Interview:山田太一(1/2)
山田太一:昭和九年(一九三四年)、東京浅草五区に生まれる。両親は大衆食堂を経営していた。小学三年生の時に縁故疎開で神奈川県湯河原町に転居。小田原高校を経て早稲田大学教育学部国語学科を卒業。在学中は教師を目指すが、就職難もあり松竹大船撮影所の助監督の仕事に就く。木下恵介監督に付き一九六〇年代から脚本の仕事を始める。昭和四十年(一九六五年)に松竹を退職し、フリーの脚本家となる。代表作に『岸辺のアルバム』、『想い出づくり』、『ふぞろいの林檎たち』シリーズなどがある。放送界で多数の賞を受賞しているが作家としても活躍し、小説『異人たちとの夏』で山本周五郎賞を受賞している。
山田太一氏は、松竹撮影所で助監督として付いた木下恵介監督の下で脚本を書き始め、現在に至るまで独自の視点で現代社会を描き続ける日本を代表する脚本家である。娯楽要素を求められるテレビ・映画の脚本家でありながら、そこに純文学的要素を盛り込んだシリアスドラマの第一人者でもある。自らの小説を脚本化した作品も少なくない。今回は現代社会が抱える問題はもちろん、山田氏の感受性を育んだ生地浅草の想い出や、戦時中の体験などについても幅広くお話をお聞きした。
文学金魚編集部
■少年時代について■
金魚屋 山田さんは東京浅草五区のお生まれですよね。
山田 浅草は一区、二区、三区と区分けされていまして、六区が一番の盛り場だったんです。仲見世の通りと平行して少し離れて賑やかな大通りがあり、それが今でいう「ロック」でした。その道は突き当たりに横に走る通りがあり、それを左に曲がると昔は国際劇場でしたが、今は浅草ビューホテルが建っています。その通りが境で、五区なのでした。僕が生まれた場所は、ちょっと横丁に入ったあたりです。だから僕は五区生まれなんですが、五区って言うとどこかよくわからないので、生地を聞かれると浅草六区あたりだと言っています(笑)。実際、道一本へだてて六区ですからね。
金魚屋 当時の六区の繁栄ぶりはすごかったようですね。
山田 もうほんとうに盛り場の中心です。六区は映画館街でしたから、食べ物屋などはあまりなかったんです。映画が終わると五区や、観音様の方になにか食べに行くわけです。でも五区あたりは、ちょっとお金がなくて、派手派手しい店には入れない人が来ていました。たとえば商店の小僧さんがお休みの日に六区で映画を見るでしょう。でもとてもじゃないけど表通りの高い店には食事に入れない。兵隊さんでも二等兵なんかは、高い店に行くと将校さんがいたりして敬礼しなきゃならないので、五区のお店に来るんです。僕の家の店には将校などは来なかったですよ(笑)。二等兵さんが何人かで来て丼物を食べるとか、あの頃は支那そばと言いましたけど、ラーメンを食べたりしていました。そういう繁華街に店があったので、それなり忙しかったようです。僕は子供でしたから店は手伝っていませんが。
金魚屋 今の感覚で言うと、渋谷と新宿の繁華街のど真ん中で育ったという感じでしょうか。
山田 でも子供でしたからね。大人のような快楽はあまり享受していません(笑)。
金魚屋 でも十歳で疎開された湯河原とはだいぶちがうでしょう。
山田 それはもうまったく違います。家の二、三軒先に映画館とか芝居小屋があって、その通りが遊び場だったわけですから。昔は六区に瓢箪池という、けっこう大きな池がありました。瓢箪はくびれていて、真ん中の細い部分に紐を掛けて持ち運びますね。瓢箪池はそれを模していて、真ん中の細い部分に橋が架かっていた。橋を渡ると奥山という、少し小高い場所に公園がありました。そこが子供の頃の遊び場でした。当時の浅草には池があったり噴水があったりして、いまとはずいぶん趣が違っていました。
金魚屋 子供の頃、映画はよくごらんになりましたか。
山田 映画はたくさん見ました。店のお客さんで、映画に連れていってくれる常連さんがいたんです。当時は昼間からふらふらしている人がけっこういたんですね(笑)。子供を見ると、「映画を見に行こう」と言って連れていってくれた。それに国際劇場が、当時は東洋一と言われるほど大きな劇場で、松竹少女歌劇団、通称SKDと呼ばれた劇団の本拠地でした。国際劇場は映画とSKDの演劇の二本立て興行だったんです。映画はすぐに変わるんですが、舞台は毎回変えるわけにはいきませんから、たとえば東京踊りという演目で三ヶ月くらい同じプログラムが続く。だから国際劇場に映画を見に行くと、映画は新しい作品なんだけど、何度も同じSKDの劇を見させられたという記憶があります(笑)。
