「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。
by 小松剛生
かつて素晴らしき掃除機であったというSF
「だいたいね」
その友人はアイスコーヒーをストローですすりながら文句を口にしていた。
ほんとうはホットコーヒーが飲みたかったらしいが、今僕たちが座っている大手カレー専門店ではホットコーヒーというメニューは存在していないらしい。
「それならいっそのことアイスコーヒーを温めるなんてことはできないですかね。アイスホットコーヒー、とでも言いましょうか」
友人はいつも無茶ばかり言う。
「少々お待ちください、確認してまいりますので」
「お願いします」
結局店長さんが出てきて眉をしかめさせながら「申し訳ございません、そのようなサービスはこちらでは出来かねますので」と頭を下げるまで彼の態度は変わらないままであった。
そして今、である。
「だいたいね。「なんとなく」なんていう言葉が存在するのが悪い。そんな言葉があったらついつい使いたくなってしまうじゃないか。いいか、レヴィ・ストロースは概念より先に言葉があって、はじめて物とは存在できるのだと唱えたんだ。つまり「なんとなく」っていう言葉があることでそれはもう、使えと言われているようなものなんだ。ちなみにレヴィ・ストロースは101歳まで生きたんだぜ、あながちそんな長生きできるのなら彼の意見も馬鹿にはできないだろ。だからさっきまで仮にアイスホットコーヒーなるものがなかったとしても、だ。俺が口にしたことでそれはすでに存在してるんだ」
ふむ。
つまりはこういうことだろうか。
僕はテーブルの上にあった紙ナプキンにペンでこんな絵を描いてみせた。
*
言葉→概念となる。(存在する) = 「なんとなく」→存在する。
≠
アイスホットコーヒー(ついさっきまで)→存在しない。
≠
客「アイスホットコーヒーお願いします」→存在する。
*
「そうそう、そんな感じ」
友人は大いに満足したらしく、運ばれてきたポークカレーを口に運ぶ。
「つまりだな」
この文章はやけに「つまり」が多いけどそれはどうか許してほしい。
「そういう考えをしていたほうが長生きできるんじゃないかって俺は言いたいんだ。いや、なんとなく」
さっそく友人はなんとなく的長生き療法を使い始めたらしい。
彼は思いつきをすぐに行動に移せるタイプの人間なのだ。
そして僕らはその生き方を「なんとなくにかける橋」と呼ぶことにした。
命名権は彼にあった。
だからそれのセンスを疑うのなら、矛先を僕に向けるのはよしてほしい。
*
世の中にはどうしたところで他の何かに例えられないものがふたつ、ある。
カミナリと缶コーヒーだ。
*
僕がこの世でいっとう好きな詩は「プリーズ ドゥ ノット ディスターブ」という文句だ。
ホテルのドアノブでその詩を見つけたとき、僕はとても感動した。
世界中のドアノブでそれが毎日唱えられているのだ。
プリーズ ドゥ ノット ディスターブ
私を乱さないで。
なんて洒落た言葉なんだろう。
よろしい、僕はそのドアを開けないでそっとしておくことにする。
ボナコン教ですらそこには立ち入れないのだ。
*
*
今、カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』を読んでいる。
少し前まで僕はSFというジャンルに手を出すのを意味もなく躊躇っていたけど(本当は意味があるのかもしれないがそこはあまり掘り下げてほしくないというのが僕の本音だ)、その足踏みはヴォネガットの『猫のゆりかご』において見事に崩れ去ることになった。
火星や時間を旅行するばかりがSFではない。
机の上でだってSFは可能なのだ。
そんなようなことをヴォネガットは『猫のゆりかご』で教えてくれた。
まあ『タイタンの妖女』に関してはその両方を旅行する話になるのかもしれないけれど。
やっかいなことがひとつ、ある。
それはSFという机にはかの有名な「なんとなくにかける橋」はかけられないのだ。
そこに「なんとなく」は通用しない。
あるのは確固たる嘘と、それを決して乱さない上品さばかりだ。
プリーズ ドゥ ノット ディスターブ。
僕がもしSFを書くとしたら―。
その想像はいつも僕をわくわくさせてくれる。
誰にだって自分がひとりぼっちである瞬間を悲しみ、もしくは愉しむ権利がある。
後者の瞬間、それは僕がSFを考える時間と同義語である。
プリーズ…。
僕は考える。
*
例えばひとつの部屋があり、その真ん中には掃除機がひとつ置かれている。
