虫である。当然のことながら、虫の絵や写真があちこちにある。あまり嬉しいものではない。実際、誰もが知っている名著でありながら、皆が皆、読んだ記憶があるというわけでもなさそうだ。特に女の子であったりすれば、自分からはまず手に取らない本だろう。
しかし、ではなぜこれほどまでに有名なのか。だいたいにおいて、本というものは女の子の方がよく読む。その支持をいっさい得られないというハンディキャップを負いながら、なおかつ子供の必読書として伝えられている。ファーブルの生きた時代は、江戸時代末期から明治時代なのである。そのことにあらためて驚くとともに、名著とは何かという問いの答えも覗く。
訳者の大岡信は、まえがきの冒頭に「子供のころ、ファーブルの『昆虫記』を読んだことがあるかないかで、人間を二つのグループに分類できると思わないかい?」という知人の言葉を置いている。つまり虫を許容する男の子と女の子、本を読む子と読まない子という分類の他に、人類は『昆虫記』によって分類されるという。それは大変なことである。
たとえば欧米人にとって聖書を読んだことがある者とない者、日本人であって源氏物語を読んだことがある者とない者は人種が違う、というのは十分にわかる気がする。聖書は神の概念を通してキリスト教的世界観を与えるものだし、源氏物語を読む、特に読み通すということは日本文化の本質に触れることで自己を規定しようとする行為だからだ。
『昆虫記』によって世界観が変わる、ということが決定的に起こり得る、ということは、それを読んだのがどんな子供であろうとも、文字通り世界の見方が変わり得るということだ。それは虫の生きる世界が異界ではなく、私たちの生きるこの世界そのものだと理解することからしか生じない。私たちが眺める、取るに足りない虫たちのその視点から、私たち自身を眺め返すのだ。
虫たちの姿や行為がどれだけ異形に見えようとも、それは私たちの営みと等価である。そのように思わせる力が、ファーブルの筆にはある。それはファーブルの世界観が反映しているのだけれど、虫たちの世界そのものが無言でその等価性を主張するように映る。
それがすなわち科学的なテキストというものだろう。私たちが私たちの世界に優位性を与えるのは私たちの価値観であり、つまりは私たちの主観である。しかし虫たちから見れば、それはどれほど異形な、ときに滑稽な営為だろうか。それに気づけば、虫でなくてもそのように見ることができる、ということになる。客観とは主観に対立するものではなく水平移動した、あるいはメタ的な主観だ。
虫たちの社会と虫たちの営みとを完全に等価に見得る視点、というものは、私たちに怖れを抱かせる。それは嫌悪ではなく、畏怖の念だ。どこかしら神に接近していると感じさせるものを、私たちは決して反古にすることはできないし、名著というものは煎じ詰めればそういうものだろう。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■