偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 袖村茂明に尻谷以奥を見られた女は夭逝する、という法則が袖村自身の中に形成されなかったとはいえない。袖村が高校時代から盛んに小説を書いては文芸誌に投稿するようになったのも、おのれが因果の一環を担っているかもしれない人命連鎖のあはれさが身に染みていたというリニアな動機が与かっていなかったとはいえまい。
という問題意識の線上にて次の文章を見よう。【袖村二十一歳当時の文芸誌新人賞応募作品『萬象常眞』の第三章第九十七段落より】
見上げる視線と見下ろす一瞥は衝突よりすれ違う刹那に震撼の火棘散り耀く。彼我自身が厄である時、厄除けは一寸の燭にもならないので。とはいえ自己自身が疫である斎、黴を糧と錆び遂せる路を慶ばねばならない。ましてや彼我自身が穢である刻、禊を拒むも貪るも色即策とはなるまい。なぜならば自己自身が闇である辰、翳の蝕を一途憧れ寿がねばならぬのみならず彼我自身に呪を課す候、聖と窮の臨み合いを忍んではならぬから。したがって自己自身が檻である限、網を破ったとて空へ羽ばたけはしないし、自己自身が雫たるや否や自ら濡つ義は叶うまい。にもかかわらず自己自身が霧霞である季、虹に憑かれる術は不可避不可逆不可測且不可解、すなわち自己自身が縁を閉じる機にのみ法と神相反する則を擁し、天の孫を措いて糞土還元されざるを潔しとせぬ歴はなし。故にこそ自己自身の命を愛惜しむ暇ほど自己自身が命たる理を忘れる瞬きはなく、恐れ畏れ続けた物が自己の影だったと悟った鬨ほど怖れ惧れ通した物が自己自身である相に盲目な旬はない、とした物なのだが。
『萬象常眞』は恋愛と失恋の物語であり、八割がた会話から成り、地の文も一文~二文ごとに改行されて原稿の下半分ほぼ空白、漢字出現率全文の四パーセント、カタカナ四十パーセントというきわめて軽い乗りで書かれた風俗小説なのだが、ここに引用した一節は改行なく、全体中最も長い段落であり、文体も全く他から独立し、主人公高崎雄一の「けさ電話したんだけど出なかったなあ」という科白直後の地の文に脈絡なしに唐突に現われてはまた唐突に恋人鵜沢佳子の「うん、着信あったのはわかってたんだけど……」という科白へと繋がる。
むろんこの文章自体は袖村茂明の、巫女尻との反復遭遇の回顧、「魅入られ死」あるいは「魅入り殺」への戸惑い含みの内省吐露がさしずめ、忍者部隊の誰もがのあのとき陽の下の自分でない何かに成り代わっていたとしたら虫、黄金の芳香湿潤温気質量に埋まるダンゴムシ・アカミミズ・オトシブミ・カマドウマ・アメリカミズアブ・名も知れぬクモたち・カツオブシムシ・マイマイカブリ・トビズムカデ・オオゲジの眷属でしかなかろうと、闇全体を睥睨していたアカナメの祟り恐しと、巫女さんの命の次は僕らの命と、とんだ勘違いにアカナメとは僕ら自身のことだったのだと気づいた感動の伝承源は風呂場だけじゃない、垢を舐めるだけじゃない暗黒の妖怪。アカナメである以上、舐めなければ、貪り食わねばならなかったのに……。舐めてもらえない者はひと月以内に死ぬ、と……。
あのとき僕らが、巫女さんの宝物を群がって食べていれば、美味しく美味しく食べ尽くしていれば、彼女は死なずにすんだに違いない。食べてもらえなかったために、土に忠実な魂が。神社は餓鬼信仰とは無縁とはいえ……というほどの意味を伝えているということは今日では定説になっているが、しかも巫女さんの尻を見上げつづけた少年たちのうちただ一人勃起していなかった袖村茂明がそのぶん余剰の罪悪感に苛まれていたのだということが吐露されていることも今や定説の一部になっているが、おろち紀元前の当時はもちろん、先の一節は意味不明であった。さらに前後との整合性なしにこの一節が突然出現する心理学的・文芸学的・生理学的理由については、おろち史研究家による各論考に譲るが、興味深いことに『萬象常眞』の選評が掲載された『矢倉文学』蓬月号(『萬象常眞』は新人賞最終選考まで残ったのである)で小説家の定巻圭三郎がこの「言語ブロック」の混入ゆえに袖村作品は美的均衡を逸し新人賞受賞を見送らざるをえなかった旨の選考会多数意見を紹介した直後に次のように述べていることである。
