偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 高校時代の話ですけど。学年全体で山奥の方に行って一泊してくるという行事がありました。なんとか青年の家というちょっと宗教っぽい感じの施設に行ったと記憶してます。
五人グループの単位でウォークラリーをやったのですが、近道でラクできないものかと、男の子ふたりと道をちょっとはずれてみました。
その時、木のかげに巨大な生物が動いていたのです。
いえほんと、実際のたうっているように見えて、ふだん動じない感じの鬱っぽい男子が「へびっ」と飛びのいたくらいですから。
直径は5cmくらい、長さは40cm以上余裕でありましたね。そんなのが2本、十文字に重なっていたのです。生物じゃなくて、うんこでした。つやつや木漏れ日を反射して光っていました。
下のうんこは、先端部分が真っ黒い岩の塊がゴツゴツ集まっているような、そこらの石より硬そうでした。
先端から遠ざかるにつれて、徐々に普通のうんこっぽくなっていき、それでも岩ゴツゴツに近い部分は罅割れが多くてまだ堅そう。だんだん柔らかそうに、罅割れのない滑らかな表面へと、断絶も飛躍もない滑らかなグラデーションが見事でした。
その上に横たわるもう一本は、全体的に色が明るく軟らかそうでした。下のうんこの末尾と上のうんこの頭がしっかりと、アフリカと南アメリカの海岸線そこのけに対応していて、途中で切れた有様がその新鮮なギザギザ断面からよくわかりました。このジグソーパズル的ピッタリは二つの点で重要です。第一に、二つの太長ウンコは、肛門の収縮によって切断されたのではなくて、一本目の自重によって切り離れたということですね。これは、排便主の肛門と地面との距離(みんなウォークラリーなりの靴でヒールにも限度がありましたから、股関節の柔らかさを除けば精神状態によって尻地間距離がだいたい決まったでしょうけど)がかなり長かったために切れやすかったのか(つまり野グソ特有の後ろめたさと緊張と警戒と気合を帯びた腰高排便だったのか)でないとすれば尻地間距離が短かったにもかかわらずその尺ぶんの自重においてすらこの見事な切れっぷりという高密度質量だったのか、そのいずれかが窺われるわけですよね。メンタルもしくはフィジカルな両面を持つという、それが第一点。第二点は、二本合わせると一メートルにもなろうかという長あい太おい物体が通過するあいだ、肛門が開きっぱなしだったという事実です。かなりの膨張力を持つ便意が一気解放されたという「事件」がここに展開していたことを物語るわけですよ。推定快便度からして肛門通過速度を平均秒速五センチと見積もったとすれば、二十秒間にわたる排便経験がここに灯っていたわけですよね。
しかも感動的なことに、当該排便経験は二十秒では済まずゆうにその三倍にわたり、排泄速度も緩急に富んだ美的なリズムに彩られていたという証拠がありました。というのは、二本の両断面がかなり離れた地点にあったんです。だいたい十文字を直径としてその円周三分の一程度すなわち六十センチは離れていたでしょうかね。これが意味するところって、一本目が切れた残りの二本目を肛門からぶら下げたまま、排便主が尻を移動させたということでしょ。たかが六十センチとはいえ、便意を体内に残しながらの肛門開きっぱなししゃがみ移動は大変だったに違いありませんよ。しかしその大変さを克服するだけの執念、快適な体勢で排便を遂げたいという排便主の〈幸福への渇望〉〈前向きな意志〉がこの排便跡にありありと刻印されているわけです。このようなミクロなプラスの痕跡が、無数のそういう痕跡が集まって、私たち人類文化の存続を保証していると言っても過言ではありませんから。
ともあれその極太長大便2本が、基本十文字に、しかし両方ともうねっているせいで2匹の蛇が生きて絡み合って交尾している様子に見えました。しかもそれぞれに一匹ずつ、銀バエが張り付いていました。もがいていました。芳香につられて着地してみたはいいがあまりの粘着度に脚を取られて脱出できなくなっているハエ取りリボン状態。二匹とも、蛇の背に沿って歩いているうちに、グラデーションの粘土の変化に足もとを合わせるのをつい怠って、からめとられてしまったのでしょうねえ……。グラデーションぶりの見事な確認であるとともに、人間的充実意思と卑小な虫けらの断末魔とのコントラストがそれはそれはミクロに感動的でしたよ。
