長岡しおりさんの文芸誌時評『No.011 三田文学 2015年夏季号』をアップしましたぁ。長岡さんは、『日本の純文学における自我のあり様は、他のあり様の存在を無視するかたちをとっている。・・・肥大化するエゴの異形を見せつけられて変容するのは・・・秩序と構造に則って機能していると信じられている社会の方である。純文学は社会を完全に異和として捉える。だから作者の視線や価値観にも、肥大化する主人公の自我を相対化するものがない。・・・このような純文学をジャンルとして成立させ、維持継続させるには外部構造が必要になる。・・・日本特有の “ 文壇 ” とは、突き詰めれば日本特有のジャンルである純文学を維持継続させるための組織である』と批評しておられます。
もうだいぶ前になりますが、斎藤都さんが、『日本の文学には「文壇」というものがある。これが何かを理解するのに、私は数年を要した。「文壇」とは一般読者とは基本的に無縁であり、別の基準で作品を評価する「場」である。・・・このような保護を必要とする「文学的文学」を日本では「純文学」と呼ぶ。・・・これは世界では類例のない文学ジャンルで、その本質は「私性」にある。・・・文學界は本来、そのような「純文学」あるいは「私小説」の牙城というべき存在である。極論すれば、「文壇」とは文學界のことだともいえる』(『「文學界」とは』)と書きました。こりは画期的評論だったと不肖・石川は思います。純文学小説業界を知る者にとって、文學界=文壇であるのは公明党の支持母体が創価学会であるくらひ自明のことです。しかし誰一人それを明言してこなかったわけです。
逆に言えば、「文學界」以外の他の純文学系文芸誌は、戦後70年の間、芥川賞・直木賞を中心とする文壇にまったく風穴を開けられなかった。新人賞は優れた作家を見つけ出すための登竜門ですからこれは別として、既刊の単行本に与えられる賞には、① 優れた作品を顕彰する、② 受賞によって社会の注目を集め作家と版元が仕事をしやすい環境を作る、といふ2つの大きな目的があります。しかし現実問題、大きな社会的注目を集められるのは芥川賞・直木賞、それに本屋大賞くらひです。
もちろん石川は日本の文壇と純文学は確固たるものとして存続した方がいいと考えている一人ですから、文學界文藝春秋社さんの芥川賞・直木賞には、そのプレステージを今後も保っていただきたいと思っています。ただ芥川賞・直木賞と本屋大賞しか注目されないといふ現状には、他の小説文芸誌は反省する点があるでせうね。プロ作家の評価基準は芥川賞・直木賞で示され、一般読者の評価は本屋大賞で示されるという構図ができあがりつつある。プロを自任する作家・編集者でこの構造に異論があるなら、オルタナティブな方法を積極的に模索するべきでせうね。
■ 長岡しおり 文芸誌時評 『No.011 三田文学 2015年夏季号』 ■