僕の少年時代はどんどん戦況が厳しくなる世相でしたが、SKDがメーテルリンクの『青い鳥』をやっていたのを覚えています。当たり舞台でしたね。日本は西洋と戦争を始めたわけですが、ドイツは同盟国で、メーテルリンクはドイツ人だったから彼の戯曲は上演してもよかったんでしょうね。世相は西洋文化を激しく嫌う方向に向かっていたんですが、SKDの『青い鳥』だけは西洋的なメルヘンの世界でした。それはとても印象に残っています。
金魚屋 どういう映画をごらんになったか、覚えていらっしゃいますか。
山田 戦争映画が多かったです。『ハワイ・マレー沖海戦』とか『後に続くを信ず』、『将軍と参謀と兵』、『海軍』とかね。後はチャンバラものです。
金魚屋 チャンバラは検閲に引っかからないですものね。
山田 戦後はGHQが、一時期チャンバラものを禁止したことがありましたけどね。当時、『まぼろし城』という少年活劇小説がベストセラーになっていました。確か日活だったと思いますが、毎週三十分もないくらいの映画を上映するんです。たとえば主人公が吊り橋を渡っていて、向こうで悪者が吊り橋の縄を切ろうとしているシーンで「来週に続く」のテロップが出る(笑)。今のテレビのようなものですね。でも毎回映画館で見られるわけじゃないから、「ああ、ここで終わりかぁ」と思って見ていました(笑)。
金魚屋 山田さんのお父様は召集されなかったんですか。
山田 父はもう年でしたからね。僕は八人姉弟の七番目です。父は戦争に取られなかったですが、兄が召集されました。中国戦線に行かされて、復員してきましたが。ただ浅草は、空襲が来る前に延焼防止用の空き地を作るというんで、僕の家のあたりが取り壊されてしまったんです。六区は立ち退けっていうわけにはいかないから、間近な五区が壊されてしまった。でもその頃は戦争末期で、もう映画や芝居どころではなかったけれど。
金魚屋 軍国少年でしたか。
山田 それは質問にならない質問です(笑)。戦争が始まると、否応なしに日本人全員が戦わなきゃならないという意識で律せられますからね。自分は戦争に反対だから降りるってわけにはいかないんです。現実に爆弾が降ってくるような状況で、敵を愛することなんてできません。敵を愛するなんていう発想もなかったです。ましてや子供でしたから、自分も早く大人になってアメリカと戦いたいという気持ちでいっぱいでした。それは軍国少年とかそういうのではなくて、ほとんど日本の少年がそういう気持ちだったと思います。
実家があった五区が取り壊されたこともあって、東京で本格的な疎開が始まる前に湯河原に疎開したんです。転校することになって、今日で学校に来なくなるという日に、担任の先生が授業が終わってから僕を校庭の隅に呼んで「ここに座れ」って言ったんです。それで「君はお国のために家を明け渡して転校するわけだけど、実は先生にも召集令状が来てるんだ」と言った。その言葉を先生は、ものすごく寂しそうに言ったんですね。僕は「なんだ、先生のくせに」と思いました。戦争に行って戦うのは当然じゃないかと思っていたんです。当時はそれ以外のことを考えることができなかった。高校生くらいだったらまた違っていたんでしょうが、僕は小学校の四年生でしたから、アメリカが誰彼かまわず日本人を殺しに来るのだから、みんなで戦うんだという意識しかなかったです。父がなんの保証もないままに、店を取り壊されたと嘆いていても、なぜ嘆くんだと思っていましたもの。日本の子供全体がそういうふうになっていたと思います。
だから戦争はいったん起こると恐いですよ。たとえばある国が、日本のどこかの町にミサイルを打ち込んで百人くらい死んだとします。そうなるとすぐに、マスコミがその国憎さでうわーっと盛りあがりますよ。そういう状況になると、「いや、あちらの国にも理由がある」なんてことは言えないです。戦争は、戦う双方の国が傷を負うから、一度始めてしまうとそう簡単にやめられないんです。ものすごく力のある調停者が戦争をやめさせられればいいけど、どちらかが完敗するまで終わらない。その怖さを僕はとても感じています。
『終りに見た街』 山田太一著
小学館文庫 平成二十五年(二〇一三年)刊
山田太一氏が自らの戦争体験を元に描いたSF仕立ての反戦小説