それ以外には何もない。
その掃除機はかつて何でも吸い込むことのできる機械だった。
缶コーヒーもカミナリも。
アリクイも記憶も。
社会や国家さえも。
それこそ、何もかもだ。
「かつて」というのは、それはすでにその役目を終えてしまった存在だからだ。
今ではそれはただの置き物にすぎない。
何もかも吸い込んでしまう機械は今や何も吸い込まず、自らにかぶせられた埃や塵すら吸い込まず、その場にたたずんでいた。
部屋にひとつだけある窓からはその町の電線が見えた。
カラスが数羽、止まっていた。
つまり、とても寂しい風景だった。
おそらくその掃除機にも栄華な時代があったことだろう。
誰彼かの手に奪い奪われ、そこには波乱の幕が常に開けられていたのかもしれない。
今は何もない。
アリクイは動物園に戻り、記憶はそれの口に詰まったままだ。
はっきりしていることがひとつある。
いずれにしても、だ。
何もかもは手遅れだということだ。
世の人々がいくら騒ごうが泣き叫ぼうが、すべては過去となり、そして部屋に存在だけしていた。
それはとても悲しい、そして愉しい想像だった。
*
その想像を目の前の友人に話すべきか、僕は迷っていた。
「ん、どうした」
彼は福神漬をたっぷり自分の皿に盛りつけていた。
――やめておこう。
僕がすべきことはあの部屋のドアを閉め、ノブに札をかけるだけだ。
プリーズ ドゥ ノット ディスターブ。
おわり
四回戦ボクサーの失敗
――失敗したなぁ。
堀口恭一は心底後悔していた。
こんなに何度も何度も悔いを溜め込んでいる心の底はその重みでいつ破れてもおかしくはないなとも思う。
「大丈夫か?」
会長が心配そうな顔をして覗きこんでくる。
――いいからその臭い口を閉じろ。
――俺の前から早く消えてくれ。
――むしろ今すぐに試合をキャンセルしてきてくれ。
なんて言えるはずもない。
「はい」
返事をした際、昨日の計量後に食べた大盛りペペロンチーノを吐き出しそうになるのをなんとかこらえる。湿気がひどいせいか、粘ついた空気が控え室に浮いている。このぶんだと外では雨が降っているかもしれない。
しめた、と恭一はひそかに喜んだ。
たとえここでつまらない試合をしても、次戦のチケットを買ってくれるお人好しが出てくるかもしれない。だいたい練習よりも営業に時間を割いている名もない四回戦ボーイに、わざわざ観にくる価値のある試合などできるはずもないのだ。この世に読むべき価値のある文章がほとんどないように。
幼い頃から本を読むのが好きで外へ出て遊ぶことなどしたこともなかった恭一が、まさか十年後にはプロボクサーになっていようとは誰が想像しただろう。
当然だ、と彼は思う。
本人が一番面食らっているのだから。
そうなるまでには様々な要因があり、決して単純なものではないとわかっているが間違いなくそれら数多くの因子の中でも最大級に存在感を示している金はさっきから会長としきりに何か話している。
恭一を大学のボクシング部へと連れ込んだ張本人だ。ジムの会員でもないくせになぜか恭一よりも会長と仲がいい。彼は「一人で行くのは気が引けるから」というこれからボクシングをやろうとする人間とは思えない弱気な発言により、恭一を無理やり小汚い部室に連れていった。
恭一はなぜか知らないがその日のうちに上級生とマススパーリングをやらされて、気が付けば酸欠状態で天井を見上げていた。
「どうだ、きついだろ」
得意満面の笑みで汗と鼻水と苦痛にまみれた恭一の顔を見下ろしていた中野さんも、今ではこの控え室の隅で恋人の女性と談笑している。
「今回、減量はどうだった」と、中野さん。
「きつかったですよ」
きつかったか、そうかそうかと嬉しそうに笑っているかつての先輩を試合後思いきり殴ることを心の底で恭一は固く誓う。過去のいくつもの悔いによって空いた穴はそのようにして埋められる。
「ちょっと動いておくか」
会長の言葉に恭一は首を振る。
動きたくとも動けない。
十キロ近い減量の末、計量後の暴飲暴食で胃はすっかり荒れていた。自業自得とはいえ、飽食の時代と言われるこの現代において彼のような根性無しが、階段すらも登れないほどにエネルギー摂取を絶っていれば満腹中枢のリミッターが外れるのも致し方ない。
彼は自分が世界チャンピオンになろうなどとは一片も思ったことがない。東洋太平洋チャンピオンだろうが日本のそれだろうが、ベルトを巻く自分の姿など思い描いたことは一度もない。
