エズラ・パウンド、T・S・エリオット、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドらと並ぶロスト・ジェネレーションを代表する作家、e.e.カミングズ。優しくて人嫌いで、前衛作家で古典作家でもあったカミングズの処女作『The Enormous Room』の星隆弘による新訳!。
by 星隆弘
第1章 聖地巡りへ
大成功さ、アメリカ赤十字社ノートン=ハージェス救急隊第二十一衛生分隊所属志願運転兵としての半年間の任期を、Bと俺は三ヶ月弱で済ませたんだ、そしてその後体験することを踏まえればこう宛字してしかるべきその運命を境に、分隊長の私物のT型フォードを洗車して油をさしておく(正式に言うとお清めする)くそみたいな仕事ともすっぱり縁が切れたわけで、この分隊長なる紳士のことは便宜上A氏としよう。偉大なる我が国大統領閣下の独特の言い回しに倣えば、プロイセンの暴虐の魔手から文明を救わんとして着手した大仕事をついにやり遂げた我々が味わうはずの湧き立つような高揚感でさえ、御生憎様、なんの因果か俺たちの上官となった男とどうしても打ち解けられなかったがためにいくらか興醒めした。というか、アメリカの下衆な言い回しになるけど、Bも俺もA氏はムリだった。こちらから味方して援助を買って出たフランス兵に対しアメリカ人が取るべき態度について俺たちは根本的に相入れなくて、A氏は「お前らも小汚えフランス人とは付き合いたくねえだろう」とか「我々はあのクソどもにアメリカ式のやり方ってもんを教えてやるために来たんだ」とかのたまうものだから、俺たちはことあるごとに彼らと仲良くしようと務めた。俺たちの分隊にはいろいろな仕事を受けもつ八人の小汚えフランス人(料理人、倉庫番、運転手、機械工その他)が配属されていたしそもそも分隊がフランス軍支部隊の配下に属していたわけだから、仲良くなるのは簡単だった。だけど俺たちが理想的な態度を取るつもりなんかさらさらないんだとわかると、A氏(とあいつの通訳役のフランス人少尉も ––––なんせ分隊長のフランス語能力は、数年来の英雄的貢献のうちに身につけただけあって、「リョーカイ」「ヨロシイ」「オイ、キサマ」の三つでほとんど成り立っていた)は俺たちから運転手の役目を果たす特権を取り上げることに専念した、俺たちのナリが隊の名誉を損ねるかららしい。このことで、言っておかなきゃならないのは、A氏はただ前任の分隊長が作り上げた伝統を受け継いでいるだけなんだ、その前任者はP氏とかいう、ハーバード出身の男で、Bと俺の生活を見事に悲惨極まるものに仕上げてから第二十一分隊を去っていった。このいやな話を切り上げる前に言わせてもらうと、少なくとも俺に関する限り、俺の不躾な性格にくわえてル・マタン紙が(記憶違いじゃなければ)泥の英雄と絶妙な渾名をつけてくれたところの確固たる素地になったのがこの伝統さ。
お清めを終えると(この頃にはもう俺たちはその道の達人だった、運転手とその助手ですら汚なすぎて手がつけられないと思うような車をなんでもかんでも押しつけて洗わせてくれたA氏の人間性のおかげだ)俺たちは勝手に使える水をさがした。Bはさっさと沐浴を済ませた。俺はひとりでなにげなくぶらぶらして炊事車のあたりから二つあるテントの片方に向かって歩いていた ––––そこでは夜になると四十人余のアメリカ人が文句を言いながら体を丸めて寝泊まりしている–––– 手には歴史的なチョコレートの一欠片を持っていた、そこにウソみたいに地味なフランス軍服姿のこぎれいとまでは言わないがさっぱりした身なりの紳士がきっちりとスズ帽をかぶった兵隊二人に付き添われて本部に乗りつけてきた、そのルノー車の痛ましいまでの輝きの前では先程の労苦も恥じ入らされるばかりだった。どう低く見積もっても将官級だ、それにひきかえ俺のひどく着崩した軍服姿の残念なことときたら、作業ズボン一丁でタバコくわえてるんだから。
紳士殿が車を降りて分隊長と通訳のために隊に同行している例のフランス人少尉のごたいそうな歓迎の挨拶を受けているのをこっそり眺めてから、俺はテントにとって返した、そこではBが手荷物を掻き集めてぎょっとするほどうず高く積み上げていた。周囲には仲間の連中が群がっていて俺がテントに入るとやたら興奮した様子で挨拶をくれた。「お前の相棒出ていくんだってさ」と誰かが言った。「花の都パリだってよ」と、それこそパリ行きを志願して三ヶ月もねばっていた男が言を継いだ。「針の筵の監獄のまちがいだろ」と言ったのは根っからの楽天家ですっかりフランスの風土が性格に染み付ちまった男だ。
ずっと口を噤んだままのBの雄弁な沈黙にわけがわからなくなりながらも、俺はとっさにBのこの状況と謎の来訪者の出現とを結びつけ、あの旦那がどこのお偉いさんでどういう神聖な任務を携えてやってきたのかをあのスズ帽のひとりに問い質そうと思うといてもたってもいられなかった。俺たち以外の分隊員全員に七日間の休暇が与えられたとは聞いていた ––––俺たちよりも後に配属されたために俺たちよりも後回しになるはずの二人だって休暇を取っていた。それでもフランソワ一世七番街の救急隊本部にはノートン=ハージェス組合代表のノートン氏がいるはずで、父と旧知の仲だったはずだ。あれやこれやと考えを巡らせて出した結論は権威あるノートン氏がA氏に使者を出して俺と親友がここで受けている種々様々な侮辱虐待の申し開きを求め、なにより待ちに待った休暇を確保してくれるのだろうということだった。だから俺はうきうきしながら本部へと走った。