「ただ逆にいえば前後の文体とは密度的極端をなすこの言語ブロックが第三章中盤入口に投げ込まれていることにより、人生は雑多な意思や偶然のコラージュであるとの真相を思い起こさせる一瞬は無価値ではない。しかも人生一様なコラージュではないとばかり、一見統一充足の物語の隙間に極一部穴のように、異質な秩序時間がやむにやまれぬ断層を覗かせてしまう。作者の実存的不安の巧まぬ対象化であると同時に、平穏に収束せる物語自体にはない後の、おそらくは虚構外の現実のカタストロフィを予感させさえする」。
「意味がわからない」という趣旨をこうした表現でソツなく伝えおおせている定巻圭三郎の技量は、小説家よりも批評家に向いていたのではないかと惜しまれるが、いずれにしてもこの選評(「虚構外の現実のカタストロフィを予感」……!)が、図らずもおろち文化勃興期の例のあの連続惨劇を予言したかのような結構を呈していることは――袖村茂明自身は事件の当事者とならなかっただけでなく間接的な寄与すら行ないそびれたにせよ――驚くべきであろう。これは純粋な予言というよりは予言の自己実現現象に似た、誘導作用が働いたものともみられている。というのも定巻圭三郎という人物は揺籃期おろち文化形成に極些少ながら役割を、しかも攻撃的役割を演じていたので(第34回参照)、定巻の言説がおろち文化開拓者等によって個別に参照され収集され結実に至ったという事態は充分考えられるからである。
いずれにしても袖村茂明という男が、蔦崎公一の「食ワサレ体質」と比肩する強力な「ビジュアル体質」を有する特異体質人間であることについては、――
■ 黄金現代史(出版篇)
深筋忠征
昭和56年暮れに北見書房の『THE・ウンコ』が出たときはびっくりした。いつものように神保町の芳賀書店でビニ本を物色していたら、中央の棚にドドーンと、仰向け大股開きの肛門から茶色い固体が覗いているではないか。SM写真誌には緊縛、鞭、蝋燭と並んで浣腸が定番だから、肛門に浣腸器やバイブレーターを突っ込んでいる図はすでにありふれており、本物か模造品かは知らないが洗面器にカレー状粘液の盛り上がった写真も目にしたことはあった。しかし紛れもなく実際に肛門から絞り出る最中の写真というのは、ビニ本史上『THE・ウンコ』が初めてではなかったかと思う。ビニ本は表紙が餌で、中味は数段落ちる雑な写真ばかりということは経験上知っていたが、それにしても快挙だと思った。
前の方は赤と黄のスクラッチで修整してあるが、後ろは、つまりモノが接する粘膜の縁はそのまんまである。スカトロ本氾濫の現在の基準からすればほんの小指ほどの量は物足りないし、照明も暗く細部がはっきりしないけれど、現場の創意と執念には感じ入った。つまり、性器の無修整実写がままならない風潮にあって、こっちなら文句ないだろうとばかり、裏技に出たわけだ。自治体か警察か、出版関係は誰がどう検閲しているのか知らないが、敵は猥褻の基準をヘア中心に置いており、内臓方面には基準がなかったはずなのである。ここを狙ったのだ。盲点というか、拍手喝采ものである。
それでも『THE・ウンコ』VOL1は慎重で、ヘアはもちろん肛門の半数にアミをかけて様子を窺っている。それが不定期続刊のVOL2、3となるにつれ肛門は無修整が増え、59年3月発売のVOL7では極限までアップのドめくれ肛門が巨石のような糞塊を押し出している。尻毛や皺や鳥肌や静脈や繊維までキャッチした、高品位ビデオも永久に届かぬ鮮明画像。このシリーズがリリースされた期間、大共社やKUKI出版、クロードアイ、群雄新社など他の出版社からも無修整スカトロビニ本が次々と出て、黄金写真の黄金時代を呈した。