金魚屋 子供の頃のお話をお聞きしたのは、僕らは物心ついた頃から山田さんを脚本家として存じ上げているんですが、あんまりテレビ業界人らしくないので、どういう形でお育ちになったのか知りたかったからでもあります(笑)。もちろんテレビ業界のことを詳しく知っているわけではないんですが、漠然とテレビから感受している業界人の雰囲気がない。山田さんは物書き人種に属しておられると思います。
山田 僕は自分は物書きだと思っています。きっと先入観もおありなんでしょうが、テレビ業界にもいろんなタイプの人がいます。ただ僕は、仕事以外の遊びでは業界からは友達を選びません。各局と仕事をしなければならないので、一定の距離を置いた方がいいんです。それは俳優さんに対しても同じです。ある俳優さんと仲良くなると、その人を頼まないと悪いような感じになってしまう。理屈としては、今回の脚本には合わないから依頼しなかったんだとは言えますが、しょっちゅう顔を合わせて飲んでいると、だんだん息苦しくなってしまいますよね。だから俳優さんと密に付き合うのは避けています。それと俳優さんは華がなきゃいけない。日常を知っていると、その人を使いたくなくなっちゃったりするんだな(笑)。長く業界にいますから俳優さんとの付き合いもありますが、最低限度の付き合いですね。
■大学時代について■
金魚屋 少し時間を進めて、大学時代のお話に移りたいと思います。山田さんが早稲田大学時代に寺山修司さんと親友だったのはよく知られています。たまたまなんですが、文学金魚では過去に、寺山さんと親しく付き合ったお二人の文学者にインタビューしています。前衛俳句作家の安井浩司さんは高校時代からの知り合いで、寺山さん主宰の同人俳誌「牧羊神」の同人でした。谷川俊太郎さんは大人になってからの付き合いですが、阿佐ヶ谷の河北総合病院で寺山さんの臨終を看取りました。文学金魚の読者は文学関係の人が多いので、是非寺山さんについておうかがいしたいと思います。
山田 同級生ですから、大学に入学したら寺山がいたんです。ただあるきっかけで彼が話しかけてきて、しゃべってみるとほかのヤツより面白いんですね。話も合いました。大学一年生の時には急速に仲良くなっていました。今振り返ると、女学生が異性と付き合う前に同性と仲良くなることってあるでしょう、そういう感じだったように思います(笑)。
女の人に対しては、寺山だって青森から出てきたばかりでビビっていたし、僕だってまったくずうずうしい方ではなかった。そうなると、付き合うのは気が合う同性が一番いいんです。二人とも今の若い人に比べて性的なことも子供だったと思うし、世間的な経験もあまりなかった。でも寺山は高校生の時から俳句同人誌をやっていて、文学仲間がたくさんいました。でも僕の方はまったくだったんです。小田原高校を出たんですが、家の仕事の手伝いがものすごく忙しくて、文学仲間はいなかった。寺山に会って、初めて刺激的な話ができたんです。
彼としゃべっていると、寺山が言ったことはあの本が種本だとわかったりしてね(笑)。寺山の方も、僕が言っていることは何かの口まねだってことを見抜いたりしてた。それで相手の知らないことを言いたいために、争って本を買って読んだりしました。自分の意見なんてまだそんなにない時代ですから、寺山が読んでいなさそうな本を一生懸命捜して読んでいましたよ。
寺山が「短歌研究」という雑誌の新人賞を受賞した時は、これはすごいヤツだと思いましたね。素晴らしい作品だと思った。その時の衝撃のせいか、韻文では寺山にはかなわないから、俺は散文で行こうと思ったんです(笑)
小原 ご著書を読んでいて感じたんですが、山田さんは詩がとてもお好きですね。
山田 ええ好きです。でも寺山の作品を読んで、自分で作ろうという気はなくなったんです。
金魚屋 山田さんと付き合っていた頃は、寺山さんはまだ「牧羊神」という同人俳誌を刊行していて、周囲の人を句会に誘ったりしていますが、山田さんは誘われなかったですか。
山田 誘われなかったですね。僕と寺山の付き合いでは、サルトル、カミュ、それにマルローなんかの読書体験の話が中心だったです。
金魚屋 寺山さんは、多面的な付き合い方をしていたんですね。寺山さんが俳句関係の友だちを紹介するということもなかったですか。