学生でまだアマチュアとしてやっていた頃、部の合宿で千葉の民宿に泊まりに行ったときに、恭一は嫌というほど思い知らされていた。
「先輩、まだ食えますよ、その魚」
特待生として入部してきた山名という後輩が彼の目の前にある皿を見て言った。
「いいよ、やるよ」
その言葉を聞くやいなや背骨と頭だけになったサンマの開きをばりぼりと貪るようにして食べる山名を見て恭一は「ものが違う」と思った。
上の舞台で輝くことのできる人種というのは、そういった日常の食生活ひとつとっても異次元のものなのだ。しょせん凡人では立てない檜舞台なんだと、齢二十歳にして彼は痛感した。
当の山名はとっくにプロで上にいくことを諦めて今では外交官となって世界各地を飛び回っている。この間久しぶりに会ったときは「先輩、まだ構えが低いですよ。先輩はパンチ見えるタイプじゃないんですからガードは上げないと」と文句なのかアドバイスなのか、よくわからない言葉を放り投げて去っていった。確か今はノルウェーのどこかのアパートで暮らしていると人づてに聞いた。
後楽園ホールが揺れた。
「K.Oでもしたかな」
金が会場の方向となる出入口の扉を眺めてつぶやいた。
「そろそろ動きます」
恭一は立ち上がってそう告げると、会長は安心したように皺だらけの顔を歪めて「そうかそうか」とミットを鞄から取り出した。
まだ腹は全ての食事を消化したわけではないが仕方がない、このままリングへ上がってはさらに無様な姿を観客に見せてしまうことになる。その中に含まれているであろう親は即刻、恭一を実家のある群馬へ連れて帰ろうとするだろう。
――もはや行動の中のみに人生の糧を見出せないとしたら、確かに彼は老いたのだ。
昔読んだ小説の一節を最近よく思い出す。
行動ですら糧を見出せない人間はどうしたらいいのだろうとその度に問いかける。
会長の構えるミットに力の抜けたパンチを打ち込みながら、恭一はぼんやりと仕事先において九条ネギを正確な数で発注したかどうかが気になってきた。今日明日は連休なので平日よりお客さんは多いだろう、もしかしたら足りなくなるかもしれない、ワンツーからの返しのフックを繰り返し打ち込みながら、恭一はだだっ広い冷蔵庫の中で眠る九条ネギについて考えていた。
「いいね」
中野さんの声がミットの乾いた音に混じって室内に響いた。
おそらくあと数十分も経たないうちに入場アナウンスの知らせが届くだろう。
――失敗したな。
再び恭一は思った。
ベルトを巻くことではない。
チャンピオンになることでもない。
ましてやプロボクサーになったことでもない。
俺はボクシングという夢を諦めることに失敗したのだ。
まあいいさ、少なくともまやかしのスポットライトをリング上で浴びている間は九条ネギのことは忘れられる。
「悪くないかな」
「悪くないぞ」
全く勘違いした会長が嬉しそうにミットを掲げていた。
遠くで雨の音が聴こえたような気がした。
おわり
参考及び引用文献
『夜間飛行』著・サン=テグジュペリ、訳・片木智年
(PHP研究所 2009年)
距離という名のロマン
今からこのお話を読もうとしてくださっている皆さまへ
小松です。この話は『小さじ一杯の答え』『スカートをぶつける』『バケツを忘れる』に続く文章となってます。また、『ポニーさんのひづめ』もちょびっとだけ関わってくる内容になります。すべて読め、なんて言う権限はもちろん僕にはありませんが、そういう事情含めて、ご了承いただければ幸いです。
この「疑問を拾う」人たちに関する文章がいったいこの先どうなるのかは、今の時点では僕自身にもわかりません。僕はいつも何も決めないままに文章を書き始めてしまうという悪い癖を持っています。どうかその癖が良い方向に転がることを、今はただ祈るばかりです。
小松剛生
歯みがきが苦手だ。
歯みがきという行為そのものは別に嫌いでもないし、むしろ磨いた後の何とも言えない心地好い感覚を愛しているといってもよかった。
ニワさんがそんな劣等感? に悩まされるようになったのは大人になってからのことだった。
ニワさんの部屋にはなぜか文学君用の歯ブラシが常備してある。
往々にして彼はニワさんと共に夕飯をとり、それからしばらくの間帰ろうともせずに一緒にプロ野球を観て帰ることがあった。彼はこれまでナイター中継を観る環境にいなかったせいか(おそらくは文学君の家庭事情が影響しているのであろうが、根掘り葉掘り訊いたわけではないので推測にすぎない)、野球そのものは興味深そうに観ているが、選手の名前はほとんど知らなかった。
