県民性というのは面白いものだ。血液型のような肉体的なものとは違うし、星占いのような宿命的(?)なものとも違う。何よりもそれらと異なるのは、それが確かにある、ということだ。人為的と思える境界線を挟み、かつても今現在も、確かに存在している。
私の両親は熊本県出身だが、熊本県人が最も嫌うのは大阪人だ、と言われている。戦時、とっとと逃げ出そうとする大阪兵の背後から銃で撃ちまくったのは敵国人ではなく、熊本県人だったと聞いた。このエピソード一つには、県民性について多くのことが詰まっているように思える。
大阪人の兵隊がすぐに逃げ出すのはヘタレだからではなく(たぶん)、お上のすることなんか信じてない、言うなりになって死ぬのは丸損だ、というはっきりした現実認識からくるものだろう。一方の熊本県人の気質は、なかなか説明しがたい。肥後もっこすという呼び名があるが、批判精神に富んだひねくれ者、とでも定義したらいいだろうか。著名な評論家を輩出し、道端で立ち話する婆さんから、吠える犬まで批評家だなどとも言われる。知的といえばそうかもしれないが、そんな自分たちを評し、温泉地を多く持つ熊本県人は湯(言う)ばかり、とも。
私は赤ん坊の頃から東京で育ち、両親も熊本県人をすでに外側から見ていたわけで、その批判精神がともすると内向きに働き、大局を見失って足の引っ張り合いにしかならないところに嫌悪を感じる。味方の兵を背後から撃つなどというのはその典型である。それは熊本県人が単純に権威に弱いとか、お上に従順であるとかではない。熊本県人はたとえ頭がよくなくても、それぞれ自分なりの理屈をこねくりまわすのであり、それが行き詰まると、たいてい理想的な観念に飛躍し、問答無用でそこへ身投げするのだ。ただ、それは愚かしくはあるが、ときに非常に美しい、精神的な瞬間を見せつける場合がある。
そんな複雑で繊細な県民性が、いったいどのようにして明確に育まれていくのか。人為的な境界線にしたがっているとは言うものの、たとえば私の母方の祖父はもとは奄美大島の出身であり、自身や身内をも批判して卑下しがちな熊本人らしくなく、イタリア人のごとく自信に満ちた自己肯定をする人だった。それで母もまた、熊本の女らしからぬ大局的な見方をするところがある。
結局のところ、名指される県民性とは個々人の性格であり、それはその土地に住む、各自の家族によって育まれるものではないか。そのように育った気質が学校なり会社なりに集い、また助長し合うということはあるにせよ、それを根源的に育んだものは家族の関係性、つまりは家族への愛憎と執着、そして最終的な肯定感であるに相違ない。
それら家族の集積が村であり町であり、県民性を生み出してゆくのだろう。すなわち大阪カルチャーの特異性、阪神タイガースファン文化というものもまた、すべて個のあり様へと還元され、それを見極めようとするなら、それらの個を醸成した家族のあり様を真摯に、しかしプレーンに見つめる他はない。
『虎がにじんだ夕暮れ』は上質なエンタテインメントであると同時に、家族という場によって個が産まれ、醸成され、死んでゆくのを観察する装置でもある。そしてそれは本作に限らず、作家・山田隆道の本質的なテーマでもあるように思える。エンタテインメントにしては地味であるとか、派手な飛び道具がない、といったことには理由がある。人が人として成ってゆく、あるいは滅びてゆく場として観察・実験を試みるなら、データを読み違えかねない過剰なドラマ性はあってはならない。スタップ細胞でない、私たちというフツーの細胞をあるがまま、見ていかなくてはならないのだ。
個のあり様、人というものの成り立ちをつぶさに見ようとしたとき、観念でなくリアルな生活の端々、共同体としてのあり方の描写からそれを導き出そうとするのは、まさしく現実的な大阪人の発想であると思える。結果的にそれが大阪カルチャーにおけるタイガースファンを喜ばせる作品となるのは、だから必然でもあり、ある意味では皮肉でもある。この作品がエンタテインメントであるのは、たまたまかもしれないのだ。
大阪人である作家が、人としての個のあり様を見極めたいという極めて作家的なテーマを抱えたとき、自らの個としてのあり様 = 県民性に従い、観念に傾かずにプレーンな視点を維持し続けた結果、いわゆる純文学の制度には嵌まらないものとなる。が、大衆文学の側からは派手さがないと言われる。しかし、いずれかの制度にあっさり嵌まれるメンタリティなら、そもそも書く必要などないのではないか。
だからこの作品は、いわゆる家族小説とも違う。大阪の共同体の人々、タイガースファンのあり様は、もちろんそれが個々の気質の延長線上にある以上、家族的である。大阪文化とはそういう温かいものだということではなく、共同体の文化とは本来的に家族の延長線上にあるものだということを裏返して見せている。家庭という場と同様に、そこで人が産まれ、出来上がって、死んでゆくのだ。
そこにいるのは、だから単なるハートウォーミングな家族で、ストーリーはその関係性を追う、という代物ではない。みっともない姿を晒しながらも出来上がってゆこうと悪戦苦闘する主人公の成長物語でもなく、あくまでも若い彼の過剰な〝生〟とパワフルな生命感を消費しつつ〝死〟に向かうじいちゃんが対峙する。家族は、大阪文化は、その生死の揺籠である。
派手さもない本書が息つく間もなく読めてしまうのは、まぎれもなく書き手の筆力である。その筆の力の依ってきたるところは、それら過剰な生と死に向かうあり様へのむしろ冷徹な距離感、それによって生じた自在さからだと感じられる。作者は生粋の大阪人ではなく、東京人とのハーフであるそうだ。
小原眞紀子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■