『吾輩は猫である』への言及から始まる。その意味では、通常の児童文学、絵本とは毛色が違う。週刊文春に連載されていた小説だから、もともとは大人が読者だった。位置付けとしては児童文学ということらしいが、児童文学とは何か、という問いかけにはなっている。
猫の視点から見たある男のあり様、という意味では『吾輩は猫である』を踏襲している。異なっているのは、男が若く、病を得て死に向かっているという点である。すなわちドラマとプロットがある。それは『吾輩は猫である』とはまったく相反するものではある。
『吾輩は猫である』はいわば視点の小説だ。人々の営みは風景として描かれ、だからこそそれは「猫」でなくてはならなかった。涙腺のあり方はそれぞれなのではあるが、『旅猫リポート』は泣ける小説という位置付けらしい。泣けるということはヒトの琴線に触れるということで、本当のところは猫の出る幕はないはずだ。猫の死にヒトが涙することはあるが。
どういう物語で、あるいは物語のどこで泣けたか、というのを聞いてまわると、意外と面白い。いや面白くはなくて、なんでそんなもんで泣けるのか、たいていはさっぱりわからない。琴線のありかはそれほど多岐に渡っていることがわかるという意味で、面白い。社会的な価値観、正義とか、それに基づく処罰感情とかはそんなに多様ではないから、やはり面白いことだ。
まあ、つまり筆者としては『旅猫リポート』のどこが泣けるのか、さっぱりわからないわけだが、だからといってこの作品が無価値だと言っているわけでは、必ずしもない。もちろん泣かせることを狙った物語で、それが空振りに終わることほど鼻白むことはないのだが、素晴らしく泣けたというヒトもいるから、かように涙腺のあり方はそれぞれである。
『旅猫リポート』には絵が付いていて、絵本という位置付けでもある。そこに描かれた線がどれもこれもフニャフニャしていて、主人公の若い男もまた、なんとなく猫っぽい。死に瀕しているというのに脳天気な様子も、猫並みな感じがしていい。恋愛沙汰も、そういえば猫の恋じみてさもない。
猫の視点から描きながら、ヒトのドラマがあって泣かせるというのはそもそも語義矛盾なので、そういう猫はヒトのドラマに接近し、巻き込まれ、すなわち猫ならぬ単なるヒトに近いものになる。それは猫が猫である理由が見当たらない、よくある子供騙しの動物モノ(しかも子供は意外と騙されない)に陥ってしまう危険性を大いにはらんでいる。
しかしそれをこの、猫っぽく描かれた線が弁護し、代弁する。猫がヒトに接近しているのではない。ここでのヒトが猫並みなのだ。そのドラマは猫の恋、猫の死ほどのもので、しかし本当のところいわゆる人生、ヒトの生なんてそれほどのものかもしれなくはある。それが猫の視点の示すものなら、漱石先生へのオマージュでないこともないだろう。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■