山田 なかったです。寺山の俳句関係の友だちとは、僕は会ったことがないです。僕と寺山の二人きりでいろんな場所で話をしました。コーヒーを飲む金もない時代でしたから、早稲田の甘泉園という公園で座って話したり、キャンパスのベンチや、高田馬場の駅のホームのベンチでしゃべったりしていました。でもそれが不満とか、不自由だとはまったく感じなかったですね。
そうそう、二人で早稲田の古本屋をのぞいてある本を買おうとしたんですが、少し値切ろうということになったんです。僕が言ったのか寺山が言ったのか忘れてしまいましたが、なかなかまけてくれないので、「神保町ならまけてくれるのに」と言ったら、店主が「神保町がなんだ!」と烈火のごとく怒り始めましてね。「神保町神保町といいやがって」と。二人で慌てて逃げ出したことを覚えています(笑)。
金魚屋 寺山さんは「短歌研究」新人賞応募作品を、俳句の自作旧作に七七を足して作り上げました。それを当時の俳句仲間から相当批判された。こういったことも山田さんはご存知なかったわけですね。
山田 まったく知らなかった。寺山は大学二年になると、今はもうないですが、新大久保中央病院にネフローゼで入院してしまったんです。新大久保は大学のある高田馬場から近いですから、僕は学校が終わると必ず病院に寄って、寺山と話していました。看病しているお母さんから、「修ちゃん、病気が重いんだから、そんなに長くはダメよ」って言われちゃってね。お母さんに怒られるから、病室でしゃべった話の続きをお互い手紙に書いて、次の日にそれを交換してから話の続きをしていました。そういう手紙が段ボールいっぱいあったんです。寺山の方も、九条映子さんと結婚してからも、「これは触るな」と言って取っておいてくれたようです。寺山が最初に書いた方の本には、僕との往復書簡がいくつか掲載されています。
ただ僕の所にあった寺山の手紙は、雑誌や本に掲載するために、みんな寺山に渡しちゃったんです。寺山が死んでから、ある人から「返した」と言われているんだけど、僕はどうも受け取った覚えがないんです。それはちょっと立ち入ると悪いような事情があるので、そのままになっていますけど。
それはそれとして、入院していた寺山にはお母さんが付きっきりで、僕が見ていても、お母さんは寺山の看病に集中することで生き甲斐を感じておられることがよくわかりました。でも寺山の方は、それをとても重荷に感じていたと思います。それが一生彼が一番深いところで背負っていた重みじゃないかと思います。
はっきり言うと、寺山はお母さんがいなければどんなにいいだろうと思っていた。でも実際にはお母さんの方が長生きしちゃったわけです。これは悲しいことだけど、お母さんの存在が寺山の創作力の原点になっていたのも確かだと思います。
彼は芝居で心ゆくまで母親を殺していますが、最後までお母さんを呪うというテーマを手放せなかった。それはお母さんが、根源的なところから彼を揺さぶって創作に導く存在だったからだと思います。それ以外のテーマには、そこまでの深みはなかったんじゃないでしょうか。
『月日の残像』 山田太一著
新潮社 平成二十五年(二〇一三年)刊
山田氏が家族や松竹撮影所時代、木下恵介、寺山修司、向田邦子らを回想したエッセイ集
金魚屋 寺山さんのお母さんは、若い頃の写真を見ると大変な美人ですね。山田さんがお会いになったときの印象はどうでしたか。
山田 綺麗な方でしたね。ただ僕が最初にお会いした頃は、お母さんは立川か八王子の方で仕事をしていて、それを終えてから新大久保の病院にいらしていた。くたびれている上に、洗濯物とか大きな荷物を抱えてやってくるわけですから、こう、目が吊り上がったような切迫した様子でね。恐かったですよ。
小原 でも山田さんは、毎日のようにお見舞いに来てくれる大事なお友だちだったわけでしょう。お母さんの態度はちょっといぶかしいですね。
山田 いや、お母さんの厳しい態度は無理もなかったんです。あんまり長話をしてはいけないほど、寺山の病状は重かった。寺山も僕と会っているときは、身体の調子が悪いとかそういうことは話さなかった。奇妙かもしれませんが、僕らは文学の話しかしてないんです。実際、僕も寺山も、お互いの家庭のことにはほとんど興味がなかった。寺山は自分の家庭のことは話さなかったので、僕はどうやらお母さんと二人っきりらしいというくらいのことしか関心がなかった。寺山の方も、僕の家のことに興味などなくて、ほとんど何も知らないはずです。
金魚屋 山田さんは脚本家として成功され、寺山さんは劇団天井桟敷を主宰して脚本家兼演出家として活躍されたので、漠然と想像すると、お二人とも大学時代から演劇に興味を持っていたように思えてしまうのですが、そんなことはぜんぜんなかったわけですね。
