グーグーだって猫である2
WOWOW(放送終了)
原作のファンから激越な批判が寄せられているシリーズだ。しかもその批判のトーンがほぼ一貫している。付和雷同しているというより、世界観を共有しているといってよい。通常の漫画の原作のものでは、キャラクターのイメージが違うというのが主な苦情で、主演俳優への好き嫌いというコメントに落ちてゆくが、それとも別で、宮沢りえが悪いというのでもないらしい。
あえて原作を知らない立場で感じるところ、宮沢りえは確かに悪くない。映画の小泉今日子よりあってると思う。ただ何にあってるかが問題で、宮沢りえをして表現しているところのほんわかした雰囲気がすでに違うのだという。大島弓子で、このタイトルで、ほんわかしていないというのは、にわかには理解しがたい。
つまり、理解しやすいように翻訳されているらしい。翻訳されているのがキャラクターなりプロットなりであれば、テーマを伝える手段として納得できるけれど、テーマそのものが把握しやすいように改変されている、というところが我慢ならない、というならよくわかる。だったら別のタイトルの別作品になぜしない、という。それはその通りだ。作品とはすなわちテーマなのだから。
原作は、猫たちと暮らす女性漫画家の、一見ゆったりした美しい生活にも生死の境そのもののような淵があって、それを過不足なく淡々と表現しているのに、ということならば最良の文学だ。それを映像で表現することが断念されたのなら、すなわち映像制作の側の敗北宣言にほかならない。
ドラマシリーズ2 では、もしかしたらその批判を受けて少しスタンスが変わったのかもしれない。ただ、ドラマだけを観たという立場からすると、何に歩み寄っているのか、あるいはいないのかは視野に入らない。なんとなく表現したいものが、あるいは表現したいものはこれであるというポーズが、あやふやになる結果をもたらしている気がする。ポーズであっても、それだけ観れば一応納得できたものを、というわけだ。
猫と女性漫画家のほんわか生活、という描き方がどれほどの欺瞞であったとしても、まあ、みるからにそういうテーマだろう、と大方を説得してしまえば話は早い。そこにそれだけではないシビアな何かを持ち込もうとしても、原作と同じ味わいになるとはかぎらない。とってつけたようなシビアなエピソードを挿入するしか方途としてはなく、あるいは本来は主人公がすでに超越していることに悩むふりをさせるしかない。
ドラマだけを観て、たとえばアシスタントの女の子からふっかけられる議論にまともに対応する女漫画家という存在が、なんだか腑に落ちないのだ。仕事に関する意見の対立にしては甘ったるい。どんなにおっとり見えても、そういう未熟さは見飽きてきたはずのプロの漫画家が動揺するはずもない。
シビアさをリアルに描くなら、冷たく相手にもしないはずなのだ。それでは宮沢りえの妖精みたいな可憐さに傷がつくなら、アシスタントにゴタクなど並べさせなければいい。若い子の焦燥や絶望感は映像だけでも伝わるし、それならば宮沢りえの空気感に影響を与えない。偉大な批評家集団である原作ファンには、ただ映像を突きつければいいのではないか。
田山了一
■ 原作者 大島弓子さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■