作品集を一読しただけで、はっきりと新たな才能を感じ取れる作家は少ない。鴇田智哉(ときたともや)氏はその数少ない作家の一人だろう。鴇田氏は昭和四十四年(一九六九年)生まれだから、今年で四十五歳になる俳人である。句集『凧と円柱』は第二句集である。この句集は優れている。僕は『凧と円柱』を絶賛しているのである。
ひなた
いちじくを食べた子供の匂ひとか
ひなたなら鹿の形があてはまる
いきものは
いきものは凧からのびてくる糸か
砂こすれあふ音のして蝶が増ゆ
さざめきのさなかに針を仕舞ふ春
蕊
たてものに布のかぶさる蝶のひる
いちめんの桜のなかを杖が来る
みな部屋にこもれり桜蕊の降る
句集『凧と円柱』はⅠからⅢの三章構成で、それぞれの章に「ひなた」「いきもの」「蕊」などの節タイトルに分類された句が並んでいる。引用した句を読めば明らかなように、鴇田氏は幽かな音や匂い、あるいは存在の影のようなものを描くことに魅せられた作家である。作品は平仮名を多用して書かれているが、それが漢字表記部分をゴツゴツとした岩のように際立たせている。意図的に平仮名表記を多くしているということである。
現実世界との対応関係を欠いているという意味で、鴇田氏は伝統俳句(有季定型[写生]俳句)の作家ではない。高柳重信的な前衛俳人でもない。鴇田氏の作品からは、彼の実存に根ざした固有のオブセッションのようなものが感じ取れる。あえて言ってしまうと、それは〝空虚へのオブセッション〟ということになる。
裏側を人々のゆく枇杷の花 (紙袋)
鳥の巣を囲んで人の消えにけり (鳥の巣)
たてものの消えて見学団が来る (海原)
人うせてすきまの残る夏の昼 (沢瀉の夢)
蟻たかる人の匂ひのある庭に (沢瀉の夢)
さはやかに人のかたちにくり抜かる (丘にゐた)
* ()内は節タイトル(以下同)
鴇田氏の作品では人や物が消え、その痕跡だけが残る。空虚の周囲に人や物が集まるのだと言ってもいいかと思う。高浜虚子は『俳句は花鳥風月である』と言ったが、現世の生臭い人間関係や物・金に強い興味を抱く作家は俳人には不向きなものだ。鴇田氏は彼の資質に合った俳句文学を的確に選択した生粋の俳人だと言える。しかし氏ほど人間や物に恬淡な作家は俳人でも稀だろう。鴇田氏の作品世界の中心には空虚がある。問題はそれが彼固有の主題なのか、俳句文学にとって汎用性(通有性)があるものなのかということである。
三つの章にもし意味づけをするなら、承・転・起、になる。
承は、尾のつづき。
転は、天災の痕跡。
起は、それからの響き。(中略)
心は、以前にも以後にもうつる。それは感情に限らず、見える、聞こえる、匂うといった感覚に関しても。ときに心は、未来の出来事を先に見ることでさえ、ある。――今のこの出来事は、いつか遠い昔にも見えていたし、これからずっと先にも、また新たに聞こえ続けるだろう――
この句集はいわば、心の編年体による。
(句集『凧と円柱』「あとがき」)
句集『凧と円柱』「あとがき」で鴇田氏は、三章構成を「承・転・起」だと説明している。「結」と呼べるような句集の結末はなく、終わりは新たな始まりだということだろう。ただ一方でその認識は、『凧と円柱』が作品行為の初源としての「起」を欠いていることを示唆している。処女句集『こゑふたつ』を読んでも初源の「起」は見当たらないはずである。鴇田氏の作品世界は常に「承」から始まり「起」で終わるのだと言ってもよい。
箱庭を見てゐるやうな気になりぬ (古い形)
人参を並べておけば分かるなり (転送)
なかぞらの浮輪をいつも見てゐたる (沢瀉の夢)
鴇田氏の句集は、確かに「箱庭を見てゐるやうな気になりぬ」といった心持ちになる作品世界である。なぜそうなのかは、作家にとっては「人参を並べておけば分かるなり」というほど自明だろう。この謎をはらんだ言語表現は魅力的である。しかし読者は最後のところ、なぜそのような表現になるのか〝分からない〟。分からない限り、それは鴇田氏個人の特質であって俳句文学全体には寄与しないのである。
僕は句集『凧と円柱』を読みながら、ふと河原枇杷男を思い浮かべた。枇杷男の作品世界は魅力的だが、濃厚に〝何かを隠している〟ことを感じさせる作家だった。今でも枇杷男のファンは多いが彼は寡作である。僕は『烏宙論』『流潅頂』『蝶座』を読んだが、よく三冊書けたなと思う。枇杷男の表現は本質的には処女句集『烏宙論』で尽きている。また枇杷男への賛辞は枇杷男に始まり枇杷男に終わる。〝隠している〟限りそれは必然である。
鴇田氏の詩法、彼の作品世界がさらに上の審級に進むためには、〝虚〟の中心、その由来を抉り出すような試みが必要なのではないかと思う。句集だけを読めば、鴇田氏はその表現が極めて魅力的な俳句作家である。しかし句集から数句選び出し、俳句アンソロジーに収録するとうまく魅力が伝わらないのではなかろうか。現代俳句は結局のところ、前後左右の関係性を断ちきった孤独な発句である。鴇田氏の主題である空虚ではなく、俳句文学固有の孤独がやや不足しているように思う。
かなかなをひらけばひらくほど窓が (ひらめく市)
「かなかな」は蟬の「カナカナ」と「仮名」のダブルミーニングだろう。「窓」は言語あるいは作品の喩と受け取ってもよい。中心が空虚であるがゆえに無限増殖的な作品生成が可能になる鴇田氏らしい作品であり、句集『凧と円柱』の中の秀句だと思う。
絶賛で始まったはずなのに、必ずしも誉めるだけの内容ではなくなってしまった。しかし本当に優れた作家なら、手放しの賛辞は百年先に受け取れば良い。ただ鴇田氏が若手俳人の中で、最も優れた才能を持つ作家の一人であるのは確かだと思う。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■
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