山田 学生時代は、二人とも演劇には興味がなかったです(笑)。演劇をたくさん見るようなお金もなかったですしね。それでも僕は、三島由紀夫や福田恆存の作品を見に行った覚えがあります。
■松竹入社の頃■
金魚屋 山田さんは、松竹に入って脚本家としての道を歩むことになるわけですね。
山田 そうです。でも僕は、最初は教員になろうと思っていたんです。なにか能力がなければ食べていけないですよね。それで自分はどういう職業ならできるだろうかと考えてみた。実家は食堂でしょう。親戚も商売人とかが多くて、大学に行ったのは僕一人なんです。だからサラリーマンが何をしている人たちなのか、想像してみてもちっともわからない(笑)。唯一、ちゃんと間近で見ていた職業が学校の先生だったんです。それで学校の先生ならできるかなと思ったんです。
でも卒業が近づいてくると、まわりの人の何人から「教員免許を持っていても、東京都の採用試験に受かっても、コネがなければ就職なんかできないぞ。だから教員の他にもどこかも受けておけ」と忠告されたんですね。それで松竹の大船撮影所が助監督を募集しているから、受験してみることにしたんです。
金魚屋 当時の松竹は、すごく羽振りが良かったでしょう。
山田 良かったですね。就職試験は小学校を借りて行われました。校庭に集合したたくさんの受験生に向かって、朝礼台の上に乗った古株の助監督が、「てめぇら」とか荒っぽいことを言うわけです。これはえらい所に来ちゃったなぁと思いました(笑)。僕はまあ、いろいろ受ければいいやと思っていたんですが、運良く入社できたんです。
だけど僕が入社する少し前から、古い助監督に対抗する勢力が入社してきていたんです。助監督だけは入社試験で採用していましたから。皆さんが知っている方で言えば、高橋治さんとか篠田正浩さん、大島渚さんなんかが入社して、その次の年が吉田喜重さん、石堂淑朗さんなどで、その次の年に僕は入社したんです。
当時の松竹は、助監督は上役のいない自主制で、どこの組の誰に付くかは本人の希望と回りの人の賛同で決まったんです。もちろんなかなかその通りにはなりませんでしたが、かなり近代的なシステムになりつつあって、朝礼台で「てめぇらぁ」とか叫んでいた古株の助監督は淘汰されつつありました(笑)。
金魚屋 そうすると山田さんが松竹に入った後に、気がつくと寺山さんが演劇関係の仕事を始めていたということですか。
山田 寺山がラジオドラマを書いていることは知っていました。九条さんと新婚の頃だったですが、寺山のアパートで、大きなテープレコーダーでラジオドラマを聞かせてもらったことがあります。
金魚屋 谷川俊太郎さんなどといっしょに書いていたラジオドラマですね。ラジオドラマが寺山さんが演劇界に入っていくきっかけになったんでしょうか。
山田 いや、そうじゃないと思います。篠田正浩さんの今の奥さんは岩下志麻さんですが、前の奥さんは詩人の白石かずこさんだったんです。
金魚屋 ああ、知りませんでした。
山田 白石かずこさんが篠田さんに寺山を紹介して、じゃあ脚本を書けということになった。最初の脚本は『夕日に赤い俺の顔』(昭和三十六年[一九六一年])で、この作品に、なんと僕は助監督で付いたんです。台本をもらって見たら、寺山が脚本を書いているんでびっくりしました(笑)。
金魚屋 台本をもらうまで、寺山さんの脚本だとはご存知なかったわけですか。
山田 僕も就職したばかりで忙しかったから、寺山と連絡を取っていなかったんです。『夕日に赤い俺の顔』は、十二月のものすごく寒い日に、横浜の団地で夜間ロケがありました。俳優さんたちには団地の集会所みたいなところで待ってもらって、出番になるとそこへ助監督が呼びにいくことになっていたんです。僕は一番下っ端の助監督でしたから、駆け出していって、「○○さん、お願いします」って言ったら、ストーブの真ん前に寺山が座っているんですね。あっ、と思ったんだけど、寺山の方も当惑した顔をしているし、ちょっとだけ挨拶してそのままになってしまったんですね。でも僕はその時に、ああ、世の中というのは、こういうふうに差が付いていくのかなぁと思いましたよ(笑)。僕は別に挫折したわけではなく、普通に就職して働き始めたら、最初の仕事が下っ端の助監督という仕事だったということなんですが(笑)。