今年、唯一彼が憶えたのは思いきりの良いスイングと端正な顔立ちで知られるヤクルトの二塁手、山田哲人選手だ。どうやら名前に「哲学」を表す「哲」の文字が入っていることも気に入った要因のひとつらしい。
地上波でテレビ中継のある巨人がヤクルトと当たる日に限っては文学君が部屋に上がり込んでくる可能性も高いことをニワさんは知っていた。
夕飯を食べ終えてもだらだらと居座り続ける文学君を見兼ねたニワさんが「どうせならここで歯ぁみがいちゃえば?」と声をかけた。
「それもそうですね」
素直に文学君はうなずき、その足で二人は近所のコンビニエンスストアに新しい歯ブラシを買いに行ったのだ。
初めて文学君が歯みがきする場面を目にしたとき、ニワさんはそれまで知らなかった彼の癖をひとつ見つけた。
とにかく動きまわるのだ。
台所から浴室へ、部屋から部屋を移動してはまた居間に戻ってくる。意味もなくトイレの便座を上げたりする。しばらく一緒に歯ブラシを動かしながらテレビ画面を眺めていたかと思えば向こうのほうで冷蔵庫の開けられる音がして(冷蔵庫を勝手に開ける行為に関してはもはや諦めている)、彼が台所へ移動したことに気付いたりする。
「そんなに動きまわって、よくよだれを落とさないね」
「よだれなんか落としませんよ」
「でも歯みがきの最中って口の中が泡立ってるから」
そこまで言ってニワさんは文学君が首を傾げているのに気づいた。
――普通は落とさないのか。
彼女自身は歯みがきの最中は流し場か洗面台のそばにいるようにしている。みがいているそばからよだれを垂らしてしまうからだ。
――いや、文学君を普通の基準にしてはいけない。
彼女の両親は常に歯みがきは洗面台の前で行っていた。ニワさんはそれを見て育ったからこそ、歯みがき中のよだれは仕方のないものとして割り切っていた。それでもこうして器用に滴を垂らさずに室内を徘徊する人間を目の当たりにすると、自信がなくなってしまう。
歯みがきが下手だという劣等感が生まれた。
文学君という存在が生み出したコンプレックスだ。
「ニワさん」
「ん」
「インフィールドフライってなんですか」と、文学君が歯をみがきながら訊いてきた。
もっとも彼を見ているとそんな劣等感さえどうでもよくなる時がある、それもまた事実だった。
「遠ければ遠いほど愛しさは増すんだよ。距離はロマンだ」
ニワさんは文学君の帰ったあとで、彼が置いていった文章をもう一度読み直していた。
「文学」とやらにうるさい彼も、自分の文章に対しては自信がないのか、何も言わずにニワさんの部屋に置いていく。別にその後それに対する感想を求められるわけでもないので読まなくていいといえばいいのだが、なんとなくニワさんはその全てを読んできた。読み終わった文章の原稿用紙は戸棚にしまっている。その行為はなんだか彼の秘密をしまっているようでもあり、それはニワさんに奇妙な喜びをもたらしていた。
――距離はロマン、か。
残った缶ビールを一気に飲み干す。
たぶんアタシはポニーさんのように生きることはできないだろう。今は亡き父の顔であったり、親方のそれであったり、ポニーさんとやらと世代の近いであろう知り合いの顔を当てはめてみようとしても、どうも上手く想像できなかった。文学君の近くにはポニーさん的な人がいるのだろうか。たぶん、いるのだろう。それが自分と文学君を隔てる距離のような気がして、そう考えると確かに距離はロマンなのかもしれない。
向こう側。
ニワさんはその距離のことをそう呼ぶことにしていた。
*
十一月に入り、本格的な寒さが訪れようとしていた。
自動販売機に並ぶホットドリンクの並びも2列から3列に変わり、マフラーを捲いて下校する高校生の集団を見かけるようになった。彼らの活気盛んな笑い声が過ごしやすくなった季節を象徴しているようで、なんともいえない切なさを感じた。
今日のニワさんは最近では珍しく一人での現場だった。
基本的に疑問拾いは二人で行ったほうが効率がいいので、圧倒的に誰かと組んで仕事をする日が多い彼女ではあったが、千葉県は船橋にある、とあるショッピングモール内にある小さな歯科医からの受注であったため、ニワさんひとりでじゅうぶんだという守谷所長の判断だった。
歯科医での仕事は厄介なこともある。備え付けの器具はたいていが高価な専売品であるため、下手に動くことができない。もっとも現場のものを壊すなんていうミスは言葉は悪いが素人的ミスである。もはや10年選手のニワさんがやるようなことではない。
アルコール臭の漂う部屋でさっさといくつかの疑問を拾いあげ、ご機嫌な様子で彼女は現場を後にした。
