露津まりいさんの新連載サスペンス小説『香獣』(第06回)をアップしましたぁ。今回は糟谷と芙美子、十樹と芙美子の交流が交互に描かれる形で話が進んでゆきます。糟谷も十樹も魅力的な人物(描き方)ですね。このくらい膨らみのある人物を描いておくと、後の展開が楽になると思います。主要登場人物には謎が、言い換えれば可能性がなければならないわけです。特にサスペンスモノでは、そのような人物描写は必須であります。
小説は一人称一視点や三人称一視点といった書き方の違いはあるにせよ、主人公中心に進むのが普通です。特に純文学では主人公に読者の興味が強く集中するように書いていくわけですが、書き過ぎると小説世界が歪み、ほころびてしまふことがある。
簡単に言うと、主人公ってある程度頭が良くて、感受性も鋭いのが普通です。しかし純文学の場合、主人公は社長や天才などエスタブリッシュした人ではなく、むしろ社会的逆境にいる人の方が多い。あんまり主人公の内面を書き過ぎると、なんでこんなに頭が良くて感性が優れてる人が社会の底辺にいるわけ?といふ感じになってしまふ。芥川賞系の純文学では時々こういふ〝矛盾〟が起こっています。
サスペンス小説では、露津さんの作品をお読みいただければおわかりになるように、主人公は利口で鋭敏ですが、(作品)世界全体を把握していない。空白を抱えているわけです。それを主要登場人物が埋めてゆく。純文学の主人公一人主義(いちにんしゅぎ)とは違って、知性と感覚をバランス良く主人公と主要登場人物に分配してゆくわけです。ただこれは大衆系小説のテクニックに限定されるものではなく、純文学にも必要なことです。
純文学の一つの極北である私小説では、すべての知と感性、それに物語展開が完全に主人公に集約されますが、主人公は決してものすごく頭がよかったり鋭敏だったりしない。私小説ほど物語要素を主人公に集約させて、かつ主人公を知と感受性に欠陥(欠落)のある人物として描くのは、実はとっても難しい。私小説作家は愚かしい登場人物を描くので、あんまり頭良くなささうに感じられますが、リアルな愚鈍や愚劣を描くためには実は鋭利な知性が必要です。なかなか優れた私小説作家が出現しない所以です。
ほんで金魚屋新人賞の選考スカイプ会議が開かれました。皆さんお疲れさまでした。金魚屋新人賞は、明日発表させていただきます。
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■ 露津まりい 連載サスペンス小説『香獣』(第06回) テキスト版 ■