をもうひとつギロチンさながらに切り落とした。
結局、たらふくごちそうになり、俺はおっかさんにお別れの挨拶をしスズ帽の案内で(といっても先頭は俺だ、いつものことさ)階段を上がった先の狭い寝所へと通されたがその部屋の誇る設えといえば敷布団が二枚とテーブルの前に座っている男、そしてその手に握られた新聞だけだった。
『アメリカ人だ』とスズ帽が自己紹介代わりに言った。男は新聞を放り出して、「よくいらっしゃった。まあくつろいでくれや、アメリカ人どの」 ––––そしておじぎをして出て行ってしまった。我が看守はすぐに布団に寝転んだ。
俺がもう片方の布団で同じことに興じる許しを乞うと、眠たげにその許可が下りた。半ば閉じた瞼のうちに俺の自我も寝転んで物思いに沈んだ。おいしい食事をたらふく味わったばかりだが、次はなんだろうな、大悪党になるのもいいもんだなあ……だが、ちっとも眠くならないので、俺は『ル・プチ・パリジャン紙』を隅から隅まで読み込み、尿管云々とかいう広告にまで目を通した。
おかげで催してきた ––––俺はスズ帽を起こしてたずねた。「公衆便所へ用足しに行きたいのですが」
「下だ」スズ帽は寝惚けた声で答え、またすやすやと寝息を調えた。
裏小路には人影ひとつなかった。俺は二階へ上がる途中でしばし足を止めた。階段は常軌を逸した汚さだった。部屋に入ると、スズ帽は高いびきをかいていた。俺はまた新聞を読み返した。きっと三時をまわっていたと思う。
突然スズ帽が目を覚まし、しゃんと立ち上がってスズ帽の緒を締め、つぶやいた。「時間だ。ついて来い」
警察長官の事務所が目と鼻の先というのは、ほんとうだった。玄関の前には例の働き者のフィアットが停まっていた。石段の上で待機せよと告げるスズ帽の口ぶりが格式張っていた。
なに、ほかに知ってることがあるかって? ––––アメリカ人運転手は興味津々だった。
俺はこの指がまだタバコをきれいに巻けることに満足感を覚えつつ、煙をふかしながら「いや」と答えた。
運転手はぐっと顔を近づけてきて大々的にこう囁いた。「お前の相棒は二階にいるぜ。ありゃたぶん尋問中だな」これをスズ帽は聞き逃さなかった。元どおり回復した彼の軍人気質は囚人の差し出す巻タバコには目をつぶっていたが、こればかりは一も二もなくその逆鱗に触れたのだった。
「そこまでだ」とスズ帽が一喝した。
さらには俺を唐突に二階まで引っ張っていく、そこで俺はBともうひとりのスズ帽が事務室のドアから出てきたところに出くわした。Bは妙に元気そうに見えた。「俺たち二人とも刑務所行きで決まりだぜ」Bははっきりそう言った。
この知らせに緊張が走ったが、後ろからはスズ帽にせっつかれ、前からは警察長官じきじきに手招きされ、俺は漫然と押し流されて小ざっぱりと整頓された実務志向かつ程よくアメリカ的な部屋に足を踏み入れていた、その途端にドアが閉ざされ俺の案内役だった男は部屋の内側からの監視役となった。
長官殿が口を開いた。
「両腕を上へ」
それから俺のポケットをくまなく探った。タバコ、鉛筆、折りたたみナイフ、あとはフラン硬貨が何枚か出てきた。押収した品々をちりひとつない机の上に並べて言った。「これらは持ち込み禁止だ。私のほうで預らせてもらう」そうして正面切って俺を冷ややかに見つめたまま他に所持物はないかと詰問した。
たしかハンカチが一枚と俺は答えた。
さらに問い質す。「靴のなかになにか隠していないか」
「足だけです」と落ち着き払って返した。
「こっちだ」長官はそう冷淡に言い放つと、俺が気付いてもいなかったドアを開けた。一連の礼節への返礼に会釈してから、俺は二号室に入った。
俺の目がのぞいた先にあったのは机を囲んだ六つの目玉だった。
(第03回 了)
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