三浦先生の新著である。といっても、かつてのTBSテレビドラマ『エジソンの母』を三浦先生が監修され、そのサイトの質問コーナーにおける回答集がもとになっている。すなわち『論理パラドクス』がネタとして使われたドラマを媒介とする、その子供向けバージョン、といった趣きである。とはいえ例が親しみやすくなっているぐらいで、本質的には変わるものではない。
そしてこの本は、やはり教育的な書物である。驚くべきことに三浦俊彦は教育者であったのだ。ただ、そのことへの距離感と批判、懐疑ももちろんあって、それが「天才児のための」というタイトルに示されているように思う。教育を必要としない、教育が不可能でもある天才児向けの本だからと、大半の親や平均点近くの子供が手に取ることを拒むなら、このタイトルは失敗だろうが。
しかし内容はといえば、ごく一般的なものだ。そもそも論理とは一般的なものなので、天才と凡人に違いがあってはならない。だとするとタイトル自体が矛盾なのだが、天才児という華やかで少しふざけた惹句はある意味、もちろん万人(万児?)に当てはまる可能性はある。
バカとも呼ばれるかもしれない親心にアピールするかどうかはともかく、三浦式の論理学からすれば、「天才児」とは何か、という定義からしなくてはならないことは間違いない。「他の動物を食べるのは悪いことではないのか」という問題設定に対し、「悪い」とは何か、と考えさせるのと同値でもある。
「悪い」とは何かを考えさせるのは、言うまでもなく制度にとって危険でもある。ラディカルな思考は徹底すれば非常に安定した思想を生むが、生兵法はけがのもとであって、また事件など起こした子は決まってそういうことを口実にする。口実にすぎないとわかっていても、される方はやはり自衛するしかない、ということになるわけである。
文学金魚連載「偏態パズル」の著者である三浦俊彦は、もちろん制度的な臆病風に吹かれることなどない。が、東大教授の三浦せんせは考え抜いておられるので、それは蛮勇ではないのである。三浦せんせが示されるのは、論理的に考えればそうなる、という帰結であって、原則としてはどんなイデオロギーでもないのだ。しかし、それは本当にそうか。
国立大学における文科不要論が台頭している。その是非はともかく、少なくとも税金を使った最高学府において、論理的な思考や表現を要しない、もっぱら感性や主観だけで事足りると学生に思わせるような学科はあってはならない。それはその通りだと思う。なくすべきはおそらくは文学部ではなく、文学における非論理的言説やバランスを失った思考だろう。
意外なまでに常識人でもある三浦せんせの危惧は、文学や哲学、いわゆる文科における論理的すなわち学問的思考の本質が見失われることだろうと思う。その本質とはラディカルであること、それに尽きる。イデオロギーのあるなしではない。あろうとなかろうと、ラディカルに考え、言明すること。学問の府でなされるべきことはそれであり、そこまでである。
紹介されているパラドクス的エピソードの中で目新しく、印象深いのは、強い豚と弱い豚の話だ。強い豚と弱い豚が部屋に閉じ込められ、ボタンを押し続けると餌が出てくる。最初は当然、弱い豚がボタンを押す係となり、強い豚は専ら食べ続ける。しかし強い豚は強いがゆえに後からやってきた弱い豚を押しのけて、餌を食べ尽くしてしまう。弱い豚は弱って動けなくなるし、食べられないのだからボタンを押しに行く動機を失う。仕方なく強い豚は自分でボタンを押しに行く。その間、弱い豚は専ら食べる係となり、後からやってきた強い豚は弱い豚を押しのけ、やっと残り物にありつく。
強い者が弱い者の後塵を拝するという興味深いパラドクスで、現実の世の中にもこういうことはある気がする。しかしながら社会に当てはめるには、前提条件に関する欠落と無理がある。まず強い豚は弱い豚と必ず共存しなければならないのか。現実の社会では不要な足手まといは早晩、切られる。強い豚は弱い豚を殺してしまえばよいのである。
一般社会でよく見られるのは、強い豚が実際には弱い豚に依存している、文句を言いながらも弱い豚をちやほやすることで何らかのメリットを受けているというケースである。夫婦関係もそうかもしれないし、そのような弱い豚に尽くす強い豚として名誉や評判など、何らかの見返りを受けている場合もある。
最も普通なのは、強い豚が弱い豚をボタンのパシリに使い、自分だけ専ら食べつつ、弱い豚を生かさず殺さず、最低限の餌だけ残してやる、というやり方だ。経済的強者がきれいごとを言いながら弱者に対して為すのは、たいていこれである。それができないほど夢中で食べ尽くしてしまうというのはちょっとオツムが足りないので、結局は強者ではない、ということだ。
パラドクスという言葉に表象されるのは、通常のアプローチでは矛盾が発生し、どうにも解けなくなる問題というものだろう。これに挑んで本気で解こうとすると、多くの場合、その前提条件を疑うというフェーズに至る。文科では、いや理科であっても、この前提条件を疑うという行為が制度的な何事かに抵触する、ということがしばしばある。
教育にも何段階かあり、それぞれ担い手のスタンスもレベルも異なる。何が前提か理解して受け入れること、それを疑う勇気を持つこと、そして疑義を唱えてもつぶされない知恵を持つこと。どの段階も子供たちにとって必要である。最後の段階に至ることを期待できる子供こそが「天才児」と呼ばれるべきなのかもしれない。だとすれば三浦俊彦の書物は、まさに「天才児のための」ものだろう。三浦俊彦自身、飽くことなく前提を疑い、常識も良識もひっくり返しつつ、見事に生き延びる知恵を体現している存在そのものであるから。
小原眞紀子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■