しかし『THE・ウンコ』はVOL7の後が続かなかった。スカトロ写真は絡みモノと比べても撮影が難しい。なにせ瞬間を捉えねばならないから一級品製作のためスポーツカメラマンが起用されたほどだという。だったらそんな手間暇かけずに、回しっぱなしで撮れるビデオ作品でいけばいいじゃないか。というわけで、本来はスカトロ物はそれこそ物質表面の画像の鮮明さがイノチなのでビデオよりはスチル写真が本筋であるべきなのだが、やはり商業論理には勝てず、ああ懐かしきA4版ビニ本のスカトロ写真集は市場から消えることとなった。
ビデオに主導権を渡しつつしかし写真出版も死んではいない。それどころか今や三和出版の『お尻倶楽部』やユニ報創の『サロンdeヒップ』などA5版投稿情報誌の全盛期である。頁を飾るあまたの脱糞写真は、素人読者による自前のネガ投稿によるものが大半だ。性風俗界のメジャー市民権獲得か、スカトロもいよいよプロの苦慮戦略の時代から、インディーズの時代に突入しているのである。
深筋忠征(みすじただまさ)が一人で経営する中古ピンク雑誌専門店「鮮渋堂」に出入りするうちに、桑田康介はいっぱしの目利きになったような気がしていた。帰りにはいつも意気揚揚たる鼻唄が出た。古宮第三中学一年D組の桑田康介は、スカトログラフィックの売り買いのため「鮮渋堂」に出入りしていたのだが、店内の一角にある中古ビデオについてはやはり中学生の身、親の留守中でないと居間にあるテレビ画面でこのテの映像を見るなど論外的な立場上、店主深筋忠征の「粋な計らい」によって店中のビデオを店内モニターで観賞させてもらうのが常だった。子どもなし・結婚経験なし・一人暮らしの六十二歳深筋忠征はかつて一人でプライベートスカトロビデオ販売からAVレーベルを設立したものの、大衆化の傾向に危惧を感じて引退した、業界の目利きである。目利き。デジタル映像時代直前まではそんな肩書きが高値安定を誇っていましたねぇ。
節冒頭に引用したのは、最後までスカトロビニ本を実直に配本し続けていた良心的出版社〈アレフ創雅〉を退職した深筋が鮮渋堂を開店して一年ほどしたとき、文藝春秋のコミック雑誌『コミック95』11月臨時増刊号に寄せたエッセイである。出版とビデオとの両業界に携わってきた彼の思い入れとジレンマが簡潔に表現された名文といえよう。全盛と形容された『お尻倶楽部』も『サロンdeヒップ』も廃刊となって久しい現おろち時代から顧みると哀感的郷愁の濃密に噎せ返るほどと言おうか何と呟こうか。ビデオについては、アレフ創雅在勤中から一人で男優から監督、カメラマンまでこなして一本一本マンションの一室で売りつづけついにスカトロメジャーレーベルの社長となった伝説は、当業界では元キューブの片岡章と並び称せられると言えようか。引退即自己完結的孤高を愉しみたい深筋はその職人気質に反して人に薫陶をたれることなど一切好まなかったが、どこから手に入れてくるのかなんかなかレアなスカトログラフィックをまだほんの十三歳の眼鏡小僧がひんぱんに持ちこんでくるつれ、この桑田康介なる可能的逸材に次世代スカトロ文化の再興を託すべく自ずから教育を施しはじめた。その教育は、口頭でスカトロ業界の歴史を説くこともあれば、何冊もの古ビニ本を貸して感想を聞いてやることもあった。それらはすべて店内片手間の時間に行なわれたのだが、ほとんど学校帰りの毎日とくれば康介はたちまち高密度の知識と観賞眼を身につけ、さまざまな鑑定基準を学んだ。深筋は独自のスカトロ美学を持っており(「いやぁ独自などと誇ったり照れたりしておれるのも単にこの分野の未成熟を証明しているだけのことよ……」)昨今のスカトロ文化の退廃を嘆いては(「塗りたくりゃいいってもんじゃない」「どうしてこう浣腸に頼るのか」「カラミ場面はよけいだ、カラミは」「あァ、女が男のを食うなんてぇ企画が通っちゃオシマイだなあ……」)【深筋の自費出版博物誌、稀覯私家版より】おまえら次世代が黄金文化を正道に戻しつつ継承するんだぞ、頼むぞ的な洗脳型科白を浴びせつづけていたことはとりあえず反証されていない。