僕はほかにも寺山シナリオの篠田作品の助監督をしたんですが、篠田さんが「ここはワンシーン増やした方がいいんじゃないか」と僕に聞くんで、「ええ、そう思います」と答えたら、「じゃあそこ書いてきてよ」と言われてしまった。それで助監督室に行ってワンシーン書いて持っていったら、「これで撮ろう」と言ってそのまま映画を撮ったことがあります。同じセットのまま撮影できるから効率が良かったんですね。
それからだいぶ経って、僕は篠田さんの『少年時代』(平成二年[一九九〇年])という作品のシナリオを書いたんですが、その時まで篠田さんは僕と寺山が友だちだったということを知らなかった。寺山も偉そうだと思われるのが嫌だったのか、篠田さんに僕と友だちだとは言わなかったようです。
映画『少年時代』 篠田正浩監督 原作・藤子不二雄A 脚本・山田太一
平成二年(一九九〇年)
日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞
金魚屋 寺山さんも大学は中退するわ、病気で長い間入院しなくてはならないわで、破れかぶれで仕事をしていったら、映画などの仕事が舞い込んできたということなんでしょうかね。
山田 それはどうかわかりませんけど、ある種の才能は非常にある人だったですね。ただその才能は、日常性とは結びついていなかった。つまり寺山の場合、日常にはお母さんがいる。彼は日常なんか見たくない。これはちょっと短絡的かもしれませんが、日常のことを書いているヤツはダメだといった発言などもするようになった。日常を憎んで非日常を自分のものにしていったところが確かにあると思います。
金魚屋 最初の方で軍国少年でしたかとお聞きしたのは、単純な戦争賛美ではないですが、寺山さんがじょじょに少年の日に目の前にあった、邪悪とも崇高とも呼べるような戦争がある日フッと消えてしまったことに対する、ノスタルジーのようなものを表現するようになったからです。そういう感覚が、山田さんの中にもあったのかなと思ったんですね。
山田 いや、ないです。僕は絶対的に戦争は嫌いです。
金魚屋 山田さんと寺山さんは、演劇・映画・テレビ業界で仕事が重なっていますが、ぜんぜん違う道を通って、たまたま同じ業界にいることになったわけですね。
山田 まったくのなりゆきですけど、そういうふうに言えるかなぁ(笑)。でも仲間になっていっしょに仕事をしようという感じではなかったです。天井桟敷の旗揚げの頃は、寺山が「来て」と言ったりしたものだから、ほとんどの作品を見ています。ただ一種の実験劇でしょう。半分のお客さんには何かが見えるかもしれないけど、残り半分のお客さんには何も見えないというような試みの演劇です。役者たちが観客を連れて街に出て、不意にどこかのアーパートのドアをノックしてその部屋の人の当惑を笑うとかね(笑)。僕はそういう演劇はできませんし、はっきり言えば嫌いだった。だから寺山の仲間として行動することは最後までできなかった。ただ友だちとしては面白いヤツだったし、彼の方も僕に悪意を持ったりしたことはなかったように思います。
金魚屋 意図しなかったのに同じ演劇業界にいて、しかもお話を聞くと、仕事内容もあまり重なっていないというのは、山田さんと寺山さんは、ほんとうの意味での腐れ縁だったのかもしれませんね(笑)。
小原 寺山さんについては、谷川俊太郎さんも同じようなことをおっしゃっていました。友だちとしてはとてもいいんだけど、テキストを前提とすると、批判的になってしまうと。
山田 まあ寺山のような動き方をすれば、それは当然の批判でしょうね。僕自身は、寺山については人情主義で行くみたいなところがありますけどね(笑)。
■木下恵介監督について■
金魚屋 寺山さんについてのお話はこれで終わりにしたいと思います。山田さんは松竹に入社して、木下恵介監督の助監督をなさったわけですが、木下監督から影響を受けられましたか。
山田 大学時代は木下さんの映画はそんなに見ていなかったです。センチメンタルなヒューマニズムが好きな監督だろうと漠然と思っていました。事実、そういう木下作品もありますけどね。
木下監督は大学出じゃないんです。浜松の大きな食料品屋の息子さんで、ほんとうに庶民の間から出てきた監督です。大島渚さんみたいに知的なアプローチで作品をつくる監督じゃありません。お父さんとお母さんが気に入ってくれることを大切にしていらしたと思います。ですから若い僕が全面的に好きというわけにいかなかったのは当然ではないでしょうか。でも付いてみて、やはりすごい人だなぁと思いました。