夕方の早い時間だったが、首都高は相変わらずの混み具合だった。ニワさんにとって仕事の時間帯にひとりで何も考えずに済むのは新鮮で、ぼんやりと隅田川の濁った水面を眺めていた。
ハンドルを離してお茶の入ったペットボトルに口をつけると、携帯電話の着信が鳴った。辺りにパトカーのいないことを確認して通話ボタンを押す。
「もしもし」
「お疲れ様です。柴田です」
「お疲れ。こっちはもう終わったけど」
はやいですねー、と驚く柴田君の後ろでがちゃんごとんと物を動かす音がする。
「そっちはまだ大分かかりそうだね」
「どうもこうもないですよ、最初渡されていた計画表の倍をやってくれって(現場)監督から言われちゃってて」
確かあっちは都内の私立小学校だったはずだ。
「ありゃりゃ」
「中野さんと俺だけじゃ今日中は厳しいかもしれません」
「てんぺーは近くにいる?」
てんぺーとは、ニワさんの組に所属する若手の職人だ。
中野天平。
若手とはいっても経験は柴田君より5年も多いので、ニワさんのいないときは中野君が指揮をとることになっている。顔が整っているせいか、稀に現場に女性がいるときは彼を持っていくと喜ばれる。腕も確かなものがあるところがありがたい。忙しくなるとすぐに目の下に隈をつけてやって来るので繁忙期のパロメータ的役割をひそかに任せていたりする。
「もしもし、ニワさん?」
「終わりそうかい」
「大丈夫ですよ」
たぶん。
「たぶん?」
中野君はなかなか弱音を吐かない子なのだ。
――強い子だな、とその度に思う。
「いいよ。アタシもう終わったからそっちに行くよ」
すんません、と電話の向こうで声が聞こえた。
「お疲れ様です、ニワです」
「おう、お疲れ」
「山垣さん、終わったらこっち来れますか」
ニワさんが二人の現場に行ってみると、総量の半分も済んでいないことがわかった。受注分の認識違いは現場仕事ではたまにあることなので中野君を責めるわけにもいかない。Fのメンバーも総出で小学校に乗り込んだ。
日がすっかり暮れている。
ヘルメットにライトを装着させた。木枯らしもこの時ばかりは救いであり、頬に垂れる汗をぬぐいながらニワさんらは疑問に目を凝らした。
皆、汗臭い自分の身体にしかめ面をしながら作業に当たっている。
――なぜそんなに頑張るんだろう。
ときどきニワさんは他人事のように思う。柴田君が顔を疲労で歪めながら、窓の形をした疑問を運んでいる。重いのか、ときどきお尻が揺れる。
そんな想いに駆られると決まってニワさんは自分だけがどこかに取り残されたように感じる。自分が女であるという事実だけでなく、それ以上の距離を彼らに感じるのだ。
――アタシはどこにいるんだろう。
向こう側?
それとも。
*
休日に、久しぶりにニワさんは文学君と並んで歩いていた。
山田哲人はシーズン一九三安打を放ち、日本人右打者として史上最多安打数を記録した。アメリカではヤンキースのデレク・ジーターが引退し、シーズン終盤ではイチローもレギュラーポジションとしての出場機会が確実に増えていた。かつてヤクルトに在籍し、今はロイヤルズにその身を置く青木は惜しくもワールドシリーズ制覇を逃した。ニワさんにとって、それらの出来事は今年の野球が終わったことを意味した。
二人はゆっくりと例の坂道を下っていた。歩道脇の街灯は早くも点灯し、カエデの枯れ葉がその明かりに照らされて鈍く光っていた。
「ん」
ニワさんは何かを渡された。
いつかの小さじだった。目を凝らす。
「疑問じゃないね」
「僕が買ったほうの、本物の小さじです」
本物。
ほんもの。
ニワさんは黙ってそれを文学君に返した。
「ニワさんを見ていると、世の中にはほんとに疑問っていうやつが多いんだなって思うんです」
「うん」
彼女には文学君が何を言わんとしているのかはわからなかった。彼が次に発する言葉を待っていたが、それきり彼は口を閉じてしまった。
ふとニワさんは立ち止まってみた。
文学君はそれにかまわず先を行った。歩調は決して早いものではない。二人の間に少しだけ距離が生まれた。ニワさんは文学君の背中に手を伸ばした。彼に直に触れ、体温を感じたいと思った。けれど、いくら手を伸ばしてもそれが文学君に触れることはなかった。
向こう側。
彼はとても遠いところにいた。
おわり
(第05回 了)
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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■