であってみれば、運動会午後の部をサボって訪れた桑田康介が眼鏡を人差し指でずり上げながら百四十センチの低身長のびあげるようにしてカウンター越しに深筋忠征を
「この店、跡を継がせてくれないかなあ」
と見上げたとき、鮮渋堂亭主が
「何だ? オレにとっとと死ねってか」
睨みつけるふりをしたのが、即OKという意味だということは二人の間で以心伝心もいいところだったが、
「弟子入りさせてよ。ていうか店番のバイトさせてよ。無給でいいからさ。内弟子としてなんでもやるからさ」
とかなんとか康介が畳み掛けてきたとき、「おまえまだ中学生だろう。これまで大目に見ていたが、そろそろ考え直してこんな趣味卒業しないと取り返しがつかんことになるぞ」と真顔で語気強めたのは、こんな業界海千男にもいや海千男だからこそ僅かながら道徳観念に未練を残していたことを示す(ただし中学生層をおろち文化にいざなうことの道徳的是非については、後に「是」説を吟味する)。
このあと桑田康介がどのような頑張り方をしたのかは記録に残っていないが、
「ねえ、いいじゃない、ねーえ、ねーえ、ねーえ、ねええーー」といった無邪気のパロディのような押し問答が2時間も続いたという目撃情報が二・三、その信憑性を未だおろち学会で検証中である。
別のこれも未確認目撃情報では、桑田康介の漫画的無邪気な駄々コネを延々演じたというのは都市伝説で、本当は一切の綱引き段階抜きのまま
「弟子入りさせてくんないなら今ここで思いっきり脱糞するんで!」
そう凄んだとされている。
「やれるものならやってみろや」
と深筋が鼻をほじりながら言い終わる前に、
「!」
深筋眼前のカウンターに飛び乗った康介がズボンを下ろして速射脱糞したのであるという。
ただしその脱糞ぶりたるや小指の半分ほどのおつまみサラミ便が二つばかりころんと転がっただけで、思いっきり宣言を自ら思いっきり滑稽化しており、しかしそのショボサがかえって
「ふうむ。便意の無さが一目瞭然だ。にもかかわらず……この瞬間放出ぶりとは。小僧ながら本物の意気込みだ……」
弟子入りを許されたという(「非AナラバB」ハ「Bナラバ非A」ヲ含意セズ「BカツA」ト両立スル)。
というより弟子入の試験受験許可を得られたという(「非AナラバB」ハ「Bカツ◇A」ト両立スル。様相記号◇ハ可能ノ意ナリ)。
この後者の流れの方がおろち史的には「無邪気」の名に値するだろう。
「よしわかった。それじゃあ試験を二つ行なう。俺の目から見て二つとも合格したら、内弟子にしてやろう。まず一次試験。おまえがこれはと思うビジュアル資料をあすまでに持ってこい」
そういった趣旨の科白が発せられたのである。
内弟子といっても崩壊家庭ならぬまともな、両親共働きとはいえ健全裕福な、七歳上の兄が二年前に同性愛パートナーに去られたのを苦に飛び降り自殺しているとはいえ以来ほぼ平穏無事な家庭に育つ健康な中学生にとって今時住み込みということが可能であるはずもなく、両親が帰宅するまでのほぼ鮮渋堂営業時間、店主とともに客の応対など店番をするということで、ほとんどこれまで康介がやってきたことと変わりないことだったのだが、形式上、このような
「弟子入り」! 「弟子入りだ弟子入りだ」!
「いかにも弟子入りだ」風儀式がいまだ分類上子ども以外の何物でもない康介には生理上必要だったようである。(一部に、この極小エピソードをもって桑田康介に「学び体質」(後に「記録者体質」)を認めようとする学派が勃興しつつあるが、袖村茂明的ビジュアル体質、蔦崎公一的クワサレ体質、そして付け加えるなら印南哲治的達人体質に拮抗するおろち史創造体質の一つとしてふさわしいかどうかは、今後のおろち医学生理学の潮流に采配を仰ぎたい)。
ともあれ桑田康介は、翌日早朝にベストテンをリュックに入れて運んできた。
(第82回 了)
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