僕が最初に助監督で付いた作品は『楢山節考』でした。その仕上がりは、今見てもこんな映画はないだろうというくらいいいです。お金もかけているし、着想もいい。その後、今村昌平さんが『楢山節考』をお作りになりましたが、僕は完全に木下監督作品の方がいいと思います。今村版の最後で雪が降る中、母親をおぶっていくシーンなんかは良かったですが、それでも木下作品にはかなわないと思います。
ただ同じ深沢七郎作品でも、『笛吹川』は良くなかった。途中までは素晴らしい出来なんですが、終わりに近づくにつれ、母親の気持ちにお話が収斂していってしまうんですね。木下監督はお母さんをとても大事にされた方で、尊敬もしていましたから、母親の気持ちを描きたかったんでしょう。でもそれは、「子供が生まれるのも糞をするのも同じだ」という深沢作品には合わなかった。実際、仕上がった作品を見て、深沢さんはヘソを曲げてしまったわけです。深沢さんのような醒めた視線の方には、木下監督の映画は浅い人情話に見えてしまったんでしょうか。
無論誰にでも出来不出来はありますが、木下監督のうまくいった時は素晴らしかったですよ。映画のことを本当によく知っていた。演出もやり過ぎないですしね。映像にしても、役者が画面の端から端まで歩いているだけなのに、仕上がった映画の中に組み込まれるとすばらしかったりね。
木下恵介・人間の歌シリーズ 『それぞれの秋』 木下恵介監督 脚本・山田太一
昭和四十八年(一九七三年) TBS
金魚屋 成功作を一つ作った作家は、失敗作を三つくらい作る権利がありますよ(笑)。
山田 黒澤明さんだって、最後の方の作品は、ちょっと見るのが苦しかったです。今村昌平さんもそうだった。晩年の今村さんの作品を見て、これが今村映画かぁと思ってショックを受けましたもの。それでも僕は今村監督を合計すれば心から尊敬していますが。
小原 山田作品のスタイルは、どのようにしてできあがったんでしょうか。山田さんの代表作の一つに『岸辺のアルバム』があります。刺すような台詞が印象に残る作品です。ああいった言葉を生み出すスタイルを、山田さんはどのように作ってこられたのでしょう。
山田 自分のことに関しては、自然にそうなっちゃったって言うしかないんですが、映画界が凋落してきて、たまたま木下さんとのご縁で、今度はテレビ界で仕事をするようになったんです。じゃあ自分がテレビ界で何ができるだろうかと思ったときに、テレビは普通に働いている人たちが、特に文学などに関心がない人たちが見る。そういう人たちに向けて書けるようにならなければいけないと思ったんです。
テレビドラマでは観念的な脚本で、見た人がなんだかわからないようではいくらその観念が高度でもダメだと思いました。当たり前かな。観念とか思想が日常の中で試されなければダメという考え方がテレビの脚本を書くための武器になるんじゃないかと思ったんですね。普段から観念的な議論をしていても、それをテレビドラマとして書いてみろと言うと、書けない人が圧倒的に多い。途方に暮れちゃうくらい生活のリアリティを書けない作家が多いんです。
小林秀雄が、普通に生きている人の感覚は、観念化や大系化ができない種類のものだろうという意味のことを言っています。たとえばヒューマニズムは、人間を大事にするとか、生命を大事にするといった意味で捉えられています。でも小林はそうではないだろうと言っています。生きている人の感覚には、矛盾を含めて生活上のリアリティがぎっしり詰まっています。経済的事情など、切迫した生活上の必要性が優先される場合の方が多いわけです。そういう日々を、歳月を丁寧に生きているうちに、ある正しい方向性のようなものは自ずから生成されてくる。それは長年修行を積んだ職人なんかが辿り着くような境地に似ています。こんなことを人間がやってはいけないとか、ここまでやるのはあんまりだろうということが、生活のリアリティの中から自ずから生じてくる。小林はヒューマニズムはそういったリアリティを持った感覚のようなものだという意味のことを言っているんですが、間違いでなければ僕もそう思います。