ってそのすぐ横には、これでもかと駄目押しをするようにどろどろが山になっていました。フライパン一杯半分くらいはありそうでした。その黄土色のもんじゃの縁が、絡まる極太便にちょこっと接しているのがまた味でした。これを合わせると排便時間は合計百二十秒以上かかったことでしょう。逆に言えば、これだけの物量を(合計一キログラムはあったかと思われますけど)二分間で多彩排泄しおおせた主の〈人生充実の実感〉はいかほどであったことでしょう。私は嬉しくなりました。硬い岩蓋が押しのけられた瞬間、まず大ヘビがのたうち出て、そしてその奥に封じ込められていたマグマが一気に噴出した構図って、人類の歴史の革命に次ぐ革命をメタファーで表わしてくれていました。世界史でルネッサンスと宗教改革の発表をさせられた後だったので尚更そう感じた私だったのかもしれません。蛇嫌いの男子二人は、この人生充実の証を蛇と思い込んだまま先に行ってしまっていました。
ついでに言うと、お尻を拭いた紙らしきものが近くに見当たらないのも、この光景に迫力を添えていましたっけ。
戻ってから(充実の証を観たせいか私、先に行った男子二人より早く着いてしまったのです)、クラスの女の子がラリーの途中で腹痛をおこし、途中で引き返したという話を聞きました。
本人は気にしてるだろうからもちろん詮索しなかったのですが、あんなうんこをするとは、よほど便秘が続いていたのでしょうか? それともあの見事な数学的とも言える、エアブラシでも描けないような硬→軟、濃→淡、暗→明のグラデーションからして、ああいう体質なのでしょうか?
翌日の朝トイレで、たまたまその女の子が出たあと同じ個室に私は入って、びっくりしました。便秘じゃなかったのです。体質だったのです。
体質ってつくづくすごいですねえ。
またしても大量の、太いのと下痢が混ざったのがどどーんと残っていたのです。傾斜のついた堆積が便器の縁に届くほどにね。容器が違うので前日のと見た目がまったく同じではありませんでしたが、印象が全く同じでした。ホントに同じだったんですよ。ご丁寧に大きなハエが二匹表面でもがいていました。さすがに前日のと同じ個体ではなかったでしょうけど。上の方は下痢で埋め尽くされていたとはいえ、下に大蛇がいることはうねうね胴体の一部が端っこに露出していることでわかりました。私の記憶がつられてしまったのか、その子のお腹の仕様がすごい正確なのか、とにかく前日通りの一キロウンコが水をせき止めた的に便器内後部の空間に水が溜まっていたので察するべきだったのですが、私はうっかりもう一度流してしまい、本体はびくともせず水が逆流してボコボコドドッと床に溢れました。茶色い水がトイレじゅうに拡がり、大騒ぎになりました。
でも、下痢の部分ですらちっとも溶けた形跡がなくほぼ原型で鎮座し続けていたのですよ。水流を跳ね返すだけであんな水があふれるものなのか、うんこが溶けてないのになんであふれた水があんなに濃い茶色になったのか(ウンコ本体より濃い茶色でしたっけ)、ほんと謎です。
濃厚成分だけが溶け出したとでもいうのでしょうか。
そのあと、私が罪をかぶったのかどうか、ご想像におまかせします。
この経験談の縮約版を、金妙塾入塾前に高塚雅代はhttp://server2045.virtualave.net/piipii/omo/omo13.htmlに投稿している。
なお、「体質」がらみでプチ重要な事実(おろち考古学会設立後に最初に登録された公式事実)を注記しておこう。高塚雅代および体験談中の排泄主である芳谷佳奈美の二人は、この合宿に向かう通勤電車の途上、体質者の密接作用を通りすがり的に受けていたことが実証されているのだ。