だが本部まで行くことはなかった。例の謎の紳士が、少尉殿と話しているところに、途中で出くわしたんだ。そのときはっきりと聞こえた、「で、カミングズというのは(フランス人が俺の名を正しく発音したのはこのときが最初で最後だ)どこにいるのかね」
「ここにおります」と答えて敬礼しても、二人は気にも留めなかった。
「そうかね」つかみどころのない返事をする謎の紳士の英語は潔癖なほど明瞭だった。「君の荷物を一つ残らず車に積みたまえ、今すぐにだ」––––それから、神出鬼没に主人の手元に姿を現した、スズ帽一号に向かって–––– 『この男に連れて、荷物を積み込んでこい、今すぐだ』
俺の荷物はほとんど調理場の近くにまとめてあった、そこに寝泊まりしている料理人や機械工や大工やらが(十日ぐらい前から)すすんで俺の居場所を作ってくれて、いつだって三分の二は泥で埋まってるようなテントに十九人のアメリカ人といっしょに押し込まれて眠らなきゃならない辱めから俺を救い出してくれた。俺はスズ帽をそこに案内した、彼は不思議でたまらないといった様子であちこち吟味してまわった。俺は急いで手荷物を袋に詰め込んだ(置いていきたいような細々したものまで、スズ帽は詰めろと命じた)そして片腕にズック袋を持ちもう片方の脇には巻き布団を抱えて、例の小汚ないフランス人の素敵な仲間たちに挨拶をしに行った。みな一つのドアから一斉に飛び出してきて、寝耳に水という顔色だった。別れの挨拶もだがなんとか事情を説明しなきゃならないと思い、持てる限りのフランス語でこう伝えた。
「紳士諸兄、親友、仲間のみんな ––––俺はすぐにここを出て明日ギロチンにかけられるんだ」
「いやギロチンとまではいくまい」とスズ帽が答えた、その声は俺のうきうきした気分の背筋を凍らせた。料理人と大工は聞こえるほど口をあんぐりと開け、機械工は手の施しようがないほどぼこぼこになったキャブレーターにしがみついていた。
分隊所有の車の一つだったフィアットがエンジンをかけて停めてあった。俺がルノーに近づこうとするのをネモ将軍は断固して許さず(ルノーにはBの荷物が積み込まれていた)フィアットのほうに敷布団も巻き布団もみんな積み込んで乗るようにと手で合図した。スズ帽も飛び乗ってきて、俺の真向かいに座るものだからとてもじゃないが気が休まらない、俺は例のごとくこの分隊から抜け出せることとなによりA氏とおさらばできることで舞い上がっていたわけだけど、この車内はまるで脅迫されているような雰囲気だった。フロントウィンドウ越しに親友がスズ帽二号とネモ将軍に付き添われて走り去っていくのが見えた。だから俺はあわてて手を振って知り合いのアメリカ人みんな ––––三人いた–––– に別れを告げ、A氏とは名残惜しい挨拶を交わすと(俺たちとお別れすることが残念でならないんだとさ)クラッチがガクンと入った衝撃が体を揺さぶった ––––そうして俺たちも前の車を追って走り出した。
スズ帽一号の態度がどんなに悪い予兆を知らせていたか知らないが、忌々しい分隊と隊員の馬鹿どもの姿が見えなくなっていくときに感じた身震いするほどの喜びの前ではそんなものなんの意味も為さない ––––どこかも知らない土地へと誰かも知らない人の奇跡のような導きによって連れて行かれる文句のつけようがない本物のスリルだ–––– 俺が俺でなくなることを職務規定された腐り爛れた無聊の日々から晴れ晴れとした冒険の世界へ引きずり出してもらったのだ、グレイブルーの軍服を召した機械仕掛けの神と二人のスズ帽兵の手によって。口笛を吹き、鼻歌を口ずさみ、俺は対面の男に威勢良く尋ねた、「ところで、ぼくとBをこの小遠足に連れ出してくれたあちらの粋な名士様はどなたなんです?」うなりを上げるフィアットの揺れの間を縫って、窓枠をぎしりと握って体の安定を保ちながら、スズ帽は落ち着き払って答えた、「ノヨン警察庁長官殿だ」
この返答が何を意味するのかは皆目見当がつかなかったが、俺はにこぉっと笑った。反射的な微笑みが、同乗者のくたびれた頬につい屈託無く浮かんで、ぶかぶかの兜のために無理矢理にも忘れ去られんとする大きく立派な耳にまで遠慮なく達して消えた。俺の視線も、耳からヘルメットへと飛び移り、そこに刻まれた紋章にそのときはじめて気がついた、花咲き誇る火花とか、やたらふさふさな尻尾のライオン紋章かも。俺にはそれがやけに愉快でちょっとばかばかしくも見えた。
「じゃあぼくらはノヨンに向かってるわけですね」
スズ帽は肩をすくめた。
(第02回 了)
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