テレビドラマは、そういう生活のリアリティがなければダメだと思っています。目指しているといってもいい。。テレビドラマの脚本は、できるだけわかりやすいものが求められるんですが、そうすると陳腐なものになってしまうんですね。もちろん善と悪がはっきり分かれた勧善懲悪の娯楽作品もありますが、少なくとも僕はそういった作品を書きたくない。できるだけ普通の世間の常識を揺さぶるような作品を書きたいんです。見ている人全部に理解してもらえるかどうかはわかりませんが、そういった作品を志しています。
『岸辺のアルバム』 山田太一著
初版 昭和五十二年(一九七七年)刊
単行本刊行と同年にTBSでドラマ化され高い評価を受けた
小原 山田さんが、生活のリアリティを通過した思想を表現なさろうとしていることはとてもよくわかります。それは一方で、山田さんがとても高い抽象思考をお持ちだから可能なんじゃないでしょうか。詩がお好きだというのも、そのあたりに関係しているのかもしれない。お書きになった『藍より青く』の主題歌の歌詞、よく覚えてます。うんと小さい頃に放映されていたドラマですが。
山田 僕は詩人ではありません(笑)。ただ生活のリアリティと抽象思考でいうと、僕が下町生まれだということが影響しているんじゃないかな。下町にはいろんな人がいて、悪い人だと言われていても、付き合ってみるといい人だったりするんです。その逆に、ものすごくいい人がエゴの塊みたいになっちゃうこともある。それと戦争体験ですね。戦争の時の日本人の嫌らしさは、子供でしたがひしひしと感じました。それは決して他人事ではなく、僕自身が何かを主張しようとするときも、「そんなことを言える俺か」と自問してみるんです。それから人間って、結局は死んじゃう存在なんだなぁという考えがもう一方にあります。
ガルシア・マルケスに『百年の孤独』という小説があります。最初は十数人しか住人がいないマコンドという架空の町が舞台なんですが、だんだん大きくなって、革命が起きたり銃殺があったり、ものすごいことになっていきます。あの小説でマルケスが何を書いているかというと、人間一人一人の孤独を書いているわけです。百年分の孤独を書いている。この人がこう思っているけど、あの人はそうじゃないとか、こっちは好きだと言っているのに向こうは嫌いだとか、あり得ないような誇張をしながら書いている。そして百年経った頃に、マコンドという街は消えちゃうんです。百年間にぎっちり詰まっていた沢山の孤独は忘れられ、それを記録した書類もなくなってしまう。ラテンアメリカだから、そういう想像ができるんでしょうか。スペインの統治以前に、今ではもうわからなくなってしまったある土地の歴史がある。それがすべて忘れられてしまう。日本的に言うと諸行無常です。でもそれは特別のことではなく、すべてが無に帰してしまうような無常を僕らの社会も抱えているはずなんです。
戦争の時がそうでしたが、ちょっと世の中がきびしくなると、人の善意なんていうものはすぐになくなっちゃいます。人間はエゴの塊になって、他者に対するイジメも露骨になる。今みんないい人でいられるのは、ここ何十年かの生活上の余裕があるからです。だから僕は今の人たちの善意の大半を信用してないな(笑)。もちろん自分の善意なんていうものも信用していません。人間は本質的に恐ろしいものだと思います。
僕はあるところで「絆」っていう言葉が嫌いだといいました。絆なんて、軽く口にしてはいけない。長い年月をかけて、ようやくできあがる。それを大地震があったからって、いきなり絆だなんて言い出すのは空疎ですよ。言葉がいかにも安っぽい。
山田太一氏と文学金魚で『文学とセクシュアリティ』を連載中の小原眞紀子氏
金魚屋 なかなか言いにくいですが、それは誰かが言わなければならないことでしょうね(笑)。話はちょっと変わりますが、山田さんの代表作の一つに『ふぞろいの林檎たち』があります。あれは人間の多面性を表現した作品で、山田さんの思想が表現された作品だからヒットしたのではないかと思います。また多様化し始めた時代に合っていたのかもしれません。あの作品を書いていたときに、時代の波を捉えたという感覚はありましたか。
山田 うーん、それはどうかな。でも書きやすかったですね。僕は東大を出たエリートではないし、生まれも下町で東京の外れ者ですから、『ふぞろい』のような、少し劣等感を抱えているような人たちにシンパシーがあるんです。
(2014/08/08 後編に続く)
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