高塚雅代は五駅分の距離を蔦崎公一と背中を接して立っており、芳谷佳奈美は七駅分の距離を袖村茂明と肩を接して座っていたのである。この初期おろち史上二大体質者それぞれの波動を至近距離で浴びた通りすがりの人数はもちろん膨大で、その全員が何らかのおろち体質に感染したわけでももちろんないが、両体質者の波動が一定周期以内に合流した場合、波動の干渉現象によりなんらかの主観的スペクタクルが展開せずにはいない、というその閾値を細密計算した初期理論家たちの予測が、おろち考古学により実証されたというわけである。興味深いのは、物理的には袖村ビジュアル体質に感染したはずの芳谷佳奈美ではなく蔦崎クワサレ体質に感染した高塚雅代の方が目撃主体となり、芳谷佳奈美の方は直接に蔦崎体質を反映することなくわずかに銀バエ四体分の末期食料提供側に回ったという極微視的意味での反クワサレ食わし体質を短期開示したということだ。それが「波動の干渉」にしばしば現れる「不完全反転」というべき教科書的現象である。いずれにせよ臨時感染者の体質は極度に一時変換され、普段はきわめて少食かつ少糞体質の芳谷佳奈美にしてみればあの二日間だけなぜ生涯随一の大量脱糞がわが身を津波のごとく襲ったのか、まったく理解できぬままであった。
すでに見た「ナオミちゃんエピソード」(第2回、第21回参照)をはじめそれなりにおろち系体験豊富な高塚雅代にして、このときの連日経験は「最高度に記念的な初期体験」として印象に残っているのだという。というのも、さらに一つ重要な事実を忘れてはならないからだ。高塚雅代はこの体験談において、排泄主芳谷佳奈美の動作をも一部克明に記述しているが、実のところ現場状況を手掛かりに近過去の現場風景を眼前再構成する知覚能力がこのとき発揮されていたのだった。一種の「サイコメトリー」に相当する。プレ句会の高塚雅代は観念的推測を装って語っていたが、実のところ具体的イメージとして観察現場の過去状況を視認できる能力をこのとき獲得しており、その自覚もあったのだった。サイコメトリー能力はこの一件のあとしばらく潜在していたらしいが、不定期に顕在化し、後のおろち史最初期の致命的大転機となるあの
「蔦崎事件」……
「印南事件」……
の両方において、生還者の証言では確認しきれなかった諸事実を現場状況から再構成し検証したのは、実にこのサイコメトラー高塚雅代だったのであるが……。
サイコメトラー高塚雅代。
件の野グソと便器内大グソが高塚の目に「容器が違うので前日のと見た目がまったく同じではありませんでしたが、印象が全く同じでした。ホントに同じだったんですよ」と見えたのは、大便の視覚像を通じて、排便時の芳谷佳奈美の姿勢、モノの出方、積もり方などが見えていたからに他ならない。
サイコメトラー高塚雅代。厳密には、おろち系専科サイコメトラー高塚雅代。
高塚はその後、すなわち「蔦崎事件」「印南事件」のあと、警察からの犯罪捜査協力要請に対し、「ええと、そのう、だめなんです、排泄物が、そのう、とくに大の方が、現場に残っていないと、見えないんです、聞こえないんです」という理由で辞退している。
ちなみに現代科学の知見では、おろち系以外の分野でサイコメトリー(排泄物以外の物質、便所以外の場所を手掛かりにした映像視認・残留思念読み取り能力など)が存在する証拠は得られていない。通常のサイコメトリー(非おろち系サイコメトリー)は依然として疑似科学の範疇に属するので注意されたい。
いずれにせよ蔦崎公一・印南哲治の一種偉業を大惨状ごと再構成でき記録でき歴史的共有ができている現在的知的水準は、高塚雅代にサイコメトリー能力がハイパー袖村的目覚めを得た産物なのだ、ということこそ反復想起心眼的想起に値する事実なのである。
高塚雅代の次に話した中学理科教師・稲室憲正の即興黄金小噺も実体験に基づくものだということで、これが桑田康介を最も勃起させた話だったのだが、次のような句だった。
‰ 僕が通っていた大学の男子トイレは個室の下から――(第52回参照)
(第86回 了)
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